第二回 新王

 天宝十三年二月。西京長安府。

 百万を優に越す人々が住む巨大な国際都市の中心に、凡そ半里四方を占める広大な邸宅が一つあります。

 その正門には、「江夏王府」と大きく扁額が掲げられていて、周りの細々とした家とは明らかに異なった洗練された造りをしていました。邸宅の主人の身分を表す為でもあるのでしょう。

 その邸宅の前に、未だ日も登って来ない時だとうのに、ウロウロと歩き回る人影が一つ。

「殿下、殿下。参りました」

 その人影は、周りの家の人々を起こさない様に、ごく絞った小さな声で門の中へ呼びかけます。

「遅いではないか。待ちくたびれたぞ」

「無茶を仰らないで下さい。何しろ此方は青龍坊みなみがわから来てるんです。王府までは遠過ぎますよ」

「やれやれ、歩いてきたからそんなに遅いのか」

「走って来ましたよ!それよりも、早く門を開けて下さい」

「はいはい。すまんが、頼む」

 重々しい音を立てて門が開くと、中から二頭の馬を連れている少年が出て来ます。着ている物は動きやすい質素な胡服ですが、立ち居振る舞いは上品で、一目でその身分の程が分かりました。

「やあ、おはよう賢弟おとうと

「おはようございます、殿下」

 この少年こそ、先王と楊夫人の間に生まれたあの女の子、そして今は第七代の江夏王でもあります李宝燈でした。


 昨年の父王の卒去により、王位を継承した宝燈ですが、その見た目は幼い日の比べ物にならない程美しく成長していました。

 顔貌は磨き上げた玉に似て、肌の色は降り積もった新雪の様な白。瞳は明星をそのままに嵌め込んだ様な鮮やかな琥珀色で、長く伸びた髪の毛は瑞々しく、かすかに吹く風に合わせて小さく靡いています。

「…本当にやる気ですか?」

「当たり前だ。せっかく馬丁まで丸め込んだのだ。ここで退いては、寡人わたしの長い努力が無駄になる」

 宝燈は、身体付きこそ細く華奢ですが、振る舞いから若さと活力が溢れ出ていて、儚さや弱々しさと云ったものは微塵も感じられません。身に纏う雰囲気は、宮中の美姫達や社交界の貴公子達とは大きくかけ離れていて、ある種の燕や隼の様な疾さを連想させました。

「で、どうして私を呼んだんです?」

「分かり切ってるだろう。お前は寡人の義弟おとうとで、いつも一緒にいる義務があるからな」

 宝燈がそう言ってけらけらと笑うと、言われた青年はうへえと顔を顰め、呆れた様にため息をつきました。

 青年の名は韋黯、字を務直とい、今年十九歳になります。父親は北の幽州の郡刺史と、燕雲十六郡の節度使を兼務する大陸屈指の名将韋叡。三人の兄達はそれぞれ科挙から進士に及第し、地方官を歴任しているという、名門の一族の出でした。

 宝燈と知り合ったきっかけは単純なもので、偶々韋叡が先王の宴に招かれた時、まだ乳飲み子だった宝燈を、彼が抱いて寝かしつけたのが二人の交友の始まりでした。

 以降何となく気が合った二人は、幼いながらに行動を共にする様になり、父王も宝燈に良い友達ができたと喜んで、王府でともに学ぶ様になったのです。

 宝燈は強く彼を信頼し、遊びも学びも悪戯も、自身の本性の秘密の他は、全てを共にし、心を通わせて来ました。義兄弟の契りを結ぶのも、提案したのは宝燈からだったのです。尤も、身分の都合上、兄と弟が逆転してしまいましたが。

 韋黯も、この五歳下の義兄を親愛し、唯一の友、第一の家臣として何かと世話を焼いていたのですが、時折宝燈の無茶の巻き添えを受けて、王府の家人達からきついお叱りを受ける事も多々あり、その辺りは少々辟易していました。

