第四回 清明

 「今戻ったぞ!」

「殿下、お帰りなさいませ」

「車はどうした?」

「いつ頃お帰りになるか分かりませんでしたので、今はまだ車停にございます。今、馬を繋がせている最中ですので…」

「面倒だな…馬を一頭引いてきてくれ。それに乗って帰るよ」

「鞍を持っていませんので」

「…お前、最近随分とやり口が悪辣になったのと違うか?」

「失念しておりました。申し訳ありません」

「ふん!いつか必ず鞭打ちにしてやるからな!」

「多分もう千回分くらい溜まってると思います」

「ほぉん?じゃあ明日にでも執行してやろうか」

「私が死んでもいいなら構いませんよ」

「…狡い言い方はやめろ」

 不機嫌そうな面持ちで、不承不承宝燈は、やってきた馬車に乗り込みました。

「おい、韋黯」

「はい」

「邸に戻ったら、お前に罰を与える事にする」

「分かりました」

 その声は、本当にそうしてやろうという悪意のものではなく、寧ろ韋黯を心配し、気遣う様な色の濃いものでした。

「(お前がいなくなっては困るのだ。今やたった一人、心を許せる者なのだから)」

 そう言葉をかける事さえも容易ではありません。身分もそうなのですが、彼にそう伝えようとする度に、波立つ心がそれを制止してしまうのです。

「…馬鹿者が」

「えっ!?」

「なんでもない!」

 ぷいっと車の中でそっぽを向く宝燈、その顔はほのかに赤らんでいました。


 「間も無く王府に着きますよ、殿下」

「ん、ありがとう」

「ええと…ん?」

「どうかしたか?」

「門の前で何かあった様です」

 そう言われて前を見直してみると、確かに邸の前で言い争う声が聞こえます。どうやら、屋敷の門衛と、庶民らしい男が口論している様でした。

「だから郡王殿下に一目でもって言ってるだろ!」

「殿下がお前の様な下賤なものにお会いになるわけがないだろう!」

 この様に身分や立場を嵩にきた言動は、宝燈の最も嫌うものの一つです。

「こら!何をしている!」

「へっ!?」

 唐突に響いた主人の声に、門番はびくりと驚きます。そして、その声が近くの馬車から聞こえてきた事に気がつくと、慌てて膝をついて迎えました。

「お、お帰りなさいませ」

「ただいま」

 宝燈はひらりと馬車から降りると、兵士の前に立って言いました。

「いつも言ってるじゃないか。そうやって身分を盾に威張り散らしてはいけないと」

「申し訳ございません、殿下」

「素直に留守だと言えばいいものを。次から気をつけろ。それで、この者は?」

 宝燈の問いに、跪いていた庶民風の男がすかさず答えます。

「江夏王殿下に拝謁致します。わたくしは春門街で小さな点心の店を開いております者で、この度は殿下にお礼を申し上げるために参上致しました」

「礼?寡人に?」

「はい」

 顔を上げた男は、にひひ、という声が似合う様な笑顔を浮かべて言葉を続けます。

「今朝方、江夏王殿下が李丞相相手にやり合ったではありませんか。実は、最近あの男の暴戻ぶりに町の皆はほとほと困っておりまして…。それをお若い殿下がやり込められたので、痛快だと話し合っておりました」

