第21話 ホットサンドが美味しい




 カーテンが揺れている。

 ここは……自分の部屋だ。真っ暗けど何となくわかる。風が肌に当たって気持ちがいい。もう夜? 小さい頃の夢を見ていた気がする。理子と手を繋いで帰る家までの道。遠い記憶の中の懐かしい夢。


 ドアの方を何気なく見ると、理子が壁に背を寄りかからせていた。倉田カスミさんの家に出向いた時のピシッとした服装のまま、携帯の画面を見ている。何か文章を打ち込む様子もなく、ただぼんやりと眺めている感じだ。


「理子。いま何時?」

「……あぁん? なに?」

「いや、その、何時かなーって。ずっと寝てたみたいだし私」

「……」


 む、無視されてる訳じゃないよね。少し起き上がろうとして、自分がパジャマ姿だということに気付く。


「理子が着替えさせてくれたの?」

「バカ、んなことするわけないでしょ。あたしが寝ろって言ったからあんたはパジャマ着たの。それだけよ。無意識っぽかったけどさ」

「そ、そうだよね。理子は、なんで……いるの?」

「もう出てく。何時かって話だけど。夜の9時くらいね。さっさと寝て明日に備えましょう」


 ドアに向かう理子を目で追う。

 よく見たら、スーツもシャツもぜんぶ脱ぎ捨てられている。普段なら絶対こんな風にしないんだけど。それもこれも無意識の私が悪い。というより、理子がやってくれたらよかったのに。ずっとそこで携帯いじってたんならさ。

 理子は何も言わない。

 団地から家までの途切れた記憶については、明日聞けってことか。


「おやすみ」

「ん」


 天井を見つめる。丸い照明の輪郭がぼんやりと視界に浮かぶ。寝る時と起きる時はいつも、私のエネルギーと時間をかなり使う。胸に渦巻く自己嫌悪を一つ一つなだめて意識の底に追いやり、睡眠に入れるテンションまで持って行く。毎日の手順だと部屋を歩いたり、軽く体操をしながらだけど、今日はこの服を片付けるのも含めることにしよう。

 裏っ返しになっている上着に手を伸ばそうとして、ふと手が止まった。

 ……今、部屋を出る時、理子はふらついてなかったか? 違和感が頭の中でがりっと爪を立てる。よく分からないけど、何か引っかかる。すっきりとしない何か……。


【気のせいだ。余計な迷惑をまたかけるぞ】

【また馬鹿にされていろいろ言われるに決まってる】

【やらなきゃよかったことをどれだけ増やせば理解するんだ】


 乾いた笑いとため息が同時に出ることを何て言うんだっけ? 寝ても覚めても私は、こんなのばっかり相手しているな。進もうとする気持ちを押し留める理由がすらすらと出てくる。内側から漏れる呟きはいつもこの足を止めようとする。


「そうやって、私は……両親の変化を見落としたんじゃなかったのか? もし理子自身が気付かないことだったら? 本当に後悔しないのか?」


 今回はわりと決着は速かった。それだけ嫌な予感がしているってこと……はっきりと言えない、非常事態に近い何か。


 扉を開けろ。声を掛けた結果、また妹を失望させるかもしれない。

 でも行く。行かなくちゃ。だって理子は、私の妹なんだから。


「理子……!」




 *  *




 ドアノブに手をかけた瞬間、後ろを振り返った。カーテンのすき間から、眩しい光が差し込んでいる。さっき21時だったはず。少なくとも夜間。夜明けまで一瞬で……脱ぎ散らかしてた服がない。私が片付けたのか。どこに? そもそもこんなことを妹より優先するわけがない。


 それとも理子への用事を済ませた後か? ようやく部屋に帰ってきて、服とか片付けてドアノブを閉めようとしたところで意識が戻った……?