 とはいえ、韋黯にとって宝燈は大切な人間である事には変わりなく、隣で成長を見て来た彼をいつまでも守ろうと心の中で決めていました。


 で、どうしてこの二人が朝早くに何をしているのかといえば、要は宝燈の我儘に韋黯が無理やり付き合わされているのです。

 宝燈は昔から様々な事を習って来ましたが、殊の外好んだものの一つが馬術でした。その入れ込み様は、学問に引けを取らない程で、雨が降れば邸で読書に耽り、晴れたなら日が暮れるまで馬を乗り回す、つまり晴耕雨読ならぬ晴馬雨読とっても過言では無い様な暮らしをしていました。

 馬も不思議と宝燈によく懐き、彼が手綱を引いて合図すれば、走るも歩くも自由自在、どれだけ気の荒い馬でも従わない事はありませんでした。

 一応位を継いでからは、父王の喪という事もあって、曲がりなりにも君主として無茶は慎み、品行方正に勤めて来た彼ですが、流石に一年間も耐えているとちょっとしたきっかけで爆発してしまいます。

 今日唐突に韋黯を付き合わせたのも、ーそれ自体が貴人としては異例な事ですがー気晴らしに厩で馬の世話でもしようと訪れてみたら、偶々愛馬と目が合って、乗りたいという気持ちが抑えきれなくなったから、というだけの事なのです。

「(その様に思いに任せて突っ走る君主が、江華の民を治められるのだろうか)」

 とは時折王府の家臣達が憂う処なのですが、不思議な事に今のところ宝燈は王としての役割を遺憾無く果たしていました。尤も、韋黯が知らず知らずのうちに思いの発散先になっていてこそなのかも知れませんが。


 「さあ、行くぞ。久しぶりの遠乗りだからな、気分は上々だ!」

「げっ、弓とえびらまで用意して来たんですか?」

「折角だからな。鹿の一匹でも手に入れば良いが」

「一年も馬にろくに乗られてないのに大丈夫ですか?」

「案ずるな。洛中でゆっくり歩いて、身体を慣らす。流石に込み入った道で全速力を出すわけにはいかん」

「何というか、すごい不安なんですけど」

「おいおい、寡人が落馬した事などあったか?」

「私が無理に付いて行って落馬した事は何度かありますね」

「ふん、未熟者め。ほら、早く馬に乗れ」

 そう言い捨てると宝燈は、自身が引いて来た鮮やかな月毛の馬にひらりと跨りました。

「よしよし、月影。今日は好きなだけ走らせてやるからな」

 月影は黄金の様に輝く鬣を震わせて、宝燈に応えました。

「それじゃ、よいしょっ…うわっ!暴れるな、こいつ!」

「はっはっは、雪影はどうも不機嫌そうだな」

「私が乗るといつもこれですよ」

 韋黯が跨った連銭葦毛の馬ー雪影ーは彼が跨った途端不機嫌そうに身体を揺らします。

「まあいいさ。まずはゆっくり歩いて春明門から城の外に出よう。その後、春門街を抜けて都を出る。間違っても馬を興奮させるなよ。人を轢く事になりかねん」

「分かってます」

「後それから…その、無理についてこなくていいからな。ゆっくりでいい」

「ありがとうございます」

「じゃ、行こう!」

 宝燈が手綱を引いて合図すると、月影は小さく嘶いて、ゆっくりと歩き出しました。


 宝燈と韋黯は、まだ営業を始めていない東市を通り過ぎて、春明門の前まで来ました。そこでは、かつての様に、夜間の往来が厳しく禁止されていないにも関わらず、兵士たちが欠かさず警備の任についています。

「夜間の往来禁止が解かれてから久しいのに、彼等もご苦労な事だな」

「城の中に不審者を入れるわけにはいきませんからね」

 二人は特に咎められる事も無く、門を通過することができました。然し、城から出る事は、即ち都から出る事を意味しません。門の外には、複雑に入り組んだ城外市街地が広がっているのです。


