第三回 明皇

 「殿下、一体何度お話しすれば分かって頂けるのですか!王長子の頃から殿下は…」

「ああもう、分かってるよ王尚父じいや。これからはきちんとするって」

「いいえ、それは聞きませんぞ!一体何度同じ嘘をわたくしにおつきになられましたか!」

賢弟おとうと寡人わたしを助けて…」

「ダメです、殿下。素直にお説教を…」

「韋務直殿!貴方もですぞ!」

「げっ!」

「貴方は殿下のお側にお仕えしながら、一言もお諫めしないとは何事ですか!」

「で、殿下…」

「ダメだ。素直にお説教を受けよ」

「どうして私が悪いんですか!」

「お前だって寡人に反対しなかっただろう!」

「嘘付かないでください!」

「お二人とも!今日は朝ご飯抜きですぞ!」

「「ええーっ!?」」


 朝ごはんを抜きにされた宝燈と韋黯は、空いたお腹を抱えながら邸内に入ります。

「お前のせいでご飯食いっぱぐれた!」

「違いますー殿下のせいですー」

「こいつ…!王侯への礼儀を教えてやろうか!?」

「あっ、そんな事するならご飯代わりの点心おやつ買って来てあげませんよ?小豆餡入りの包子パオズ、私だけ食べますから」

「狡い!寡人にも寄越せ!」

「あの、殿下?」

「うるさい!なんだ!」

「ひっ…あの、まずはお召し替えを。その後に王大夫に秘密で何かご用意致しますので」

 それを聞いた途端、宝燈は機嫌を直し、笑いながら言いました。

好好よしよし。いやあ、持つべきは忠実な臣下よのう。お前も見習えよ?」

「はいはい」

「お前、名前は?」

「林史明と申します」

「よし、後で褒美をやろう。そうだな…今日寡人が獲って来た鹿肉の上等なところをお前用に分けておく。今夜の夕飯にするがいい」

「ありがたき幸せにございます」

「それじゃ、寡人は着替えてくるから、広間の方で待っていてくれ」

「分かりました」

「…言っておくが、覗くなよ?」

「まさか。男の着替え覗いて何が楽しいんです?」

 その答えに対して、宝燈は不機嫌そうに、ふん、と鼻を鳴らして足早に去ってしまいます。


 私室に入った宝燈は、側に誰もいない事を確かめて、厳重に鍵をかけます。その後、鏡の前に立って自分の顔を見つめました。

「男の着替え、か」

 ほんの僅かに不機嫌さが含まれた声です。自分の本性が露見していない事は喜ぶべきですし、彼が言った事は至極真っ当な事です。

「(なのに、胸につっかえたものがあるのは何故だ)」

 彼が宝燈に、同性の友として接してくる度に、喜びとそれに相反する小さな感情が立ち上ってくるのです。

「あまりにも虫が良すぎるだろう。なあ?」

 宝燈は鏡の中の自分に問いかけました。は、どの様な顔をしていたのでしょうか。

 普段着に着替え終わった宝燈は、韋黯のいる部屋に戻ろうと、庭の池に面した廊下に出ました。そして、ふと手のひらを見ると、早咲きの花の花弁が手の上に載っています。

「風に乗って来たのだな」

 そうぽつりと呟くと、花弁はまた風に乗って飛び、今度は池に落ちてしまいました。

「……」

 その後を追って池の水を眺めると、そこには自身の顔が映ります。

「(己の顔を見るたびに、考えずにはいられないものだな)」

 悪い言い方をしてしまえば、宝燈の悩みの全ては、ある種父のわがままから発しているのです。他に妻を持たなかった父王が特別なだけで、祖父も曾祖父も、皆側室を持っていました。その子孫達は無論まだ生き残っていますし、男児の数も多い筈です。

