第29話 謎への手がかり
団地の散歩道から少し外れたベンチに腰掛け、理子を待つ。
棚橋さんには礼を尽くしたつもりだったけど顔は引きつっていた。非常時とはいえ、押し掛けるのは迷惑だったのかもしれない。それに私が倉田さんに対しての感情を表に出してしまっていたのも、申し訳なかった。
涼くんは隣でペットボトルのスポーツドリンクを飲んでいる。ノドはそこまで乾いていないけど私も後で買おう……理子から話を聞いてからでもいいか。
「遅いね」
「もうすぐ来ますよ。あいつのメッセ―ジを見る限り、展示されてる倉田さんの絵を持ち出すか壊すか色々考えてた感じです」
「あ、ホントだ。でも止めたって書いてある」
「駅で見た絵についての考察を俺たちに聞いて欲しいようですね。とりあえず無駄足にはならなさそうだ……安心してください愛理さん。棚橋さんから得た情報も共有すれば、解決に向かって進展しますよ」
「うん」
私が生まれるよりもずっと昔、倉田さんはこの団地で絵を描いていた。今となっては確かめようがないが、ナミノキョウイチさんとの関りや作風の共通点からもそれは合っている気がする。そして二人とも――絵に対する情熱を著しく失う何かが起こった。それは何か分からないけど、倉田さんはここから離れ……岡崎さんもアトリエを移した。それから何十年後、倉田さんはここに帰って来る。
どうして? 何のために?
引っ越して来た時は絵を描くなんて思ってなかった、と言っていた。目的があるはずだ。どれだけ時間が過ぎても、わざわざ夢を捨てた場所に住みたいなんてならないはず。……岡崎さんに会う為? いや、それなら引っ越して来なくたって叶う。やはり絵に関連することだろうか。昔の思い出や情熱を取り戻すために必要だった? この団地。この場所が。
頭の中のもやもやは、あと少しで形が定まりそうな気がした。
なんで? 何のために?
さっきから声を出そうとしているのに、口が動かない。
涼くんに聞けば、私より先にある考えを言ってくれるのに。
口、乾いて、固まってる。
ノドの奥が……カラカラにひび割れていく感覚。
水。みずほしい!
「愛理さん? 排水溝が気になりますか?」
「……」
「何か落としちゃいました? なら自分が……ち、ちょっと!」
溝をすすろうと顔を近づけるところで、身体が後ろに引っ張られた。振り向くと涼くんの首と鎖骨が見える。父とも違う、男性的ないい匂いがした。皮一枚めくればたっぷり水が詰まっていそうすこしもらっちゃってもおこらないか。いや、涼くんの中身は涼くんのもの。でもいいなあ。ほしいなあ。きっとあたたかくてきもちいいんだろうなあ。のみたいなあ。
「マジか、全然抑え込めねぇ!」
「……グ」
「呪いが暴れて、意識を乗っ取られてる。なんだ? 水? 水に対しての強い渇望……ほ、ほら、愛理さんペットボトル自分持ってますっ! これどうぞ!」
開いた口の前、差し出したものを見て釘付けになる。
のんでいいの?
私の問いにペットボトルが頷いて、ちゃぷっと音がした。
「じわじわ増えていくだけだったはずだ。そう視えてた。呪いの進行も一定じゃないのか? 意志があるみたいに膨らんで増えて……偶然が重なったか、何らかの条件を満たした? 愛理さんは普通にしてたと思ったけど。まあそれはおいおい考えるとして……」
「んっ……んっく……ぷぁ」
「どっかで飲み物を確保しておかないとな」
* *
「愛理さん? あの、もう一滴も残ってないですよ。ほら、口それ以上つけるの止めて……ペットボトルの空気まで吸っちゃってますよそれ」
「え……あっ……あれ?」
「また自販機で買いましょう。少しは落ち着きました?」
涼くんが顔を覗き込むようにして心配そうにしてる。よく見れば抱きしめられている格好だ。な、なんで……理子を待つ間、少し考え事をしていたところまでは覚えてるんだけど。どうしてこんな事になった?
