第8話 ピュクシスは いま ひらかれた




 ぴんぽん、と鳴らしたチャイムが団地に響く。

 呼んでも返事は無かったので、しばらくしてからもう一度鳴らす。ドア横の格子窓に目をやると、少し開いている隙間から絵の具の匂いが漂ってきた。まさか一心不乱に絵を描いてて聞こえていない……なんてことだったら私の中で笑い話で解決するけれど。

 待っている間に訪問の時間に入ってしまった。トイレや手が離せない用事なら仕方がないのだが。


 誰かと一緒なら事前に連絡をするだろうし、外出してるって言うのは考えにくい。介護士の訪問時間ということもあるが、足の悪い彼女が一人で出歩くなんて散歩くらいのものだろう。そしてその散歩は私と行くことを楽しみにしていたのだから。


「すみません。あの、北川です」


 何度目かの呼びかけを試みてもドアの向こうは静かだった。あれこれ部屋のことを想像しているより、不安の方が徐々に大きくなってくる。『具合が悪そう』『元気がない』『寝ていないような』『落ちくぼんだ目』……私の知り得ない、倉田さんのここ数日で変わった様子が私をざわつかせた。


 気持ちをまぎらわすように再び格子窓に目をやる。その瞬間、顔中の血の気が引いて冷たくなった。……もし窓を開けるとしたら倉田さんが手をかけるであろう位置に、赤黒い点が付着している。手形とも言えない、指の跡。


 何らかの異常を発見した時どうすればいいか、そんなマニュアルや知識はぜんぶ頭から吹き飛んだ。自然と手が伸びてドアノブを回していた。鍵はかかっていない。きっと眠くなって午睡でもしているのかもしれない。倉田さんにそんな生活リズムは無くても、具合が悪いのなら別だ。電話するのも辛くて、それで……それなら辻褄は合う。確かめて、違ったら非礼を詫びればいいのだ。

 今自分の思考や行動が馬鹿げているって自覚はある。けど、もう止められない。


「失礼します」


 返事の代わりに、むっとこもった匂いがドアから通り抜けていった。濃い絵の具の匂い。それは使い古した油のような感じに似てる。倉田さんの訪問介護に行く時、ただよってくる絵画の匂いは植物系でそこまできつくなかったけれど、これはちょっと精神にくるものがある。ずっとここにいたら頭が痛くなりそうだ。


 すぐ横の窓を見ると、確かに指の跡がついていた。質感から乾いた絵の具だということが分かる。絵を描くどこかの段階で、換気をしようとしていたんだろう。血じゃなかった、ということに安堵して廊下から部屋に入る直前、匂い以外の異変に気付いた。

 ……テーブルが黒い。


 どろどろとした黒で塗られている。執拗に筆を重ねてあり、まだ厚みのある部分は乾ききっていない。垂れた絵の具がテーブルから床に落ち――そしてナメクジが這ったような足跡が右奥の部屋へ続いている。


 一瞬、母親との記憶が頭によぎった。訳も分からず自らの汚物を床に擦り付けて自室のベッドに戻る母親と、あの糞尿の臭い。それが今ここで鼻にこびりつく油の臭いと重なって、思わず吐き気が込み上げてくる。


 唾を上手く飲み込めない。冷えた汗が滲む。隣からは何の音も聞こえなかった。絵を描くときって、独り言が口から出たりしないんだろうか? すごく集中しているのなら別? 思えば実際にキャンパスに向かっている時を見たことはないし、だとしたらこんな息がつまりそうな静寂の中で、作品と向き合う心境が分からない。

 考えている間にも自分の胸の音が大きくなっていくのを感じる。私はまとわりつく不安を散らすように首を振り、いつも倉田さんと付き添ったように、引きずった足跡をゆっくりと辿った。