 仮に自分に子がいなくても、血縁の者を養子にとれば万事済むはずでした。

「それ程までに父王は、寡人を王位に就けたかったのだろうか」

 だとすれば、何と迷惑な事だろう。仮に天子や世間を欺けたとしても、彼自身の身体の成長を欺く事は決してできないのです。

 大人へ近づく兆候が次々と現れ、心も身体も仮様の性別からはどんどん乖離して行きます。

「寡人は、寡人は一体…」

 どちらなのだ?その問いを、宝燈は飲み込まざるを得ませんでした。


 「待たせたな」

「ふぁ、どふも…んぐっ。殿下」

「お前、主人より先に手を付けるとはいい度胸をしているな。ん?」

「いいじゃありませんか。遠乗りにだって付き合って差しあげましたし」

「二個目の包子を口に入れながら言われると、尚のこと腹が立つ」

甜点心あまいものはもう無いかも知れませんね」

「なんだと!」

「あっ!食べかけなのに分捕るなんて!」

「うるふぁい…むぐっ、ふぉまへふぁ、んぐっ。お前が食べ過ぎるから悪いんだ」

「一個しか食べてませんよ!」

「だったらもういいだろう。鹹点心ふつうのやつを食っていればいい。油炸鬼あげもちは美味いぞ?」

「なんで殿下に独占させなきゃいけないんですか!」

 などと言い合いながら、競って点心を頬張る様は、やはり何処にでも居る兄弟の様に見えます。例え王侯といえども、やはり人間の子ということでしょうか。

 一通り食べ終わると、お腹いっぱいになって眠くなったのか、宝燈はごろんと横になり、ぼんやりと庭園の大きな池と、あちこちに植えられた花の木々を見つめています。

「そういえば、もうじき牡丹の咲く季節ですよ」

「んぁ、そうだな…」

「今年は清明節の宴はやるんですか?」

「どうかな…牡丹だけじゃなくて、他の花も咲くか分からないから…ふわぁ…。朝から馬に乗ったから眠い…」

「ほんとに、気まぐれな方ですね。東海の姫国からの桜の様です」

「どぉいう、意味…」

「よいしょっと」

 眠たげな宝燈を慣れた様子で抱えると、韋黯はそのまま寝室の方へ運ぼうとします。

「まて…」

「どうなさいました?」

「ここがいい。風がきもちいいから…」

「…分かりました」

 彼は宝燈を下ろすと、風邪をひかない様にと掛け布団を用意させて、身体に掛けて自分も横になります。夢うつつの主君の背中を布団の上から軽く撫でると、気持ち良さげに顔を緩めて、本格的に眠りに落ちてしまいます。

 邪魔しない様に、と彼は宝燈の冠と簪を外して側に置くと、自身は手近の厨子から分厚い本を出して読み始めました。時折ちらりと様子を確認すると、だいぶ深い眠りに入ってしまった様で、ぴくりと身じろぎこそしますが、起きる気配は全くありません。

「ほんとに幸せそうですね…」

 すぅすぅ、と寝息を立てるその顔は、仕え始めた頃の、純粋で幼かった様子と全く変わっていません。

「こうして眠っていられる事が、どれだけ幸せな事でしょうか」

 ぽつりと零したその呟きを聞いていたのは、庭園の木々だけでした。


 少し時間が過ぎて、日が中天に登った頃。宝燈は慌ただしい足音で目を覚ましました。

「ん、ふぁ…ぁっ。何かあったのか?」

「聞いて来ましょう」

「殿下!」

「うわっ、王尚父か!いきなり入って来るなよ…」

 王猛は酷く焦っている様子で、げほげほと咳き込んだ後、拝礼して用向きを話し始めます。

「申し訳ございません。殿下、しかしながら、火急の事にて、罰は後の事とお願い致します」

「聞こう」

「六宮都太監の夏力炎様がお出でになり、天子の詔をお伝えに」

「嘘だろ!?…それで、一体何と?」

「江夏王は速やかに参内し、両儀殿にて謁見せよと」

「いきなりのお呼び出しとは…」

「李乾坤の事だ。その他には無いだろうな」

「兎に角、お支度を願います。殿下」

「分かっている。恩賜の御衣は何処に?」

「此方に他の装束と共にご用意致しました」

「よし。賢弟、お前も着替えて参内の支度を。車は…」

「今支度をさせておりますれば」

「分かった。すぐに着替えて来るから、門前に停めておいてくれ」


 少しして、参内の為に正装した宝燈が門まで出てきます。江牙海水の五本爪の坐龍が縫い取られた白色の蟒袍に、四海の宝玉が散りばめられた玉帯ベルトを締め、儀仗用の宝剣を佩玉と共に吊り下げて、鋭い視線と共に辺りを一瞥するその様子は、あまりに若いその年齢を忘れさせる程でした。

