第43話 繋がっているから




 ――ごぽっ。ごぽっ。


 静寂の中、泡が沸き立つような音を聞く。

 煮えたぎった感じじゃない。もっと冷たい……冬の沼底からガスが染み出たみたいな。ごぽごぽ。まただ。また聞こえた。いったい何の――


 恐怖とおぞましさに歯を食いしばって、それを見上げる。

 地面の穴が膨らみ、不快な泡が際限なく堆積するように。何もない空間を汚泥が渦を巻き這い登るように……悪意を持った暗闇が溢れ出す。ところどころに走った亀裂は目のように開いていて、光の入り込む余地のないたくさんの目が、瞬きもせずこちらを眺めていた。


「っは……はぁ……っく。あたしは……」


 視界の端に髪の毛が垂れて、地面が映っていた。手で支えていないと上半身も起こしていられない。それほど急激に力が抜けていく。


 ごぽっ。ごぽっ。

 

 底なし沼の底を掬い上げたような臭いとともに、呪いのバケモノは満足げに全身を震わせる。布切れを巡るやりとりであたしを弄ぶような演技や余裕はなかった。純粋にいまの自分の症状が、こいつにとって優越感に浸れる揺るぎない事態なんだろう。大きな黒い腕がゆっくりと伸びてくる。それに反応して自分の身体から蒸気のように黒いもやが立った。

 じわじわと締め付けられる息苦しさで涙が出そうになる。


「ぐっ……呪いが……」

「イッ、イレモノ。ズット使オォォ? 今度ハ壊サナイ」

「ふざけんな! あたしは……」

「姉ト妹? 新鮮ナ、ウツワ。魂ノ色モイイ。ニ、ニ、ニテル」

「声が、聞こえない。誰の声も……」


 呪いのバケモノ。

 お前が頭の奥の壁をブチ破ったお陰で、風通しが良くなったのか、自分の声が良く聞こえるようになったよ。倉田さんが散歩道で言っていた、耳を傾けるべき内なる声。それは声なんてレベルじゃない。深層心理のあたしが叫ぶんだ【諦めるなって】……でも今は聞こえない。さっき聞こえなくなった。もう――


「おわり、だ……」

「オ終イ。ヒ、ヒヒヒヒッ」

「ふふっ……あははハハハっ! あぁおかしい。気付いてないの? 最高にマヌケね。この場合、笑うのは勝者。お前じゃない。あたし達の方よ」

「ギ……?」

「だってそうでしょう? 叫びまくってたあたしの声が聞こえないってことは……ふぅ、はぁ。説明するのも馬鹿らしいわ。。だから身体が欲しかったの?  救いようのない脳の無さ。ビクつかせて後悔させたかったけど、骨が折れそうだし止めとくわ。終わってるのはそっちの方だ……呪いのバケモノ」

 

 呪いを噛み千切るように歯を剥き出しにする。

 自分の眼前にあった漆黒の腕が揺らぎ、少しずつ色が薄れていく。黒は灰に、灰は白に。まるで地平線の夜明けを見ているようだ。その変化は穴の中……布切れに包まれた輝きから起きている。

 倉田さんの絵を見た時から、自分の中で増殖していた呪いは……身体から滲み出すくらいに出来上がっていた。つまり絵に込めた倉田さんの魂の一部が、限りなく近い形で複製されているのと同じだとしたら。何年も昔に埋めていた物に、あたしが直接触れて引き合わせた。これはその変化ってことになる。

 この場所に倉田さんは数十年前から来ていない。来ていたら、ここは空っぽじゃなかった。絵に魂がこもるのと同じで、あの灰色の欠片にも倉田さんの魂がすでに入り込んでたはずだ。彼女の想いが一緒になっていれば、こんな……凝縮された悪意がすり寄ることも無かった。


「ギオオオォォォ!?」

「ここのゴミたちとそっくりね。いつのまにか一か所に集まって害になる点は。人の思いや精神が煮詰まった悪臭……最初はあの布切れの輝きに惹かれたの? まとわり付かれる側の迷惑は考えてないだろうけどさあ。粘ついた気持ちの悪い繋がり――さっさと断たれろ」

「ォォォォ……」

「あたしも似たようなものだった。家族に甘えて縋って、感情をぶつけてきた分だけ楽になってたよ」


 まぶしい輝きに目を細める。

 その光源へ根を張っているバケモノにも光は移り、しばらく呪罵のいくつかを吐き捨てていたが、透けて見えるほど色を失うと崩れて散っていった。

 

 自分の肌に浮かんでいた染みも消えてなくなっている。倉田さんの遺した未練も残らず消えたのだろうか? そうだと思いたいが……。

 頭によぎった一抹の不安を拭うように、穴の中の光が静かに浮かびだした。あれは……倉田さんの輝きに違いない。数日間ともにしてあちこち駆けずり回ってたんだ。はっきりと分かる。取り巻いていた負の念から解放され、同じように輝く何かを大切そうに抱えていた。それを見て、胸の奥底が軽くなっているのに気付く。呪いは完全に解けたんだ。


 そして白から青へ色をまばゆく変えながら、キラキラとした輝きは橋を越えて天へ昇っていく。橋と坂のわずかなすき間からそれが見えた。広がる空はきっと青いだろう。そのわずかな名残が泡粒になって、頭のすぐ横をかすめて行った。


 これは……自分の記憶?

 正確に言えば、この場所に集まっていた、人たちが遺した思い出の断片。そこにあたしの分も含まれているみたい。きれいな光……。

 色々な感情が心に触れては消えていく。楽しそうに橋を渡る園児姿の子。団地内で泣いている女性。散歩道を歩く幸せそうな若い夫婦の後ろ姿。哀しそうな男の子と死んだペットのやりとり。広場で真剣に話す高校生たち。



 家族の記憶は消えない。 

 

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