 当初、厳格な計画城塞都市として建設された長安は、条坊制の下で官公庁を内包した皇城を北端に、整然と百十のくかくが配置されていました。

 長方形の城壁内の広さは東西十八里、南北十六里。朱雀大路を中心に道路が直交し、東西それぞれに市場が一つずつ、東北側に貴族・上級官吏が邸宅を構え、西南側に下級官吏・庶民が集住し、各坊は障壁によって囲まれて、夜間の往来は厳しく禁じられていたのです。

 ところが、時代が降って国が繁栄するにつれて、この街への人口流入は加速の一途を辿り、そうした厳格な規定は崩れて行く事になります。

 

 「時に殿下」

「何だ」

「どういう道かは覚えているんですか?」

「馬鹿にするでない。春門街を真っ直ぐ行って、あそこに少し見える門を通ればいいんだ」

「それだけじゃありません。路地裏と南には…」

「路地裏と、南の貧民街には近づかない。これでいいんだろ?」

「よくできました」

 市域が広がり続けた結果、長安城は上下貴賤が入り乱れる街に四方を囲まれていました。空から見れば、市街地の海に城が浮かんでいる様に見えるでしょう。

 韋黯が何よりも心配していたのは、そうした市街地の路地裏に宝燈が入り込んで、迷子になってしまう事でした。何しろ、国が整備した道路を一歩外れれば、知らぬ者は出て来られないであろう複雑怪奇な小道が続いているのです。当然宝燈が知るはずもなく、どの様な危険があるかもわかりません。

「何だ、お前面倒くさがっていたのにやけにやる気があるじゃないか」

「…まあ、行かれるのであれば呼んで頂いた方がずっと良いですね。殿下が迷子になったら、とても探し切れません」

「都はあまりに広すぎる、城の中も外も建物で溢れているな」

「もし迷子になったなら、兎に角北に向かって下さい。北は貴族街ですから、兵備司の警備兵に保護してもらえるはずです。…まあ、あの城壁を目印にしたら、城の中には戻って来られると思いますが」

「心に留めておこう」

 春明門外に形成された市街地、通称春門街は今や長安有数の市場であり、瓦子さかりばとなっています。通りに面したところには数え切れない程の商家や酒楼が軒を連ね、中には夜を徹して店を開き、朝になれば普通の料理屋に模様替えする様な所も有るくらいです。

「朝だから、人通りは少ないな」

「日が登り切れば、朝ご飯を食べたい人達が出てきますよ」

「ふうん…。ところで、あの高い建物は何だ?」

「妓楼です。この通りから一本向こう側に出ると、新北里といって、最近新しくできた妓女達が住む街があるんです」

「なるほど…。妓楼ねぇ」

「城内にも昔からそういう街がありますよ。平康坊の辺りとかは昔からの花街です。…もしかして殿下も、そういったものが気になりますか?」

「いいや。ただ、栄国公の次男坊と、寿王殿下が仰っていたのを小耳に挟んだ」

「あの二人は評判の遊び人ですからね」

「風流人と云って差し上げろ。仮にも親王殿下と、国公の御子だ」

「はい。申し訳ありません」

 宝燈とて、男女の事に興味が全くないわけではありません。ただ、それにのめり込むにはまだ幼過ぎるのです。

「殿下、もうすぐ青龍門です。京都から出ますよ」

「ようし、いよいよだな」

 二人は、正面の空が白んで来るの同時に、簡素な門を潜って、都の外へと出て行きました。


 都の外に出てみると辺りは朝の霧に包まれて、薄ぼんやりとした風景が広がっていました。登ってくる日の光で徐々に明るくはなっていますが、霧がその光を遮って、遠くを見通すことが難しくなっています。

 霧の向こうから聞こえる水音は、この近くを流れる渭水から伸びた小さな川のもので、この辺りの人々の水汲みや魚釣りの場所となっています。

「ふむ。まあ、走る分には良かろう。ある程度地形は頭に入っている」

「あまり走りすぎて川に突っ込まないで下さいね」

「好きなだけ言っているが良い。…さあ月影、行くぞ!」

 宝燈が手綱を引くと、月影が大きく嘶いて、前へ向けて力強く走り出しました。その速さたるやまさに風をも置いてけぼりにするほどで、直ぐに豆粒くらいに小さくなってしまいます。