唇を指でなぞる。口の中に砂を詰められたような感覚がまだ残っていた。ペットボトルに触れていた舌先が離れた瞬間に、水が欲しいって衝動は嘘みたいに消えている。以前、包丁で手首を切ろうとした時と同じくらいの強烈な強迫概念があった。その収まり方も。
異常な渇きとそれを満たしたい欲求。
もし……さっき目の前に湖があったとしたら、私は死ぬまで飲み干そうとしたに違いない。そのシーンをはっきりと思い描けてしまう。実際団地の近くに川があるから、視界に入っていたら危なかった。涼くんがいたからそうならなかっただけだ。
涼くんは私を安心させるような笑みを浮かべている。理子も。
「理子!? い、いつからいたの?」
「今来たところ。連絡してたんだけどそれどころじゃ無かったみたいね。涼が要点だけメッセージで送ってくれてたし、だいだい予想は付く。あとで細かいところは聞くよ」
じろじろとこっちを見ていると、喜色を含んだ表情のまま口端が吊り上がった。やっぱり理子の笑顔は怖い。
「駅前に飾ってあった数点の絵からは、呪いとか怨みの念だとかは無いように思えた。ただの……いえ、すごい作品たちね。あんな通行人が行き交うだけの道に置いといていい絵じゃない」
「観て平気だった?」
「どう、涼? あたしからヤバそうな兆候はある?」
「いや……愛理さんもだが、お前に憑りついてるモノに今あんまり動きはない。ドライアイスの煙みたいに底に沈んでるって感じだ」
「なら一つ確認して。展示された絵を携帯で撮ってあるの」
私も涼くんも携帯を覗き込む。理子は私たちを手で遮り、引き剥がすようにして間に入った。
「涼は見なくていい。今から表示するのは普通の絵、普通の画像……でも、わざわざ確認する必要もないでしょ。少しの間あっちに行ってて」
「ん、任せる」
「……理子、いいの?」
「いいの。みんな仲良く呪いにかかったら終わり。ほんのちょっとでも可能性がある以上、最悪な状況は避けたいってだけ。そこは涼だって分かってる……ねえ、この画像」
理子の携帯には駅前の展示ギャラリーが映っていた。
数枚の風景画。倉田さんの絵だ。どれも場所とモチーフが少し異なるが、団地のイチョウ並木は共通している。少年野球の子が集まっている広場、散歩道を歩く人、並木から見える空など。筆使いや濃淡の技術とか知らないし構図もピンと来ないけど……
「倉田さんの絵、やっぱりすごい」
「聞きたいのはこの絵たちが完成した時期よ。全て一年以内……正確に言えば、団地に舞い戻ってから描いたものだったりする?」
「う、うん……どれも途中の時を見たことある。訪問介護は曜日で決まってたから」
「そう。今度は二つの呪いの絵を思い出してほしいの。それっていつ頃の絵? 記憶に無いなら、あんたなりの結論を出して。そのあとは何もかもあたしに任せろ。ただ、この一瞬だけは真剣にお願い。ものすごく重要なことだから」
「ええと、あの絵は……倉田さんが亡くなる数日前にどこからか送られて来た奴……その時は普通の絵に見えた。本人が描いたもので間違いない。でもそこから倉田さんの様子がおかしくなって……」
いつの時期に描いたか……なんて分からないよ。
そんなことをうっかり喋ったら妹に呆れられるぞ。考えなきゃ。理子が知りたいことはきっと呪いをどうにかすることと繋がっているんだから。
知っているのは倉田さん宅の離れで見た、恐らくは十代ぐらいの絵画に触れたばかりの絵。そして一年前から筆を再び握って制作した数点だ。大ざっぱに言えば呪いの絵はその間に描いたもの……絵の緻密さや作風、タッチの強弱とかに詳しければ年代を割り出せるのかもしれない。でもそれを比べるのは私じゃ無理だ。もっと別の角度がいる。
絵の古さ、キャンバスや額縁。実物があればもっと判断材料は増えたのに……ううん。呪いの絵は燃え尽きてこの世から消滅しているし二度とあの絵だけは視界に入れたくない。こうやって頭で思い返すだけで充分。
白い煙みたいなもやもやした絵は真っ黒に変わった。イチョウの並木を振り返る女性は倉田さん本人としか思えない。あの若い女性。理子……いや、私くらいの歳の――
「ナミノキョウイチとこの団地にいた時だ」
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