「あー…そういう事か。別に礼など不要だ。あれは国法に従い、道理を正したまでの事。礼を言われては、まるでそれ目当てのことと思われてしまう」

「それでも、殿下は民の心に沿って下さいました。臣共で用意致しました、こちらをお受け取り下さいませ」

「これは?いい匂いがするが」

「小豆餡入りの包子、芝麻球ごまだんご、月餅等、甘い点心の詰め合わせでございます」

「おお!本当か!?」

 ついさっきまで、国法がどうたらと言っていたのにも関わらず、甘い物の話になると宝燈は目の色を変えて喜びます。

「そういう事なら、うん。頂くとしよう。なあ賢弟おとうと

「良いんじゃないでしょうか」

「うむ。では、ありがたく頂こう」

「どうぞ」

 高く差し出された包みを嬉しそうに受け取った宝燈は、もう一度男に礼を言って名を尋ねます。

「馮と申します。春門街に日が登ってから落ちるまでの間店を出しておりますので、お近くに寄られる際は是非とも」

「覚えておこうじゃないか」

「ありがとう存じます」

「それから」

「はっ!」

 ついさっきまで口論をしていた兵士の方に、宝燈は目を向けて、

「お前はそうだな…今日のところは公然と罰は与えない。ただ、次同じ事をやったら一週間便所掃除をさせる。覚えておけよ」

「承知致しました!」


 「ご主人様のお戻りです!」

 宝燈が門をくぐって邸に入ると、側にいた家臣や奴婢達が頭を下げて出迎えて来ます。

「ありがとう。すまないが、着替えの前にやる事がある。誰か王尚父じいやを居間まで呼んで来てくれ」

「承知しました」

「賢弟、お前もだ」

「はい」

 さて、二人で居間に戻ってみると、驚いた事に既に王猛は席に着いていて、宝燈の帰還を待っていました。

「お帰りなさいませ、殿下」

「尚父!なんと、呼び出す前にもう待っているとは」

聖上おかみ直々のお呼び出しとなれば、只事ではありますまい。一同気を揉んでおりましたぞ」

「苦労をかけるな。ちょっと待ってろ」

 宝燈は近くにあった大きめのお椀を引き寄せて、その中に点心を開けると、三人のちょうど真ん中に置きます。

「それじゃ、ちょっと報告を聞いてもらおうか」

「承ります」

 宝燈は、朝に李乾坤と諍いを起こした事、それが為に天子に呼び出された事、一応はお咎め無しという事になったが、恨みを買ってしまったかもしれないという事をかいつまんで伝えました。

「太子殿下からご助言を賜ってな。お前に相談してみよと」

「左様でございますか」

「咎めないのか?」

「いえ、此度の事につきまして、殿下に非は一切ございません。どうして咎める必要がありましょうや」

「そうか、うん。それは…ありがたい。それで、寡人の為に策をなにか立ててくれるか?」

「お任せあれ。臣は殿下のお祖父様の代から江夏王家にお仕えしております。宮中の累が殿下に及ばぬ様、数十年間勤めを果たして参りました。李乾坤の様な小人に、殿下を傷つけさせは致しませぬ」

「実に頼もしい、嬉しく思うぞ。…で、どの様な手段を取れば良い?決して今、李乾坤と干戈を交えようとは思わぬ。どんな方法でもいい、奴の目を我々から逸らすにはどうしたらいいのだ?」

「最も簡単な方法は、奴に賄賂を贈ることです」

「思ったより単純だった!」

「とはいえ、大っぴらにしては殿下のお名前に傷が付きますから…。誰ぞ、適当な臣下の名義を使って売官の申請をしましょう。寄付と引き換えの叙任なら、国の法律でも認められていますから」

「郡王の家臣なら、主人に頼れば良いだろうと言われないかな」

「殿下の性格上、ご自身の力を使って法を捻じ曲げたり、天子との繋がりだけで栄達する事は好まれないでしょうから、問題はありません」

「確かにそれもそうだな。素直に法に従って行えと言うだろう」

「この場合、李乾坤は戸部尚書も兼帯していますから、非常に都合が良いですな。一先ず銀子五百両程納めて、京県員外尉の叙任を依頼しましょう。どうせ、売官用に濫発されていますから、すぐに通るはずです」

