第42話 反転する意思
【起きろ。目を覚ませ】
ぎゅっと土を掴んだ。割れた爪の激痛がいまは都合よく、一気に意識を覚醒させる。走馬灯のような甘い夢を見てる場合じゃない。何度も何度も私を呼ぶ声が、確かに聞こえた。
力を込めた腕に、足に、粘ついた黒い泥が絡みつく。ついさっき見た時は灰色のもやだったものが、より色を濃くして背中を押さえつけて来る。こいつと私は呪いで繋がっているから分かる。この橋のたもと、散らばるゴミを漁るカラスみたいに私の頭の中を啄んでかき回し、輝きをのみ込んで行ったのが……。
でも指は動く。歯は食い縛れる。
私を強制的に支配するような感覚が、今は無いぞ。
掘り返した地面に視線だけを動かした。
倉田さんが埋めたものを、壊すか移動させるだけで、こいつは消えてなくなる。そう涼くんが言っていた。少なくとも呪いが薄れるか弱るか、変化が有るはずだ。
血の付いた杭は変わらず近くに転がっている。じりじりと手だけを伸ばすと……呪いのバケモノは私の悪あがきを感じ取って全身を震わせていた。身体中に幾つも口があるみたいに、子どもの声が一斉に聞こえてくる。こいつは私のささやかな抵抗を楽しんでいるに違いない。悪意に満ちた嘲笑にしか思えなかった。
「う、腕が……」
蛇に似た滑らかさで黒いもやが腕のように伸び、首筋からほほへ這い寄って来た。じわじわと唇も、鼻も目も覆われていく。痛みや息苦しさを感じさせないことがむしろ恐怖と不安を煽った。なんだ? なにをする気? 私の頭の中はもう砕かれている。こいつの悪意をそのままに、同じことをして徹底的に弄ぼうってこと?
拘束を外そうともがいて抵抗するが、黒いもやの愉悦を強めるだけだった。本来なら触れもしないはずなのに、重さと力の差を感じている。地面に押さえ付けられた視界は暗幕が張られたみたいに何も見えない。
その時、鈍い輝きが光った気がした。くすんだ色の……ただの残像が映っているだけ? でも確かにそこにあるのが分かる――
【謝るな! ママに謝られるのだけはぜったいに嫌】
【気持ち悪い顔で笑わないで。誰にも頼るなよ。自分で何とかしろ】
【男の拘り? 我儘の間違いじゃないの? 振り回される身にもなって】
この記憶は……よく知ってる。大好きな人たちにぶつけた言葉の断片。ずっとずっと思い出さないように、心の奥へ閉じ込めていたもの。他の誰でもない、私が両親を追い詰めたんだ。理子じゃなかった。理子は……壊れていく私を、都合のいい妄想の世界に逃げ込んだ私を、暴こうとはしなかった。自分勝手で膨らませた逆恨みを文句も言わず受け入れて、今まで守っていてくれたんじゃないか。
両親は死に、理子は私の言葉を真に受け、理子らしさを無くした。何もかも元に戻らない。大切な家族を壊したんだ……私一人のせいで。
みしりと背骨が軋む音がする。
呪いのバケモノが嬉しそうに力を込め、ところどころ穴の開いた魂ごと鷲掴みにしていくのが分かった。
私は家族に甘え、遠慮しなくてもいいって勘違いを起こし、頭に浮かぶ限りのとげとげした言葉を吐き出し続けた。そしてみんなの心をすり減らせ、全てをおかしくさせてしまった。家族のことが大好きだって本音は言わなくても伝わるんだって思ってた。神さまにでもなったつもりでいたのか? ふざけるなよな。幸せのかたちを壊してしまう前に……私が死ねば良かったのに。
「でもそれがなんだ?」
「……ギッ?」
「理子の言った通りね。絵の呪い。お前は、あたし達を憑り殺す以外に能のないカスだ。誰かの苦しみや絶望をただ面白がるだけで、何も理解していない。心の奥にしまいこみ、埋めてあったものを掘り返すことが……どんな結果を生むのか考える頭もない。小さな子どもだって分かることよ」
歯の根ががっちりと噛み合い、足で土を踏みつける。手に力がこもり地面からゆっくりと離れる。