「倉田さん?」


 そこに彼女はいた。

 仰向けになって天井を見ている。目を閉じていたなら眠っていると思ったかも知れない。そばにはパレットが落ちていて、あらゆる色がかき混ざった汚れた黒が視界に入った。


「倉田さん!」


 駆け寄って声を出しても何の反応もない。大きく開いた瞳は、私を見て、申し訳なさそうに悔やみ、あるいは……なんで、と呟きそうな困惑を浮かべているようにも見える。ただ、その表情は絵の具が乾いたように顔に張り付き、ほんの少しも動かない。


 これって……どういうこと? 絵を、倉田さんが描いていたんじゃないの? こんな、絶対におかしいよ。だって絵みたいに冷えて止まってる。

 ああ、それってつまりそれは。待って、ちょっと……! 

 私の手が、痺れるように震えだした。


「助けて、誰か……かみさま……」


 祈るような、すがるような声が漏れて胸に手をやろうとする。ただ途中で止まった。替わりに自分の弱気を握りつぶすような、強い力が入る。


【神様になんて頼るな。自分でなんとかしろ】


 強く叱りつけ、私に言い聞かせる声がした。初めて聞く声じゃない。よく知っている気がする……そんな厳しい誰かの言葉が私を突き動かした。

 頭の中で記憶を探りながら、倉田さんの手を取り脈を確かめる。感じるのは自分の心拍だけで、首元を触ってみても同じだった。体温も凍えたように冷たい。身体に変わった所や傷がないかを調べながら、携帯を取り出して電話を掛けた。


「北川です」

『……何かあった?』

「倉田さんの訪問に行きましたが、意識不明で倒れています」

『え!? そう、えっと。なら、すぐ救急に電話して!』

「心臓は停止状態、体温は――」

『いいから救急車! 容体は救急に伝えて向こうの指示に従いなさい。私も今用意してそっち行くから!』


 坂本所長の叫びとともに電話を切られる。

 速やかに通報をしろ、と言うことだ。


「……はい。救急です。そうです。私は訪問介護士で、家に入った際、意識不明の利用者が倒れていました。ええ、はい。分かります。仰向けの状態で、脈はありませんでした。肌も冷たくて……呼吸ですか?」


 救急隊員の人の指示に従うまま、やや下向きになった倉田さんの顎を上げて気道を確保する。呼吸は見られないが、口元からどろっと血がこぼれて畳に落ちた。


「口の中から……出血がありました。息は多分していません。はい。分かりました。心肺蘇生ですね。訓練しましたので出来ます。ええ、よろしくお願いします」


 携帯をスピーカーホンにして住所を伝える。あとは救急車が来るまで倉田さんの命を救う方法を尽くすだけだ。その間も携帯からは矢継ぎ早に状態を確かめる問いかけが続く。それに答えながら空いた両手で心臓マッサージを始めた時、倉田さんの首やほほへ伝うどす黒い血が目に映った。色濃い固まりかけの、ゼリーみたいな――


「……血じゃない」


 救急隊員の方が何か聞き返していたが、もう耳には入ってこない。今も倉田さんの口から流れ落ちて畳を汚すその色は、白いテーブルに塗りたくられていた色と全く同じだった。

 さっきまで顔にも唇にも何も付いていなかった。どうやってのみ込んだ? いや、口の中に含んだだけ? そもそも傷が見当たらない。だから頭をぶつけたとかじゃないはずだ。例えば急に胸が苦しくなって気絶したのだとしたら、その瞬間必ず吐き出すに決まってる。よほど強い意思が無ければ。

 分からない。何のために、こんな……絵の具なんかを。


 よく見渡せば部屋の至る所に彼女の手形や染みが付いていた。おり重なった絵にも飛び散ってしまっている。あのイチョウの絵の黄色がちらっと見えた。私は何の反応も示さない彼女の身体に、心臓マッサージをし続けた。救命活動とはほど遠い、蘇生学習キットの人形相手に行っているような作業感。それを振り振り払うように身体を動かしている。むせ返るような油の臭いと、黒く染まっていく視界。

 めまいがする。思わず気が遠くなりそうだった。






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