「五百両も必要なのか!?」

「正確には、官職自体はそこまで高くありません。李乾坤がはねる上前の量を増やしているだけです」

「成程…で、誰をダシにして叙任を申請するつもりだ?」

「……」

「……」

「え、殿下?王尚父?どうして私を見ているんですか?」

「賢弟、良かったな。官職が手に入るぞ」

「私をダシにするおつもりですか!?」

「韋務直殿は今年十九歳、出身もかの韋将軍の四番目のお子様。そろそろ叙任の一つや二つはあっても良い頃ですな」

「そりゃ確かに兄上達は蔭位で叙位任官を受けておりますけども!」

「じゃあお前も官職を受けた方がいい。来年二十歳になって蔭位も貰える事だし、な?」

「私はあんな奴の家に行くのは嫌ですよ!」

「頼むよ、この通りだ賢弟」

「うっ…分かりましたよ。もう…。その代わり、きちんと書類とか作って下さいね!」

「勿論だ。しっかり準備させる。誰か、絹を此処へ持ってきてくれ!」

「では、第一の策はこれで宜しゅうございます。続いて二つ目の策を打ちましょう」

「ふむ。確かに賄賂だけでは些か小さいな」

「殿下、来月には清明節の宴がございます」

「そうだな。今年は冬が長かったから、梅と牡丹と桃が、一度に咲く珍しい宴になるぞ」

「それに殿下のお名前で李乾坤を招待しましょう」

 その途端、宝燈の顔色が変わります。さっと頬に赤みが差し、目に怒りが現れました。

「尚父、それは正気で言っているのか」

「はい。宴に代替わりした新王の名で奴を招待し、変わらぬ友好を図る姿勢を見せるべきです」

「…賄賂を贈るのは良い、そのくらいの汚さは呑むつもりだった。だが、この清らかな庭園を奴で穢したくはなかったぞ」

「……」

「それに、あの宴はご先祖様をお祭りする清明節の終わりを記念し、盛大な宴によってその徳を称え、子孫の繁栄を感謝する為のものだ。歴代の王が受け継いできた大切な行事だぞ。それを…っ!」

「殿下、先王もそのまた先王も、その様な手を打って来られました。太平の世で、とかく領地を持つ功臣の末裔は疎まれるもの。ほんの僅かな無礼でさえも取り潰しの口実となります故…」

「分かっているよ。皆を守る為だ、分かっているが…。どうにも、割り切れぬものもあるのだ。理解してくれ」

 その時、一人の家人が命じた絹を持って部屋に入ってきます。宝燈はそれを受け取ると、大きく息を吐いて、一旦心を落ち着かせました。

「まあいい。今は眼前の事を考えよう。尚父、蔵の鍵を渡す。二番目の蔵の奥に、赤い布が打ち付けられた金庫がある。そこから銀子を五百両出させてくれ」

「承知しました」

「後は、贈り物の茶と染付の皿もだ。景徳鎮の一番上等な奴をくれてやる。寡人は此処で賢弟の為の申請書を作るから、すぐに正装して来い」

「分かりましたけど…あくまで私が叙任を奏請するのに、大丈夫ですか?」

「今回の場合は、裏が見抜かれないと困るのだ。だからあえて王家秘蔵の一品を出してやるのさ」

「なるほど。ちなみに二番目の蔵のあれは…」

「歴代王の個人的なヘソクリだ。銀子だけで一万両はあったはずだから、五百両は大した金額にはならんよ。分かったらほら、さっさと行ってこい」

「はい!」

「…儘ならぬものだ。全く」

「殿下、お忘れになってはなりませぬ。宴に先立つ清明節の当日には、聖上が陵墓で執り行われる祭祀でも顔を合わせることになるのですぞ」

「その他にも、宴や行事が二月の終わりから三月の上旬は目白押しか。昨年は服喪を口実にしていたが…しっかりこなそうとすると、こんなにも辛いものとはな!」



 さて、韋黯が正装に着替えて戻ってくると、宝燈は彼に書き上がった申請書を渡してやります。

 江夏王府臣下 従九品下将仕郎 韋黯

 父 正四品上一等子 忠武将軍 韋叡

 主 従一品世襲郡王 江夏王 李宝燈

「こいつを持って李乾坤のところへ行ってこい。きちんと員外尉と伝えろよ」

「はぁ…でも、在宅なんでしょうか?宮中に居ましたよね?」

「まあ、多分いるだろう。政務までの時間にはまだ余裕があるからな。居なかったら、書類と進物だけ置いて帰ってきてくれていい」

「そんな適当な…」

「まあ、礼儀に適うならなんでもいいぞ。あと、丞相府へ行くのは無駄だから、必ず私邸の方へ行くように」

「分かりました。でも、急に素直になられましたね。朝の気分なら絶対にこんな事なさらないはずなのに」

「…寡人は確かに誇りを大切にする。だが、それが為にお前達が惨禍を被ったり、歴史ある王家が絶える事だけは絶対に嫌なのだ。だからこそ、こうしてやりたくもない手を打とうとしているわけだ」