 それらの装束は、江夏王継承を記念して天子から直に賜った物で、大勢の大臣の中にいてもよく目立つ煌びやかな作りをしています。

 他方韋黯も、自身の品階に合わせて正装しています。常服の袍の色は緑色で補子の模様は鵲。即ち品階は最低の九品格であることを示していました。

「車は?」

「既にご用意が出来ております」

「分かった。じゃあ、お前も…」

「それは出来ませぬ。本日は正式な参内、わたくしはお供は致しますが、同乗の名誉は受けかねます」

「お前…仕事が絡むと真面目なのになぁ」

 宝燈が車に乗り込むと、韋黯が馬の轡を取って歩かせ始めます。彼は馬に乗る事自体は拙劣へたくそですが、こうして馬丁として馬を引く事や、四輪馬車の御者などには熟達していて、どれだけ急いでも車をがたがたと揺らす事はありません。

「ところで賢弟。聖上は寡人をどう罰するかな?」

「仮に天子といえども、正当な理由も無く王を死罪にする事は出来ませぬ。ましてや、今回は李乾坤の方にこそ非があります。精々、『若さ故の過ちだから、反省して彼に敬意を払う様に』位でしょうね」

「全く。嫌な話だ」

 車は程なくして長安の中央通りである朱雀大街へ出て、北にある皇城の正門へ辿り着きます。

「何者であるか!これより先、名乗らぬ者が入るのは罷りならん!」

 天子を守護する禁軍の兵士が、儀礼上の意味も込めて大声で誰何します。

「此方は従一品世襲郡王、江夏王李宝燈殿下のお車でござる!詔により、参内致した!」

「江夏王殿下、ご到着!門を開けよ!」

「江夏王殿下、ご到着!」

 大声で命令を復唱した兵士達が、重々しい音を立てて金属の大扉を開きました。その奥には、宮城の大門と、左右に広がる三省六部の諸官庁が並んでいます。

「車を止めてくれ。此処からは歩いていく」

「良いんですか?」

「構わん。元より、宮城の中に車での乗り入れはできんからな」

「承知しました」

 宝燈が車から降りると、韋黯は付き人たちに指示して車を所定の位置に停めさせます。他方宝燈自身は、一人で宮城の午門の前まで行くと、護衛の兵士達に用向きを伝えます。

「江夏王李宝燈、聖上の詔を奉じ参内致します」

「お待ちしておりました。此方へ」

 名を告げると、側で待機していた宦官二人が現れて、宝燈を宮城の奥へと案内して行きます。

「(相変わらず広い城だ。これ一つにしても天子の権勢を世に知らしめるに足るな)」

 宮城の広さは江夏王府の軽く数倍に達し、甍を連ねる建物は、いずれも贅を尽くした豪奢な物です。南は天子が国の大礼を行い、百官を集めて政務を行う外朝、北は天子の私的空間として、禁苑や起居の為の施設が設けられた内廷と定められ、その中に住む宦官や宮女などの数は軽く一万を越えます。

 宝燈が案内される両儀殿は、そんな宮城の外朝と内廷のちょうど中間に位置し、天子が朝見を執り行い、日常的な業務を処理するところです。

「聖上は既にご出座に?」

「はい。諸王と大臣も控えております」

 思ったよりも大事になったな、と宝燈は内心考えました。大臣達の前で叱る事で、何某かの威厳をお示しになろうというのだろうか。それとも、李乾坤が何かとんでもない讒言をしたのだろうか。

「或いは、単に政務のついでか…」

「は?」

「いや、此方の話だ」

 とはいえ、知りようの無い事をあれこれと考えても仕方ありません。仮に死罪を申し付けられるなら、構わず真実を声高に叫んでやろう。ある程度の心構えをして、宝燈は両儀殿の前までやってきました。


 「江夏王李宝燈、詔により拝謁す!」

 式部官の大音声に合わせて、宝燈は天子や大臣達が待つ朝堂へ歩き出します。

「(…隣に一人いないだけで、か。前に参内した時よりも、却って殿舎が大きく見える)」

 階段を登る度に、ぴりぴりとした緊張が肌に伝わってきます。同時に、複数の視線が交錯し、程なくして自分自身へと集まっているのが分かりました。

「李宝燈、陛下に拝謁致します」

 履物を脱ぎ、殿舎に足を踏み入れてすぐに、宝燈は天子に対して平伏します。

「面をあげて、近う寄れ」

「恐れ入ります」

 よく通る、威厳のある声が彼に命じました。そして、顔を上げてみると、長い顎髭を伸ばし、堂々たる態度で玉座に座る天子の姿が目に入ります。

 その証である黄色の衣に、二つの翼をあしらった翼善冠を被っている他は、華美な装束や装飾品を身につけていないにも関わらず、その威厳たるやこの場の誰もを圧倒する程で、即座にこの場の、ひいては漢土の支配者である事が分かります。

