第30話 繋がりを断つのなら
「ナミノキョウイチとこの団地にいた時よ」
「……間違いない?」
「うん。二人が競うように絵を描いていた、当時の作品だと思う。年齢で言えば22か、23歳の頃」
「上出来。この一年間であんたが見ていなければって消去法に頼らずに済む。ってことは、そうか……推察の穴は埋まった。あとはあり得るかどうかだ。その辺は専門外だけど……涼! もう来てもいいわ」
「考えはまとまったみたいだな」
「おかげさまでね。先にタイムリミットを伝えておく。呪いのスピードは不規則かも知れないって話だけど、はっきり段階を踏んでる。始めはひそひそ声が聴こえた。次に白いもやが目に映り込んだ。んでさっきのは口の異常な渇きだったでしょう?」
「つまり五感を介してか……? 確かに愛理さんの症状すべてに該当する。それにこの呪いがじわじわ増幅する仕組みにも辻褄が合う。存在しないものを認識させた分だけ増えたって訳だからな」
幻聴と幻視……ナミノキョウイチ、岡崎さんは目と耳を潰していた。私みたいな症状に陥り、一人では止めようが無かったのかもしれない。そう言えば倉田さんは絵の具をのみ込んだ状態で死んでいた。さっきの場面とも重なるから、大きく外れてない気がする。
「後は嗅覚と触覚、つまり在りもしない匂いを嗅ぎ取り、肌で直接何かを感じた時、あたし達は……ま、どっちにしても正気は保っていられないでしょうね」
「おい、あんまり愛理さんの恐怖を引き出すマネは……」
「やる気を煽っただけよ。そんな可愛い性格してないわ。期待するだけ無駄なの。そんなことより本題に入る……こいつが最期までアホみたいな顔のまま死ぬ前にね。解決の道すじとして一つ仮説を立てたから、聞いて」
そう言うと理子は拳をぎゅっと握り、私の胸に軽くパンチした。え? 痛……くないけど、何? なん……? そのまま崩れ落ちるように私に身体を預ける。呼吸が荒い。いや、息出来てるのかこれ? 顔色がどんどん青白くなっていく。
「待て! なんでだ!? 愛理さんより悪化してる……!」
「乾いた味? 湿った、におい……ふふっ……あははハハハっ」
「理子! 理子っ!? しっかりしてっ!」
その肩をゆさぶる瞬間、もやもやした半透明の煙が妹にまとわりついて蠢いくのが見えた。涼くんがいつも感じ取っているものは、これ……? 悪意を感じる。理子を殺そうとする悪意が。
……もし、絵の呪いに意志があるとしたら。
呪いを解く方法を考えて、いくら真実に向かおうとしても。どうしようもないんじゃないか? 頭の中を監視されているのと同じだ。必死に足掻く理子を弄ぶようにして、こうやって意識と記憶を消してしまえる以上……。
ふいに青白い手が私の肩を掴む。小さい時から知っている妹の手。
「……ハハハ、ねえ? なんで泣いてるの?」
「ご、ごめん……泣きたいのは」
「泣いて悔しがっているのは、あたし達じゃなくて呪いの方よ」
「呪いが……?」
「だってそうでしょう? このタイミングで邪魔するってことは、『推理と考えは大正解で少しも外れてません。追い詰められて必死になってます』ってバカ正直に答えてるのと同じ。保育園児だってもっと小賢しく誤魔化すのにさあ。それ以下なんて……はあ、こんな奴にビクついてた自分のマヌケさを呪うわ」
そう言って乾いた笑い声を出し、焦点の定まらない目を空に向けた。まだ白いもやが理子の視界を遮っているのだろうが、呪いを噛み千切るように歯を剥き出しにする。
「絵の呪い。あたしたちを憑り殺す以外に能のないカスを……やっと粉にしてすり潰せるぞ……くふふっ、たっぷり後悔させてやりたいけど高尚な頭がないから無理ね。それだけが心残り……」
私にしがみ付く腕から、力がなくなる。
身体が地面に投げ出される前に抱き止めた。だらりと下がった手のひらを見ると血が流れている。かなり強く握りしめていたらしい。頭の中に響く呪いの怨嗟を振り払ったんだ。誰の助けも借りずに。そしてその後もずっと手のひらに爪を立てて、意識を保ち続けた。
「愛理さん。俺が背負います、肩を……」
「触るな」
思ったより拒絶に近い声が出て驚く。
手を伸ばして助けを求めた妹に、姉として何も出来なかった。愛想を尽かすわけだ。子どもの頃から、縋りついて来るこの手に応えたことなんて一度もない。それなのに理子は……強い言葉で私を励ました。
もしかしたら、助けなんか始めから要らなかったのかもしれない。ただ、私に大丈夫って言うために、手を伸ばしたのだとしたら……!
「涼くん。あなたが例え理子と恋人同士だったとしても、妹には触れさせない。断り無しに勝手に何か出来るのは家族だけ。勝手に助けていいのは家族だけだ! もう理子には……あたししかいないんだ」
涙が滲む。くしゃくしゃの顔を歪ませて、もうほとんど涼くんを睨みつけてるのと変わらない。それでも涼くんは動揺することもなく、なにか私越しに懐かしい物を見ているかのようだった。
彼の視線に背を向けて理子を抱え直す。
「ふぐっ……妹は、あたしが、一人で運ぶ……」
「分かりました。大通りまで来てください。タクシー捕まえときます」
ああ、それがあったか……!
タクシー呼ぶってアイデア浮かばなかった。
先に行く涼くんに声をかけようとして、白い何かが地面から足へ這い登っていくのを感じた。あっという間に胸元から首へ……鳥肌が走るようにすぐ消えて分からなくなる。自分の服と袖には血が着いていた。理子が手を握りしめた傷の血。
妹は気を失うまで笑っていたが、少しもそんな気にならなかった。
結局、最後まで他人事だ。何があってもどこ吹く風。さっき涼くんがいなければ私は死んでいたかもしれないのに。理子が愛想を尽かすワケだ。救いようのない人間……でも。理子のことだけは本気になれる。遅すぎたが目の前で苦しむ姿を見て、やっと理解できた。
妹は私に期待していないけど。姉として見てはくれないけど。切っても切れない縁。そのくらいには私を想ってくれるのがわかる。
だから、私は。理子のために私は――やるんだ。
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