「太子殿下に何か…」

「うん。そう脅しつけられた。あの方は何もかもお見通しの様だったよ」

「……」

「まあ、あれだ。突然変節したと思われるのも嫌だから、お前だけには理解しておいてもらえると…」

「はい、勿論です」

 そんな風に会話をしていると、王猛が広間へ戻ってきました。後ろでは、家人が重たそうな箱を二人がかりで持ち上げています。

「殿下、贈り物は用意が整いましたが、叙任料の方だけご確認をお願いします」

「分かった。そこへ置いてくれ」

 ごとん、と音を立てて置かれた箱を開いてみると、中には大きな馬蹄銀が十個収められています。

「五十両の銀子が十個、間違いないな」

「ありがとうございます。では、馬車へ積み込ませますので、韋殿もおいで下さい」

「あっ、はい」

「頑張ってこいよ、賢弟」

「…あの、殿下?」

「何だ?」

「行くのはもういいんですけど…どういう言い訳を私はすればいいんですか?」

「?」

「ですから、私が官職を買いたい理由は何にすればいいんですか!?」

「………あっ!」

 さて、結局良い理由は思いついたのでしょうか。一先ずこの話はこれまで。


 日が中天を少し過ぎた頃、韋黯は馬車に進物を乗せて、自身も馬に乗って都の東北にある李乾坤の邸へと向かいます。

「(丞相を尋ねるのに、どうして丞相府じゃないのか)」

 訝しく思う彼でしたが、実際李乾坤は普段から丞相府にいる事は殆どありませんでした。何しろ、昨今政は皆悉く李乾坤の私邸で決裁されていて、諸大臣らは自身の府庁や朝堂ではなく彼の邸に参集して政策の討議をしていたのです。

 今日の様に、形式だけ朝廷が開かれる事はありますが、政策が議論される事はなく、事前に李乾坤が自邸で決裁したものを上奏し、それに皆が賛成して天子の裁可を仰ぐだけで終わってしまいます。その様な状況であっても、天子は李乾坤を信用することすこぶる厚かったので、たとえ太子といえども文句を言うことはできなかったのでした。

 宝燈はその様な憂うべき現実を少しながら知っていたので、わざわざ私邸へ向かう様に韋黯に忠告をしたのです。

「(まあ、確かに丞相府を尋ねても、陳丞相みたいな代理が一人いるくらいだろうなぁ)」

 彼もその様な状況は知ってはいるのですが、それでも真っ当な感性を持っていましたから、丞相が丞相府に居ない事に釈然としないものを感じていました。

「韋大夫、前をご覧下さい」

「どうかしたかな?」

「道が混み合っていますが…恐らく」

「ああ。うん、どうやら丞相は間違いなくご在宅の様だね」

 後ろの御者に言われて前を見てみると、狭い道路に大量の馬車や、諸貴族の従者等が詰めかけていて、大渋滞を起こしています。

「みんな丞相へお目通りしたい者達でしょうか」

「それ以外にありえないね。…栄国公、秦国公、常寧王に琢郡公。この国を代表する貴族達の車が大渋滞を起こしているとはねぇ」

「こちらも江夏王府の旗を借りてくるべきでしたかね」

「流石にそれは不味いけど…。ううん、寒門韋氏の名前では、一万年経ってもお会い出来そうにないね」

 前に並んでいる貴族達は、皆世襲爵位を持っていたり、皇族に連なる者達ですから、家格で言えば韋黯など足元にも及びません。とはいえ、帰るわけにもいきませんから、ひたすら待つ事にします。