 その威厳は、生まれつきか、それとも四十年近く国を治め、泰平の時代を築いて来たという実績からでしょうか。

 いずれにしても、宝燈はそれに気圧されて、自然と二度目の拝礼をして、その場に正座してしまいます。

「何、そう畏まらなくてもよいのだぞ。同じ李氏の、それに皇親ではないか。立つがよい」

「ありがとうございます」

 立ち上がり、辺りを観察する余裕が出て来ると、この場に誰が居るのか段々と分かってきます。

「(李乾坤は…相変わらず独座だな。それから…太子殿下、永王殿下、寿王殿下に…うわ、成人の皇族は大体が揃っている。百官達は…三省六部の各尚書達の他、次官達までいるのか。やっぱり、政務のついでなのかな)」

「江夏王宝燈よ。何故にここへ召喚されたか、明敏な其方なら分かるであろうな」

 天子の声はいたって穏やかで、宝燈を叱り飛ばそうとか、威圧しようという気配は全くありません。

「李丞相の事でしょうか」

「そうだ。今朝御史台から、上奏があったのだ。其方と李乾坤が、春門街で諍いを起こしたと。何があったのか、朕に教えてはくれぬか」

「はい。それは…」

 宝燈は滔々と、朝の出来事を天子に告げました。従者一人だけを連れて遠乗りに出た事、その帰り道に李乾坤の馬車列に遭ったが、品位に従って下馬しなかった事、そして李乾坤の従者らに侮辱されたので、激してその主人を呼び捨てにして怒鳴り散らした事…。

「陛下の宸襟みこころをお騒がせした事、誠に慚愧に堪えませぬ」

「……」

 天子は少し黙った後、ちらりと李乾坤の方を見て、また言いました。

「上奏によれば、其方は李乾坤の馬車を止めて外へ引き摺り出し、叩頭する事を強要したとあったが…」

「その様な事は断じてございません!」

 あらぬ疑いに対し、宝燈の心は敏感に反応し、同時に激しい思いが溢れかけます。

「陛下、小王わたくしは粗忽の振る舞いこそしましたが、決して道理に反する振る舞いはしておりませぬ」

「ふむ」

「そもそも、小王は従者を一人しか連れておりませぬ。しかし、丞相は二十人を超える護衛を連れておりました。小王の従者は古の英傑では有りませぬ故、到底その様な真似はできませぬ。それに、如何に無礼があったとはいえ…」

「まあ待て。そう焦らずともよい。その様な事、朕は既に分かっておる」

「はっ…?」

「なに、其方が来るより前に、李乾坤とその従者当人から真偽について聞き取ってある。其方を呼んだのは、もう片方の意見も聞かねば不公正であるし、念には念をという訳だ。そもそも、其方が如何に若く幼いとしても、年長の者相手に道理に外れた無茶をするとは思えぬ」

「…その、ええと」

「恐らく、酷い無礼に遭って、我慢できなかったのだろう。其方は功臣の末裔として、この場の誰よりも誇り高い男だ。それを傷つけられて黙っていられるはずも無かろうて」

「…ご賢察、恐れ入ります」

 天子はにこやかに笑いながらも、鋭く真実を見抜き、宝燈の心の内さえもすっかり知っていたのです。彼はその優れた眼にいたく敬服すると同時に、やはり父や家臣達の言う通り明君でいらっしゃった、との思いを新たにしました。

「何にせよ、其方に罰を与える事はせぬ。寧ろ、よくぞ多勢を恐れず、立ち向かわんと奮い立つ事が出来たものだ。父も喜んでおろう」

「ありがとう存じます。また、過分なお言葉を頂戴し、恐懼の極みにございます」

 天子は鷹揚に頷くと、諸王大臣を下がらせて、昼の休みを命じます。そこで宝燈も御前を下ろうとしましたが、

「お待ち下さいませ、陛下」

 進み出てそれを留めたのは、臣下の最前列に立って居た太子の李享でした。

「太子、何かあるのか?」

「陛下、江夏王を不問となさいましたのはご英断にございます。…然しながら、この一件まだ片が付いておりませぬ」

 太子は非常に礼儀正しく、目下の皇族である宝燈に対しても、諱で呼び捨てにする様な事はせず、しっかりと称号、時には敬称さえ付けて呼びます。

「と言うと?」

「江夏王について、虚偽とも言える告発を行なった御史を処罰しなくてはなりません」

「…そ、それは!」

 その上奏を聞いた途端、李乾坤の顔色が変わります。明らかに慌てた様子で、太子に追求されたくないという色がありありと出ていました。

「陛下、御史は官吏の不正を糾弾し、朝廷の風紀を正し、天威を高める事がその本分でございます。しかしながら、その職権を利用し、無実の忠臣を陥れんとする企みをする者が古来より絶えませぬ。この上奏にしても、何らかの悪意を持って為されたものと思われます」