「いかん、走れ!」

 韋黯も雪影を走らせようと合図しますが、中々う事を聞かず、また速さも追いつくには足りません。決して雪影が駄馬である訳ではないのですが、いかんせん相手が悪過ぎました。

 宝燈が乗る月影は、西域から輸入された汗血馬の中でも、更に早く強い血統の馬で、砂漠や山岳の様な過酷な環境でも長い距離を踏破できます。

 西域語で黄金馬アハルテケと呼ばれる月影の血統の馬は、この国全体を見ても百匹に足らず、その半分は天子の牧場で飼われているのです。

 元より速い馬の上に、今度は宝燈が乗っているのですから、平凡な技術しか持たない韋黯ではとても追いつけません。見失わない様にするのが精一杯でした。

 

 四里ほど馬を走らせると、辺りの風景が段々と変わってきます。京都の印象が薄れ、徐々に人のいない自然の色が濃くなり、地面には草が生い茂っていました。

 宝燈の眼前には小さな川が流れ、右手を見れば、鬱蒼とした森が広がっています。霧は段々と晴れてきて、薄く靄がかかってはいましたが、対岸の風景を見通す事が出来ました。

「小さい、とっても船がなければ渡れないがなぁ…」

 ちょうど良い、ここらで馬に水を飲ませてやろう、と思った彼は速さを緩めて歩かせ、一度馬を止めます。息を整えて一度馬を降りると、

「殿下、殿下!」

 焦った声と激しい蹄の音が後ろから迫って来ました。韋黯は宝燈が馬から降りているのを見つけると、急いで手綱を引いて雪影を止めようとします。

「こら!いきなり止めようとするな!馬はそうはいかんのだぞ!」

「おっととと…すみません」

「やれやれ…よしよし、疲れただろう雪影」

 彼が撫でてやると、先ほどとは打って変わって雪影は気持ちよさそうに目を細め、素直にされるがままになります。

「私がやるといつも不機嫌そうに首を振るんですよ」

「そりゃあそうだ。お前は撫でるのが下手くそだからな」

「お昼寝の時に撫でて差し上げると、いつもすっと寝付いてたんですけど」

「寡人を見ながら言い放つとはいい度胸だ」

「…それで、これからどうなさいますか?」

「少し水を飲ませてやろう。寡人は…そうだな、この風景を見ている」

「何か感じる物でもおありですか?」

「このぼんやりとした風景が好きなのだ。月にしても、山にしても。光が雲に遮られて散る様や、薄く靄のかかった山や空。鮮やかな花も無論好きだが、はっきりとしない朧なものにも心惹かれる」

「なるほど…」

「底の見えない奥ゆかしさというやつだな」

「お庭の牡丹とどちらがお好きですか?」

「はは。比べられる物ではないよ。あの池に花を浮かべて、周り全てを春の花に囲まれる事と、こうして雄大な山河を望むのとではな。前者は寡人だけの仙界を愛で、後者はこの世の素晴らしさを思い出せる。どちらも万金にも代え難い経験だと思う」

 宝燈はそう言って、馬が水を飲んでいる間、風景に見惚れていました。


 がさり、という音が森の方から聞こえました。

「何だ?」

 馬の耳がぴくりと震え、宝燈も後の方を振り返ります。

「鹿ですね。向こうの方で水を飲んでます」

「……」

「え、ちょっと、殿下?」

「月影、まだ行けるか?」

「嘘ですよね?ね?」

「うるさい。鹿が逃げ…あっ、くそっ!逃げた!」

 鹿が逃げるや、彼は信じられない速さで馬に飛び乗り、そのまま追いかけ始めます。

「ちょっと殿下!?」

「後からゆっくり来い!」

 月影は忽ちのうちに全力に達し、鹿との距離をぐんぐん詰めて行きます。

「殿下!このままだと森へ入ってしまいます!」

「案ずるな。獣道がある!」

 この時の彼の乗馬の腕は、ある種人間離れしているほどに熟練していました。上半身は弓を構えて矢をかつがえ、下半身だけで馬を操っているのです。鐙への体重の掛け方で方向を制御し、目線は鹿から離さず、また速度も一切緩めていません。