「城陽公様、お入り下さーい!」

 門の中から名前を呼ばれた貴族が馬車や駕籠で乗り入れると、入れ違いに今度は別の馬車が出て来ます。

「車輪の音が違いますな。軽い音です」

「中身を下ろしたんだな。随分重たそうな中身だったけど」

「人でしょうか?それとも…」

「どっちにしても重い事には変わらない」

 けらけら、と二人で笑い合っていると、門の中から一人童子が出てくるのが見えました。彼は軽い足取りで車や駕籠の間を抜けて、こちらへやって来ます。

「あの、ちょっといいですか」

「どうかしましたか?」

「ご主人様のお言いつけで、お客様のお名前と官爵、それからご用向きをお伺いする様にと」

「ええと、名前と身分はここに。今日は丞相に叙爵のお願いをしに参りました」

「はい、確認致します。『江夏王府臣下、従九品下韋黯、父一等子爵韋叡』…。あの、失礼ですけど、この従九品とは、貴方様の位階でございますか?」

「ええ。そうですが」

「でしたら、丞相へのお目通りは難しいかと」

「なっ、どうしてですか!?」

「此方にお出での方々は、皆ご本人も有爵者でいらっしゃいますし、家格も大変に高くいらっしゃますので…」

 童子がそう言うと、周りからは押し殺した様な笑い声が聞こえて来ます。

「寒門出の四男坊…」

「主人の身分しか取り柄がない…」

「世襲爵さえ持っておらんのか…」

 いくら何でも会う事さえ出来ない、というのでは宝燈に合わす顔がありません。

「そこをどうかお願いしたいのですが…」

「とは言っても、そう簡単にお取り次ぎする事は出来ないんですよ…」

 そんな、と言葉をつづけようとした韋黯でしたが、ちょいちょいと御者が彼の袖を引っ張ってそれを留めます。

「大夫」

 そして、御者の一言と視線で彼は、今何をするべきなのか、何を求められているかを明敏に察知しました。

「…わかった、じゃあこれで頼むよ」

 ゴソゴソと懐を探して、見つけた十銭ばかりを握らせてやると、仕方ないなぁと言いたげな表情で、童子は邸へ戻って行きます。

「今、俺は汚れたかな」

「ご立派ですぞ」

「江夏王府臣下、従九品将仕郎韋黯様!お入りください!」

「ならいいか」


 さて、少し遡って、李乾坤の側では。

「では、何卒宜しく」

「ではな」

「次はどなたを引見されますか?」

「ふむ…爵位の上では、次は県公級という事になるが…間も無く宮中へ戻らねばならん」

「左様で」

「全く、帰ったとなればすぐにこれだ」

 李乾坤がため息をつく隣で、楊釗が興味深そうにその様子を見ています。

「(ついさっきの公爵、息子の官職に箔を付けるために、名ばかりの龍禁尉に千五百両も出していった。その前の奴は、孫に貢生の身分を買う為に一千両…金はある所にはあるものだな)」

「楊釗、次で引見は最後にしよう。誰を呼び出そうか」

「やはり、序列に従って…来陽公あたりを…」

「ご主人様、お客様のお名前をお持ちしました!」

「読め」

「はい。江夏王府臣下、従九品下将仕郎韋黯。父、正四品一等子爵、忠武将軍韋叡、主は従一品世襲郡王、江夏王李宝燈様です」

「ほう、江夏王殿下の」

「いかが致しましょう、丞相。彼は身分の上では寒門の出、当人も無爵無官です。童試にも合格できていない様ですが…」

「……いや、会おう。江夏王府の臣下となれば、例え童試にも合格できぬ奴だとしても、粗略には扱えぬ」

「しかし…」

 言いかけて、楊釗は韋黯が送り込まれてきた裏を察知します。

「分かりました。おい、韋黯殿を此処へ!」

「はい!」

 童子が外へ飛び出して行き、程なくして客を呼び出す係の者の声が聞こえます。

「あの郡王、存外早かったのう」

「ええ」


 「少々お待ちになって下さい。間も無く、主人がお呼び致します」

「はい」

 呼び出された後、韋黯は御者とは別れて、身一つで邸の奥深くにある小さな部屋で待たされていました。

「(江夏王府よりも広いんじゃないか、この邸。わざわざ城外に建てるだけあるな…)」

 李乾坤の邸は朝安東北部、身分の高い貴族や親王が邸宅を構える京都の第一等地にあり、その規模は京都最大と言っても過言ではありません。辺りには、邸で働く奴婢達や、調度や品物を作って納品する人々の家が立っていて、ちょっとした地区を形成しています。