 太子の告発はその後も続き、明快な論理で矛盾や不審な点を列挙し、上奏の悪意を証明していきます。それらが一つ上がるたびに、丞相の顔色は変わり、悪意と怒りの炎が燃え上がる様に赤黒くなっていきました。

「(やはり、わたしを陥れる為に、あの男の一派が上奏を仕組んだか…!)」

 ぎりっ、と口の奥で歯を噛み合わせ、俯いた先の両手はぶるぶると震え、強く握り締められています。

「成程成程。太子の申す事も尤もである。…誰か、意見はあるか」

 天子のご下問に対し、大臣達は気まずげに顔を見合わせます。彼らは、李乾坤ごしゅじんさまの欲するところは鋭敏に察していますが、太子の論理も決して無視できない強さがあり、逆らえば却って勅勘を蒙るのではないか、と考えていました。

 利で繋がった彼らには、李乾坤を助けようという思いは無く、どの様に立ち回れば自身の栄達や生命が守られるかという利己的な考えしかないのです。

「恐れながら、陛下に申し上げます」

 おずおずと一人の大臣が申し出ました。

「その、此度の一件は御史の不幸な誤解に拠るところと考えまする。恐らくは、何でもない事を遠くから見たのを、江夏王殿下による暴戻な振る舞いと勘違いをして上奏したのでございましょう。たとえ誤解であるとしても、諫言は貴重であるとかの文皇も残しておりますれば、何卒寛大なるお沙汰を賜ります様に」

「(こやつ…文皇の名を借りて…!)」

 かつて李朝の天下を固めた名君、文皇の名を借りて主人の意に適おうとする振る舞いに、宝燈の怒りはさらに増します。

「賛成致します」

「何卒、寛大なるお沙汰を」

 しかし、一人の大臣の『勇気ある』発言は他の大臣達の追従を招き、朝堂の中は寛大な裁きを求める声で満ちました。こうなってしまえば、太子や他の皇族が如何に口を開こうとも圧倒されてしまうでしょう。

「分かった分かった。この事は朕がのちに沙汰を下す。今は皆、下がるがよかろう。江夏王はもう帰って宜しい」

「政務は一時休憩!江夏王並びに諸王廷臣らは、下がれ!」

 式部官がすかさず大声で知らせ、退殿を促しました。天子が玉座から立って両儀殿から立ち去ると、臣下達も一斉に外へと出ていきます。

「これでは駄目だな」

 太子が虚空に呟いた独り言を聞いていた者は、何人居たでしょうか。


 さて、御前から下がると、宝燈はもう宮中に用事はないので、邸に戻ろうと考えます。一先ずは門まで戻ろうと思い、案内役の宦官を探していたのですが、

「江夏王、少し宜しいですか」

「太子殿下、これは失礼を致しました」

「いえ、堅苦しい儀礼は結構です」

 太子李享は、穏やかではあるものの、何処か冷たさを感じさせる声で宝燈を呼び止めました。

「(相変わらずお若くいらっしゃる。もう三十も半ばを過ぎて、四十路前でおいでの筈だが…)」

 太子の風貌は正に堂々たるもので、威厳は天子のそれを受け継ぎ、若々しさは四十前にもかかわらず、二十いくらにしか見えません。しかし、眼光は鋭く、送って来た生涯の重みを体現しています。

 宝燈が身軽で疾い鳥だとするならば、太子はさながら、老いた大きな虎と言ったところでしょうか。

「江夏王、貴方は父上…聖上をご覧になってどう思われましたか?」

「えっと、その…」

「はっきりと仰って下さい」

「…やはり、明君であらせられると…」

 やっとの事で答えを絞り出してみましたが、それが彼の意思に適わないものである事は明白でした。

「本当に、そう思われるのですか」

「逆に殿下は、何か異なる意見をお持ちですか?」

「ええ…聖上、いえ、敢えてこう言います。父上は変わってしまわれました」

「そんな…」

寡人わたくしが生まれた頃ならば、あの様に悪を放置しておくことなどあり得ませんでした。果断に佞臣を罰し、讒言を退け、悪を許さず、能臣を取り立てて国を安んじていたはずです。少なくとも、この様な讒言をまともに取り上げる事はなく、一顧だにせずその主を刑に下されていた事でしょう」

