第7話 予兆
「坂本所長。お疲れ様です」
「サービス実施記録のチェック? もしかして倉田さんの?」
待ちに待った、というのは少し語弊があるが午前中三つの介護用件を終わらせて倉田さんの訪問に向かう前、書庫で坂本所長に声をかけられた。ただの業務の振り返りなのに、ずいぶん心配した面持ちで私の持つ実施記録を覗き込んでいる。
自分の顔がよほど深刻そうに映ったんだろうか。気を付けなければ。
「はい。本当なら担当だった誰かに、訪問時の様子を聞いてみたかったのですが勤務が合わず……せめて今日向かう前に把握しておきたくて」
「なら知ってる限りで教えてあげる。何か引っかかってるでしょ?」
「ええまあ。体調が悪そうなのはここの部分で読み取れましたが……」
気になるのは顔色・発汗の項目にレ点が入っていること。
生活援助の記録欄は台所周りの掃除のみと指示され、その理由も聞いたが答えなかった、と言うこと。倉田さんにしてはお声がけの返事が怒るような、否定の言葉が多いこと。お身体の具合もそうだが、機嫌も良くなかったのだろうか?
坂本所長は私の指差した部分を見て頷いていた。
「そこには書いてないけれど、あまり眠れていない、落ちくぼんだ眼をしてたらしいわ。お声がけした時も、元気がないというか……なにか不安な素振りで奥の部屋にずっと籠られていたそうよ。少しでも近づこうとすると強い口調で咎めるし、普段とは明らかに違うみたい。あと……髪の毛がね」
「髪の毛?」
「気分転換に髪を染めたって言われたらしいんだけど、どうみても白髪に茶色や黒の絵の具を塗っただけって話よ」
「倉田さんがそんなことするなんて、信じられません」
「その報告を聞いて私は認知症の兆候あり、と判断した」
「ご家族……連絡先には報告を?」
「したわよ。と言っても妹さんしか連絡できる番号はなかったけど。電話したら近日中に様子を見に行くって。一人で暮らしていくのが難しいようなら、施設に入所させるか、家で面倒を見るか判断すると言ってたわ。北川さんへに対しての癇癪も、認知症から来るものだったのかも」
「そうだったんですか。私も今日変わったことがあれば伝えます」
「え、ええ。そうね」
実施記録のファイルを閉じて書庫に押し込んだ。
それを坂本所長は不思議そうな感じで眺めている。他に懸念している所があるんだろうか? 珍しく歯切れの悪い言い方だったし。
「何か?」
「いえ、もっと……いつもみたいに表情に出していいのよ? 北川さんの性格は知ってるし、みんなも助けられてる。でも、心配させないようにって考えてくれたのよね? その素っ気なさというか、スイッチが切り替わったみたいな変わり方は……」
「そ、そんなに分かりやすいです?」
「ふふっ、悪いことじゃないから安心して。北川さんに利用者さんのクレームがあまり入らないのは、そこなのよ」
「……訪問のローテーション、私には接しやすい方を割り振ってくれてるからじゃないでしょうか」
「まさか。倉田さんも最初は話も出来なかったんだから。疑い深い人ほど貴女を理解できるって感じ。正直なところもそうだし、嘘がない……というよりも、嘘であってもそれが優しさから来てるんだなってすぐ伝わるの」
ただ必死にやっているだけ。それで都合よく仕事が回っているのならいいか。分かりやすいのは取り繕う余裕が無いからだ。高校生くらいの時は誰にもバレなかったんだけどな。
まあ、見透かされた私も私じゃないし。両方とも偽物。
自分にアドリブは出来ない。利用者があれこれ言ってくれるなら、そのようにすればいい……でも予想外の事態に出くわしたら一度完全に止まることにしてる。それから頭を巻きなおすのだ。
岡崎さんって男性利用者に臨時で訪問したことがあるが、あの人は楽だった。ヘルパーの一挙手一投足、すべて乱暴ではあるが指示してくれる。介護の声掛け、補助の仕方、掃除、歩く歩調や強弱さえも。その辺が嫌で担当から外してって声が多いらしい。人によるんだろうな。ロボットの様に動いているうちは何も考えずに済む。嫌な自分を頭の奥底に追いやっていられるのに。
「それなら、その、嬉しいんですが」
「倉田さんのこと頼むわね」
「はい。任せてください!」
相手と同じように微笑みを向けて答える。
そこに心や血は通っていない。
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