「(よくも木にぶつからずに馬を操れるな!)」

 韋黯は内心舌を巻くどころか、恐れさえ抱きました。もし彼が成長して、もっと強い弓を引けるようになったなら、古の霍去病の様に騎馬を操る北方の胡族ともまともに渡り合えるかも知れない。その考えに冷や汗さえ浮かんできます。

「さあ、ここまでだ!」

 引き絞った弓から、一本の矢を放ちます。その矢は空気を切り裂いて飛び、一撃で鹿の頭を射抜き、即死させました。

「よし!」

 一矢で鹿を仕留めると、宝燈はそのまま馬を止めて飛び降り、すぐさま鹿の元へ駆け寄ります。

「韋黯、来ているか!」

「はい!」

「お前、獲物にとどめを刺したことは?」

「ありますが…これには不要です。一矢で頭を貫かれて、死なぬ獣はありますまい」

 韋黯は肩で息をしながら必死で答えます。相当の負担だった事は明白でした。

「よしよし。じゃ、血抜きをして持って帰ろう。みんな驚くぞ」

「ちょっと待って下さい、殿下」


 韋黯は息を整えて、冷静に答えると馬から降りて宝燈の目を見ています。

「殿下、私が何をいたいか分かりますよね?」

「えっ、あっ、その…」

「殿下?」

 こういう時、宝燈は彼が何を言おうとしているのかすぐに理解できてしまいます。彼が目を見て、こうして語りかけてくる時は、それこそ「本当に怒っている時」だけなのですから。

「あ、その、賢弟?あんまり怒らないでくれると…」

「いいですか、殿下。私は決して怒っているわけじゃありませんよ」

「うう…」

 彼は決して怒鳴ったり、暴力を振るう事はありません。ただ淡々と宝燈に問いかけてくるのです。

「殿下。私は殿下に『王として』だとか『誰々に苦労をかけるな』とかそんな風に怒る事はしません。私はただ聞くだけです。それをして、ご自分の心に恥じるところや、痛むところはございませんか、と」

