第36話 スレッショルド
「変なこと言ってないで、涼を案内して。倉田さんの散歩道、説明して歩いてるうちに何か思いつくかも知れないし」
「理子はどうするの?」
「案内図の画像を使って調べたい箇所がある。その前に聞かせてくれない? いま、あんたの頭に浮かぶ二つの絵ってどんな風に見える?」
「……白から真っ黒に変わった絵と、若い倉田さんが振り返る絵」
「あたしと同じね。そう。変わってないなら、それで充分……」
理子は立ち止まったまま携帯と並木道を交互に見ている。ルートから外れた方の……角度を測っているのか? 懸命に、諦めることなく広い団地から呪いにまつわる場所を限定しようとしている。
この場所。倉田さんが描いたイチョウの絵のモチーフ。その延長線上だ。つまり呪われた私たちにしか知り得ない、振り返った女性……数十年前の倉田さんが悔いや未練を込めた視線の先に、何かあるんじゃないかってこと?
植え込み、芝生広場、公園……舗装された道を除外するにしても、まだ場所の候補がたくさん残る。昔行った潮干狩りのように延々と一直線に掘り進むか? 柔らかい砂浜じゃないし、シャベルがあったとしても途方もない労力が要るぞ。
もう少し別の視点がいる。理子の助けになるような角度があれば。
二つの絵より他に……過去の倉田さんが遺したモチーフ以外で――
「あ」
「愛理さん? ええっ? 走んの!?」
散歩道をゆっくりと歩くはずだったが、そんな悠長な時間はない。急いでるんだから。説明するのも後。涼くんは驚きながらも付いてきている。このまま広場のルートに沿って一周してもいいが、まず閃いたことを確かめるのが先だ。
いつも散歩している途中で、必ず休憩するところがあった。倉田さんが腰を下ろし、他愛のない話をしていたベンチ。私は憶えている。心に刻んだその場面を、彼女が絵に残すモチーフのように思い出せる。
……ここだ。ここで、お喋りしながら倉田さんはどこか遠くを見つめていた。絵のアイデアの為だったらもっと視線はあちらこちらに移るはずで、ただ一点に集中することはない。あの時感じたほんの少しの違和感。理子が言っていた、単なる気分転換やリハビリでない理由がそれだとしたら。
焦る指先で、携帯の写真アプリを開く。
「涼くん。この画像に線を描くのは、どうやるの?」
「団地の案内図ですか……それなら、編集だけでいけます。右上のオプションからペン機能を使って」
「これね。私たちの場所から、まっすぐ……微妙に歪むなあ」
「大丈夫です。下の定規のコマンド、当てたいとこを指で」
二人でスマホを触り合っている時、ひゅぽ、と音が鳴って理子から画像が届いた。送られて来たのは同じ団地の案内図、すでに絵の中で倉田さんが振り向いた角度にぴったり線を引いてあるものだった。
これ使えってか?
もう一度編集機能を開き、線がずれないように角度を合わせる。過去の倉田さんと、ほんの数日前までの倉田さん。複数の視点、複数の場所からなら位置をほぼ特定できる。線が交わって交差したところ、それが……
「愛理さん、この十字の部分って何があるんですか!?」
「ここはええと保育園、の近くだけど違くて、だから……」
「ギリギリ団地の敷地内。橋の辺りね」
理子が私の携帯を覗き込んで答える。
その顔はまるで獲物を追い詰めたハンター、いや……歯をむき出しにした猛獣のようだった。ただ呪いの反応はまだない。頭にもやがまとわりつき、迫り来るあの怖ろしい感覚がない。いや理子の推察は合っているはず。呪いの脅威なんて息を殺してビビってるだけのちっぽけな存在で、勝ちに近付いているのは確実にこっちだ。倉田さんの後悔の先へ辿り着ける。あと少し、この場所に向かうだけでケリがつく!
「理子、正確にはどこ?」
「あんたの方が詳しいでしょ普通。ほら、ここ拡大して……向こうにある保育園から少し歩いたところよ。でも川より手前、あんたとあたしの角度が多少ズレてたとしても、橋のふもとで線は重なってる。ってことは位置的に……」
みんなで携帯を見ている中、理子が喋りながらそばに落ちてる大きめの石を拾い上げる。何してんだ? 地面に方向でも描くの? 今から行く場所を掘る為? ああ、シャベルとか用意してないから現地調達か。
ふと、雨のにおいがした。湿った草や土の――
スマホを見ながら歩こうとした足が動かない。においも遠くなる………声が出ない。呼吸も、ノドが凍り付いたようになって止まってしまう。
固まった視界の隅。同じように表情の固まっている理子が石を思い切り振り下ろすのが見え——ぶつかった衝撃が頭に響いた。
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