第6話 違和感
職場のロッカールームで何度かのため息をつく。
頭の中で今日の反省をいくらしても、終わりが見えない。
よくある年寄りの癇癪、と言えばそれまでだ。歳を取ると丸くなるというが実際は異なることが多い。人の本質がよりさらけ出される。はっきりする。隠さなくなる。隠せなくなる。だから遠慮も無くなる……もちろんご高齢者全員が、と言うわけではない。ただ訪問介護でいろんな方を補助する中で、急に気持ちが変わる方の割合は高いと思う。
ただ、倉田さんにそんな兆候は見られなかった。
あの激しい怒り。そしてどこか慌てていたというか、怯えを含んだ表情……どこだ? 私のどこが彼女の逆鱗に触れた? 私は絵の作法をほとんどと言っていいほど知らない。何かタブーに近いことを知らず知らずの内にやってしまったのかも。それならあの怒りも分かる。
あるいは、誰しもが持っている自分だけのルール。そこに土足で踏み入って荒らすような真似を私がした? 一人じゃ今後どう対応すればいいのか、結論までは至らない。倉田さんが落ち着いたのなら、話を聞きたいけど……
「北川さん、大丈夫?」
「お、お疲れ様です。坂本所長」
「戻ってきたときに元気がないなって、みんな心配してたわ。顔色も悪いし。報告書、次の出勤日でいいから、今日はあがったら?」
所長は私の様子を見に来てくれたらしい。報告と共有をどこまですべきだろう。私が倉田さんの機嫌を損ねさせ、契約時間前に帰ってきたことはすでに連絡して伝えた。物を投げつけられて、切り出しナイフを向けられたことまで明かすべきか? 利用者の中には本気で私たちを蹴ろうとしたり殴るような方もいるにはいる。
でも、何か……私だけが気付けることに、気付いていないような……個人的に解決したほうが望ましいんじゃないかって、思うんだけど。
「ええと報告は、いや報告書はですね……」
「その先にこれを見てもらえる?」
「誰かのFAX、ですか?」
「貴女ずっと控え室にこもりっきりで、気付いてなかったでしょう?」
手渡された感熱紙には、事業所名と倉田さんの名前が書かれている。一瞬、今回の不手際に対する御意見かなと頭をよぎったが、そこにはただただ謝罪の言葉が書き連ねてあった。
私に対してなんの説明もせず、自分の絵に向けた勝手な思いがつのり、感情的になってしまったこと。気が動転して心無い言葉を口に出してしまったこと。刃物を使って脅し、追いだしたこと。介護士の矜持を傷付け、不安にさせたこと……心から反省し金輪際、訪問に来られるみなさんの心身を損なうような行為をしない、という内容が誠心誠意を込めて書いてある。
「この文章、書き慣れてるし達筆ね。北川さん。貴女宛のようだけど、倉田さんって絵画が趣味なの?」
「え? はい。奥の部屋に道具一式があります。趣味の領域を超えてるすごい絵を描くんですよ。普段は片付けてありますが」
「知らなったわ。だから前にヘルプに行った時、花の匂いがしたのね」
坂本所長の言葉に相槌を打つ。
ああ、良かった。倉田さんの信頼を傷付けた訳じゃないんだな。また会える。次の訪問日に詳細を話してくれるかもしれない。普段通り散歩をしながら言葉を待ってもいい。
うちの職場では担当はローテーションで替わり、毎回自分が訪問するわけではない。隔たりのないように社員や非常勤の介護士が振り分けられる。今日のことで特に倉田さんからNGの要望は出なかった……次に会うのは週末だ。
私が、もう二度と対応を間違えないようにしなくては。
* *
ベッドに座ったまま携帯の画面を眺めていると、その数字がガラッと切り替わった。一日の終わりを告げ、また今日が始まる。携帯を枕元に置いて壁掛けの時計を見ると、その秒針は音もなく回り続けていた。
時計の針を見る時間は、私にとって苦じゃない。
自分がそうしたいから当然だ。
いつか母が言っていたことがある。時間が止まってしまえばいいのに、と思う時間ほど速く過ぎてしまうって。楽しいときと嫌なときでは、時間の間隔が違う……確かにそうだ。子どもの頃は一日があっという間だった気がする。大人になった私にとって、夜と朝はずっと続く憂鬱なもの。
ぼんやりと部屋を見てるだけでいい。
他の事は考えるな。私のまぶたが落ちるまでは……と数日前までは思っていたが、もうここのところ好きにさせている。
【今日も余計なことばかりしてしまった】
【倉田さんへの配慮が足りなかった。怒らせてしまった。反省させてしまった。FAXまで書かせて時間を使わせてしまった。次に訪問する時にまた謝罪される。絵に関して細心の注意を払って対応していたなら起きなかったことなのに】
【坂本所長は自分のミスのせいで業務が増えた。素っ気ない態度を見せたせいで、心配をかけさせてしまった。倉田さんの家族に電話連絡もさせたしローテーションや訪問の留意点も変えてしまう可能性がある。職場のみんなにもそこで迷惑をかけているし、職場に帰って来た時にテンション下がった自分さえ隠せていたら、フォローや声掛けに手間取らせることもなかった】
【今日も理子に大学の様子を聞けなかった。大変なことがあったら、何か自分が変わってあげられることだってあったかもしれない。抱えてる悩みがあったらどうしよう?】
【そもそも私が家にいる意味あるのか? 理子は私が料理をしてもしなくても気にしない。私がいなくても生活に何の支障もないし変わらない】
【そりゃそうだ。私なんかが、誰かに影響を及ぼすことがあっちゃ駄目だ。北川愛理という存在が誰かの人生を左右させるなんて事は無いんだから……ただ、私のせいで誰かの時間を奪い、使わせていることが多すぎる。なんでそうなる? もういやだ。このまま朝が来る前に消えてしまえればどんなにいいだろう……】
【私は絶対に必要、とはされていない。でも、それでも。理子の幸せに、ほんの少しでも役に立たなければ。料理でも洗濯、悩みを聞いて重荷を外してやるとか、何でもだ】
【でなきゃ私たち家族の……存在していた意味が分からない】
倉田さん。
あなたは言いました。心の声は自分に何かを気付いて欲しい合図だと。時間があるときは耳を傾けてと言っていました。時間はあります。延々と長く感じる理子が起きるまでの時間が。耳を傾けています。最近は誤魔化さずに聞くようにしています。睡眠はなかなかとれませんが、いつものことです。どうにか続けたいと思っています。意味があるなら私も知りたいんです。
それに、このずっと止まない自問自答をしていると、部屋から聞こえる環境音が気にならなくなりました。
車の音。道を歩く音。床の鳴る音。空調のぱきぱきと割れ響く音。呼吸音。心音。時計の針の音が――聞こえなくなります。あるのは底なしの孤独。自分の頭の中だけで完結しているので、その点は良かったです。変化を前向きに受け止められています。それに限界が来れば、あとは朝ごはんの支度する時間まで眠れますし。日によってまちまちなのが難点ですが。
いつも決まった時間に意識を失うような、都合のいいやり方があればなあ。寝たいのに寝れないのは辛い。睡眠薬もたくさん買ったけど、いつのまにかどこかに消えてしまった。
ああ、ああ!
声がどんどん大きくなる。心がざらざらと音を立てる。
耳鳴りが激しくなる前に。涙が溢れて止まらなくなる前に。ノドや鼻を焼く吐き気がこみ上げてくる前に。身体中を無数の針で刺される痛みが訪れる前に。
【誰か私の頭を叩き割ってくれない?】
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