 彼が初めて宝燈を叱った時以来、ずっと貫いて来た事です。そして、それこそが宝燈にとっては最も心に響く、苦手なお説教なのでした。

「殿下。一年も馬に乗られていないのに、どうしてあんな無茶をなさったのですか?」

「鹿がいたから…」

「殿下は鹿を殺めましたが、私は殿下を殺めるところでしたよ」

「それは、その…申し訳ないと思って…」

「別に、私に謝って欲しいわけではないんです。ただ、お命を危険に晒した事を、殿下ご自身に謝って下さい」

「……わかった」

「分かって頂けたなら結構です。…それじゃ、帰りましょうか。殿下、お手を」

「…うん」

 お説教を終えていつもに戻る時、必ず宝燈に手を差し伸べて来ます。二人が手を重ねるのは、ずっと続いている仲直りの習慣でした。どれだけお説教や喧嘩が短くても、必ず。

「今度から、無茶はしないから」

「本当に?」

「本当だとも。今日みたいな事は、余程の事がない限りしない」

「…ま、信じる事にしますよ」


 宝燈と韋黯は、獲物から血抜きをして、少し馬を休ませた後、再びその背に乗って京都へ戻って来ました。

「もうすっかりみんな起きてるな」

「このくらいの時間なら、官庁も始まる時間ですしね」

「ん!なんかいい匂いがするぞ!」

点心おやつ屋さんでしょう。朝ご飯がわりにかきこんで行く人が多いですから」

「うぅ〜…朝は握り飯しか食べずに出て来たからな…この匂いは腹に来る」

「朝ご飯が入らなくなりますよ。…まあ、あるとも限りませんけどね」

「おいおい…流石に王侯を飯抜きにするなんて真似は出来んだろう?」

「王大夫ならやりかねませんね。今頃門前で頭から湯気を出してるでしょうから」


 そう話しながら馬を並べて歩いていると、後ろから急にけたたましい銅鑼の音が響きます。

「うわっ!えらくやかましいな。耳が慣れてなければ馬が走り出していたとこだ」

「どこの王侯でしょうか?」

 後ろを見てみると、厳重に武装した兵士達が豪奢に飾り立てられた二頭立ての馬車を囲み、辺りを歩く人々を追い散らし、平伏する様に命じています。

「どけい、どけい!」

「貴様ら、頭が高いわい!」

 その兵士の乱暴さといったら、目を覆う程です。権威を嵩に着て武器を振り回し、民を追い散らすその様子は、とても常人の感性では恥ずかしくなって見ていられません。

「…ああはなりたくないものだ。で、どこの奴らかわかったか?」

「ええと…げっ!よりによって…」

「何?誰だ一体」

「『長平王孫一等侯尚書右僕射兼戸部尚書李乾坤』と書いてあります!」

「李乾坤か!よりによってだな、確かに」

 李乾坤は目下朝廷で最も権力を持つ臣下で、初代高祖天子の従弟の子、長平王の孫を称しています。つまり、江夏王である宝燈とは遠いとはいえ親類に当たりますし、同じ建国の功臣の末裔同士という事になるのです。

 然し、宝燈は彼を毛嫌いして、名前を出す事さえ嫌がり、いつも「あの男」、と呼び捨てていました。理由は単純明快、彼が謀略によって数多の有能な臣下や天子の信頼厚い官僚、果ては親王や皇太子までその毒牙にかけて排除し、自らの権勢を揺るがぬところとしたからです。

 長い間巡らせた陰謀の果てに、彼は今や天子の信頼を独占していました。自らの息のかかった人物を重要な官職につけ、己自身も長安を守護する京兆節度使を兼務する事で文武の両道を手中に収め、李朝を自由に操っていたのです。

 当然宝燈にとっては、同族である事自体堪え難い恥辱でしたから、その名前と車を見ただけではらわたが煮えくり返り、ともすれば手が弓に伸びそうになる程です。

 そうした怒りをうまく抑えて、波風立てずに場を切り抜ける事に関しては、韋黯の方が年齢の分はるかに優れていました。彼は宝燈の怒りを察しつつ、上手い事場を離れさせようとあれこれと手を尽くします。