「(俗に、『丞相街』と呼ばれるだけはあるな、本当に)」

 と言っても、広壮な邸に似合わず丞相本人は少々気の小さいところがある様で、邸の中は武装した何人もの兵士が巡回し、壁は何重にも廻らされ、下は石畳で覆われています。

「(噂に聞けば、当人も寝床をあちこちに変えているらしい。この広い邸だ、従者達も探すのに苦労するんじゃないかな)」

「韋大夫、此方へ。丞相がお待ちです」

「はい。ありがとう存じます」


 邸のさらに奥深く、恐らくは最も警備の厳重な部屋の前、

「丞相、お客様をご案内しました」

「入れろ」

「失礼致します」

 老いて尚、威厳と凄みをたたえた声が、韋黯を呼びました。

「江夏王府臣下韋黯、丞相に拝謁致します」

「面を上げて、近う寄れ」

「恐れ入ります」

 顔を上げてみると、もう一つ見覚えのある顔が丞相の隣にあります。

「ああ、この男は楊釗。監察御史をしておるが…江夏王府の者なら知っていよう」

「はい。先王の福普おくさまの甥殿でいらっしゃいますね」

「父は楊家の長兄、叔母上は末子でございましたので…」

 楊釗は顔こそ笑っていますが、抜け目のない鋭い視線を隠しきれていません。

「(興味津々って感じだな…)」

「さて、韋黯殿。一体どのような用向きでここまで来られたのか」

「はい。本日は丞相に、京県員外尉への叙任をお願いするべく参上致しました。申請書は既にお渡ししておりますが」

「受け取っておる。受け取っておるが…ふむ、其方はあの韋将軍の息子か。今年幾つになるか」

「十九です」

「であれば、来年には蔭位を受けられよう。態々急いて官職を求める必要もあるまい。それとも…何か理由でも?」

「(やはりそう来るか…)実は、私の三人の兄は既に叙位と任官を受けております。私一人が未だ無職でして…。その、一族中で大変に肩身が狭く…」

「なるほど。それで、位階はどうした?」

「寡君…当代の江夏王殿下が十歳を迎えられた際に、功績に報いるとして、先王より賜りました」

「成程。つまりお前は、科挙にも受かれず、兄弟にも及ばず、それでもなんとか見栄を張るために官職を買おうと言うのだな。ん?」

「…言葉もございません」

「いや、別にそれは良い。何しろ、そんな連中がよく来るからな、ここには。だが、気になるのは其方が何故に主君に頼らぬのかということだ。官位もそうだが、其方の主君は郡王ではないか。官職にしても、直接聖上に申し上げれば良かろうに、自ら膝を屈して、単なる形式だけの職の為に五百両という大金をかき集めてまで願い出に来るとは…」

「大変恥ずかしいお話ですが…寡君に申し上げたところ、『何の功績もなしに叙任を受けようなどと虫の良い事を言うな。法に従って、自分で金を納めて叙任を願え』と叱り飛ばされまして…」

「ふん、江夏王殿下らしいな。だが、其方も其方よなあ。ついさっきも聞いたが、五百両といえば大金だ。十九の若輩が払える額とも思えない」

「……」

「やはり、単なる見栄だけとも思えんのう…」

「…丞相は、ご賢察でいらっしゃいます。その通りです、先程は申し上げませなんだ理由がございます」

「ふむ。それは?隠し立てせずに申してみよ」

「それは…」

 韋黯は息を吸って、吐いて、胸を張って口を開きました。

「結婚の為です。丞相」

「「結婚?」」

 そのあまりに予想外の回答に、李乾坤と楊釗の表情が一瞬空洞になります。それを逃すまいと彼はさらに言葉を続けました。

「私の韋氏は、代々の貴族ではなく、父が科挙に及第した事に始まる寒門です。爵位も本来無ければ、官職に就いたことさえありません。…そんな家の四男坊、この歳になっても童試にさえ合格できない男に、嫁に来ようとする人などいるはずがありません…!」

 惨めさが、悲しさが、全てが込められていました。文字通り、その中には真があったのです。

「せめて、せめて僅かの官位と職で箔を付けたいと…そう思い、長く貯めてきた蓄えを掻き集めて来たのです。何卒、何卒…」

「……そう頭を擦り付けんでも良いわ、よく分かったわい。必死なのだな、お前も」

「はい」

「よく分かった。銀子はしっかりと収公し、聖上から然るべく任官のある様に奏請しよう。そして、進物も有り難く頂戴する」

「ありがとう存じます!ありがとう存じます!」

「何、万事任せておくがいい。江夏王殿下にも宜しく伝えてくれ」

「はい、心より感謝申し上げます」


 「…楊釗よ」

「はい」

「どうだった、あの者は」

「見え透いておりますな。此度の事、明らかに江夏王殿下のご意思でしょう」

「だろうな。王猛辺りが助言したのだろうて」

「にしても、結局最後まで主君が関係している事を言いませんでしたな。いかが致しましょうか」

「一先ず、あの者にはしっかりと官職をくれてやろう。それから…あの者の帰り際に、手紙を託す様に伝えてある」

「あの手紙ですか」

「江夏王とて、この程度の策略は見抜かれると承知の上だろう。王猛は言うまでもあるまい」

「その上で利用なさる、と」

「そうだ」

 果たして宝燈と李乾坤の暗闘はどの様に進んでいくのでしょうか。続きは次回にて

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