呪いのバケモノが精神の柱のようなものを折ろうとしたのは、いたぶる以外に魂を弱らせないと不都合があったからだ。いくら触れられても実際に身体があるわけじゃない。そうも思わされたってだけで錯覚さえ起こさなければ、こんな奴、重くも何ともない。怖さだってたかが知れてる。
誰だって心の奥底に固く閉じた扉がある。大切な思い出、トラウマ、秘めておきたい気持ち。中に入っているものは人によって様々。それを暴くような真似はしない方がいい。どんなものが、どれくらい、と推し量る術はないんだから。もしその扉にひびが入り、いまにも壊れそうだとしたら、見たいと思う? あたしなら――ぜったいに遠慮しておくけどね。
「隠していたものを暴かれて、絶望の淵に沈む人もいる。それを狙ったんだろ? でもね。あたしはそうならないんだよ。開けてはいけない場所を開けたのはお前だ」
「ギ、オオオォォォ!?」
「なんで動けると思う? ふふ、どうしてか分からないでしょ? 学習する脳がないから何度も間違えるんだよ。まあ、言ったって意味無いんだけどさ。その領域は、あたしの家族だけのもの。お前に割り込める余地なんて薄皮一枚ほどもあるもんか!」
今動けるのは、理子が呪いに抵抗しているからだ。
さっきあたしが意識を失って倒れた時、呪いの力は向こうに集中したはずなんだ。でも諦めていない。涼くんに呪いの術式を破らせる最終手段も取らずに、妹はまだ耐え続けている。
小さい頃、理子が甘えて来るのに飽きて何の気なしに言ったことを、ずっと守っている。神さまに願うこともなく、自分で何とかしようって……なのに、あたしが先に諦める? そんなことぜったいに出来ない。理子が頑張っているんだ。何とかしてやらなくっちゃ。最後の最後に、妹が頼るのは……あたししかいないんだから!
落ちている杭を握りしめ、ぽっかり空いた地面の穴に狙いを定めた。力と体重をかけて思いっきり振り下ろす。その瞬間、背中や顔に張り付いていた黒いもやが凄い速度で杭に群がり、無理矢理に勢いを殺していく。
「ギオオオォォォッ!」
【持っているものに構うな】
「あたしを、つき動かす声は。心の奥で叫び続けるこの声は! 厳しくって容赦なくて、諦めの悪い……理子の声に似てる!」
【手を伸ばせ】
握力を緩めると同時に、杭が真横に弾かれてフェンスに当たる音がした。そのままボロボロの布切れ目掛けて倒れ込みながら手を伸ばす。途中で磁力のような抵抗を感じた。さっき自分を押さえつけ、杭をはじいた力を振り絞っている。でも弱い。こんなものだ普通じゃ見えない実体のない力なんて! その力のすき間に強引に手をねじ込み……布切れに触れる。あとはここから場所を移せば終わりだ。
布切れを掴み、持ち上げようとしたが出来なかった。少しも動かない。疑問が浮かぶのとほぼ同時に手を離した。穴の中から黒いもやが噴き出し、倉田さんの絵で見たような、コールタールの入った一斗缶をぶちまけたみたいな漆黒であっという間に満たされる。
杭を跳ね飛ばしたあと地面を伝って滑り込んだのか? それとも始めから対策を……どっちにしても邪魔されたことには違いない。この布切れに包まれた灰色の欠片と呪いのバケモノは繋がっていて、根を張り付かせたように固定されていた。そして今は近づくことも難しい。ただチャンスは逃すな。あたし達がやっとここまで追い詰めたんだ。別の方法を……心の奥底から聞こえる声は、手を伸ばして触れる以外、何て言っていた?
腰が抜けたような姿勢で地面に座り込む。手を眺めながら耳をすませていると、指先の割れている爪の中にぽつんぽつんと黒い点が染み出したのが見えた。
さっき触れていた布切れが原因かと思ったが違った。首や足、身体全身の内側から浮かび上がって来ている。自分のすみずみにまで呪いが行き渡って……想像したくない光景に気が遠くなるが、力を入れてこらえる。次に意識を失えば今後は起き上がれない……。
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