 尤も、奢り切った権臣の部下達が見逃すはずはないのですが。

「おい!そこの二人、待て!」

「無礼者が居るぞ!捕らえろ、捕らえろ!」

「逃げましょう、殿下」

「いいや、寡人は逃げん。他の者にならいざ知らず、李乾坤に怯懦を起こしたなどとは誰にも云わせとうない!」

 兵士達の動きは素早く、すぐに二人を取り囲み、武器をちらつかせます。中には馬に乗っている者も居て、その衣装から私兵であるとすぐに分かりました。

「お前ら。あのお車と名前が見えんのか」

「見えた。李丞相の物だろう」

「分かるならば何故馬を降り、道を譲って平伏せぬのだ!この下郎共め!」

「何故にあの様な輩に道を譲り、剰え平伏しなくてはならんのだ。虎の威を借る鼠に下げる頭など持っておらんわ」

「こいつ、丞相に対して何という暴言をっ…!」

「それは此方のセリフだ。郡王に対して無礼千万。お前達の主人は、身分の優劣をも知らんのか!」

 宝燈の毅然とした態度と、その身分を知って兵士たちはたじろぎ、顔を歪めて呻きます。高々十四歳の子供に気圧された事が、信じられないという顔でした。

「お前達と話す事はない。今すぐ李乾坤を呼んで来い」

「丞相を呼び捨てに…」

「聞こえなかったのか!今すぐ李乾坤を呼び出せとったのだ!」

「殿下、もうその辺で…」

「うるさい黙ってろ」

 恐らく声が聞こえたのでしょう、馬車の周りに控えていた何人かが、窓を通して中の人間と話し合っている様子です。

「殿下、その…」

「すまん。少し抑え切れなかった」

「余りに無茶ですよ」

「…後でしっかりと説明するよ」

 程なくして、馬車の側についていた一人の側近らしき若い男が近づいて来て、下馬した上で拝礼します。

「江夏王殿下に拝謁致します。李丞相がお目に掛かりたいと仰せです」

「聞き覚えのある声だな、誰だったか。……そうだ、思い出した。博打屋の楊釗じゃないか」

「従兄弟の殿下に覚えておいて頂けるとは、光栄でございます」

「母上の命日の祭りで会ったのが最後だな。どうやら、出世した様で何よりだ」

「叔母上に縋っておりましたわたくしも、今は丞相の下で監察御史を務めております」

「そうか」

「殿下、旧交を温めたく存じますが、今は丞相がお待ちですので、さあ」

「分かった」

 

 宝燈と韋黯が馬に乗って馬車の前まで来ると、中から一人老人が降りて来ます。

「江夏王殿下に拝謁致します」

「李丞相。あれはどういう事か、説明してもらおうか」

「誠に申し訳ございませぬ。何分、地方の者ですから、京都の習俗に疎く…」

「これは異な事を。この京都の皇族や貴族の顔なら、其方はよくよく見知っておろう」

 その言葉には、鋼の剣の様な鋭さが含まれています。暗に李乾坤が、過去に数多の功臣を陥れた事を非難していました。

「いやはや…誠に申し訳ありませぬ」

「それに、だ。ああして民を追い散らすのはよくないぞ。任官したばかりの者ならともかく、丞相ならば、天子の事も慮らなくてはならん。あの様な振る舞いを社稷の臣が行えば、直接天子のお名前を傷つける事になりかねんぞ」

「お葉、肝に銘じます」

「よかろう」

 そう短く答えて、宝燈は韋黯を連れてさっさとその場から去ってしまいます。後に残った楊釗は、その様子を興味深そうに見つめていたのでした。


 「いやー言ってやった言ってやっ…」

「で・ん・か?」

「うっ、いや、あれは別に無茶ではない!奴等に身分とうものをだな…」

「殿下、お葉ですが、猿に礼儀を教えても無駄です。奴が先の太子殿下にどんな礼儀を尽くしたか、覚えておいででしょう?」

「だからだよ」

「……」

「寡人は江夏王、栄えある世襲王にして宗室の筆頭格だ。かつて高祖や文皇陛下と建国の苦楽を共にした功臣の末裔である事を、誇りに思っている。…仮にあの方々が奴の様な奸臣が居たらどうなさったと思う?座して奴が社稷を食い潰すのを見ていたと思うか」

「殿下、御先祖様に相応しい末裔たらんとするお気持ちはご立派です。それでも…」

「…分かってるよ。寡人が恐れずに直する様に、お前も寡人の為に諫めてくれる。…でも、だからこそ止めるわけにはいかんのだ。王の位に、御先祖様に、そしてお前に相応しい君主で居る為にな」

「…暗君として、奸臣として生を全うされるおつもりは無いのですね」

「ああ。そうした人間ばかりになったからこそ、幾つもの国が立っては滅びたのだ。…なに、賢弟。寡人は父王の倍は生きるつもりだ。いずれ、爺になった寡人をお前に世話してもらうからな」

「…それだと、私は誰が世話してくれるんです?」

 ははっ、と明るく宝燈が笑います。

「そうだな。お互い、そんな悩みを抱ける迄に…共に老いて行きたいものだ。…さあ、我が家の門が見えて…げっ!」

「王大夫がきっちり待ってますね」

「どうしよう賢弟、寡人は今度こそ耐えられんかもしれん…!」

「君主たるもの、ご自身の決断の責任は、ご自身でお取り下さい」

「待ってくれ!賢弟も一緒に来たじゃないか!同罪だぞ、同罪。共に族滅されよう、な?」

「嫌です!もう何回怒られたと思ってるんですか!」

「殿下!韋務直!」

「「あっ」」

「今日こそ許しませんぞ!さあ、早くお戻りなさいませ!!」

 頭から湯気を立てている老大夫の怒声が、京都に響きました。

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