「今はそうではないと?」

「………」

 はぁ、と彼はため息をついて言いました。それが全てを象徴していたのです。若い宝燈にとっても、その時の表情が何を意味するかは読み取ることができました。

「(失望しておいでなのだ、この方は)」

 幾度とない裏切りを目の当たりにしてきた彼の、あまりにも疲れ切ったため息でした。

 少しして、彼は話題を変えてまた宝燈の目を見つめてきます。

「江夏王、今日貴方はどうして召喚されたか分かりますか?」

「…李乾坤を怒らせたからですか?恨みを晴らすために讒言をしたのかと」

「違います。それは単なる欺瞞に過ぎません」

 ずい、と顔を近づけて、

「奴は貴方に対する聖上の信頼や印象を測っています。貴方がどの程度信頼されているか、どの程度可愛がられているかを調べているのですよ」

「なっ…!」

「…かつてあの男は、自身の邪魔になる有能な臣下だけでなく、己以外で天子の信頼や歓心を得ている者を根こそぎ宮廷から消し去りました。…自分以外に寵愛を受ける者が現れれば、権勢を脅かされかねないからです。…奴があの場で露骨に怒りを露わにしたのは、それを暴かれない様に、それこそ貴方が先ほど仰った様に誤解させる為なのです」

「し、しかし小王は傍系の皇族です。長い間皇子を除く諸皇族は、政治に関わる事を控えるのが伝統でした。なのにどうして…」

「兄上を自殺に追い込む様な輩が、その程度気にすると思っているのですか。貴方の義弟の伯父は、我が妃の父、義父であったのに首を晒される羽目になったのですぞ」

「…小王は、その様に聖上の忝い信頼を受けているとは思っておりません。第一、若過ぎます。政治に関わるにも、謀略を巡らせるのも…」

「…江夏王、本当に分からないのですか。それとも、分からないふりをしているのですか?」

「……」

「奴から見て、貴方が聖上のお気に入りである事は明白です。貴方への讒言を聞いた聖上が、どの様に仰せだったか覚えていないのですか!」

「…!!」

「聖上は、貴方への讒言を信じないばかりか、自ら御前に召喚し、事の真偽を見極めようとなさった。奴にとっては、それだけでも貴方を敵と見る理由となるのですぞ」

「…小王に、どうせよと仰せなのですか」

「李乾坤は、今頃貴方への猜疑に頭を悩ませているでしょう。敵が味方を測る為、貴族や皇族の間を嗅ぎ回るはず。その前に、一度手を打つべきでしょう」

「誰に相談すれば?」

「王大夫がいらっしゃるではありませんか」

「王尚父が!?」

「彼は長きに渡り、影に日向に江夏王家を支えてきた股肱の老臣です。彼に計れば、こと宮廷の物事については外れる事がないでしょうな」

 そう言って、太子は歩き去ってしまいます。ただ後に、一人ぼっちの宝燈を残して。


 「ふん、あの郡王、随分と聖上のご信頼を勝ち得ているようだな」

 李乾坤は宮城の暗闇に向けて呟きました。

「どうでしょうか。未だ齢は十四に過ぎません。そのくらいの孫にも等しい年齢であれば、聖上が可愛く思うのも当たり前でしょう。ましてや、あの様な美貌をお持ちの方ですから」

「十四であの器量ならば、十六にもなれば同じ男をも蕩かせよう。十八になれば国をも傾けよう。さすれば…」

「よく分かっていますとも」

「一先ずは様子を見るが、必要とあらば、『罪を償っていただく』他あるまい。その為にお前を御史台へ送り込んだのだからな」

「はい」

 こつこつ、と石の床を踏み鳴らしながら、杖をついて李乾坤が去るのを楊釗は黙って見送りました。

「(流石、皇太子に大逆の疑いをかけて自裁にまで追い込んだ方は違う)」

 その目に敬意はなく、ただ悍ましい者を見る侮蔑と恐れが渦巻いています。

「…だが、いずれにしても。先ずは今の太子殿下を廃さなくてはなるまいな。『罪』は必ず償って頂かなくては。寿王殿下の、丞相の御為に…」

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