 ドアは開いている。

 朝も早い、普段なら理子はまだ寝ている時間だが……確かめれば済むことだ。私の安心さえくれればいくらでも罵倒されていい。廊下から階段を見上げると、リビングの方で音がした。それと漂ってくる匂い……母が朝食の支度をしている、懐かしい休日の思い出が頭をよぎった。


「おはよう。なに? 朝っぱらから変な顔して」

「理子……? あれ……」

「寝ぼけてないで、顔洗ったら座りなさいよ」


 目の前の光景をそのまま信じるなら、理子がエプロン着て朝ごはんの支度をしている。軽く混乱しながら洗面に向かい首を傾げた。料理に関して言えばコンロも包丁も不慣れなはずなのに。何か変だ。これも夢じゃないのか?


 おそるおそる席に座って、テーブルを眺める。

 こちら側の皿にはミニトマトとレタス。二切れのホットサンド……中身はハムチーズ。ああ、包丁は使ってないのか。ナイフを使ったような荒い切り口だしレタスも手でちぎった簡単な感じ。でもいつか、父が泊りがけの仕事や出張の時の日曜日……私と理子のために、母が作った料理だ。


「い、いただきます」

「……ん」

「理子の手料理なんて珍しい……すごい」

「もったいぶってないでさっさと食べなよ。これからはあたしが作るから。もうあんたに料理はさせない」

「え、どうして?」

「昨日包丁で何しようとしたか。忘れたわけじゃないでしょうね。とりあえず危ない物は隠しておいたから。冷蔵庫も開けるの禁止」


 理子は目を細めてじっとこちらを睨んでいる。

 私が手首を切って自殺を図った……そのことを言っているようだ。心の中の優しい囁き。自分の全てを受け入れた上の……甘く誘う声。あの声は誰だったんだろう。知っているはずなのに思い出せない。あるいは、私が脳内で響く言葉を、知っている声で当てはめたのかもしれない。


 どちらにしても、死の誘惑に乗ったのは私だ。日常じゃまず選ばないような行動……あんなのは繰り返したくない。怖い顔をしている理子に頷き返す。


「昨日さ、私の部屋から出た後ってどうしてた?」

「着替えたあとは一階にいたけど? お風呂入ってたし……それがどうかした?」

「理子に声を掛けようとして、気が付いたら朝に変わってた」

「……また記憶が飛んだの?」

「そうかも」

「あたしは朝まで二階に上がってない。ソファで横になって携帯いじってて……午前過ぎくらいに寝落ちしてる。その間リビングで物音は聞こえなかった。眠り浅いし、普通にあんたがフラフラ入ってきたら起きるわ」

「じゃあ、外には出なかったのかな?」

「たぶんね。知らないだろうけど、無意識状態のあんたは寝言をずっと言い続けてるようになるのよ。だから朝まで何か呟いてたんじゃないの?」

「え、何それ……どんな風だった?」

「だから言葉の羅列よ。どんどん幼くなるっていうか、赤ちゃんみたいにあーとかうーとか喚くの。傍から見ればそのものって感じ」


 昨日私たちに起きた事。カスミさん宅からどう帰ったかも分からない。理子が団地で誰かを脅してて……頭に白いもやがかかったように、詳しくは思い出せない。あっ、ホットサンドおいしい。

 

「懐かしい味……」

「ん、こっちのツナチーズの方も食べる?」

「ほしい」

「はいこれ。お礼のトマトはいらないから」

 

 そう言ってツナメルトをひと切れ皿に寄越した。

 このやりとりに懐かしさを憶える。私がトマト苦手ってことを知っている理子にしかできないことだ。子どもの頃はもっと私がわがままで一方的にホットサンドを強奪していた気がする。

 母を筆頭に家族みんながトマト狂いというか、身体によくてありがたがる謎の信仰があった。サラダの彩りやパスタ、卵と炒めた奴とか出て来るから、毎回食べるの辛いんだホントに。少しは食べないと悪いしさ。妹のホットサンドとの交換はよくやってた。別に最初から嫌いじゃなかったんだけどなあ。小学校の調理実習の時、誰かが落としたトマトを足で踏みつぶさなければ食感がダメになることも無かったはずなんだよ。


 そもそもこれ理子専用のトマトストックだろ冷蔵庫の。わざわざ私に食べろってか? 母の料理レシピでもトマト入ってるやつ未だに作ってないのに。つまりこれは……手料理から始まる妹の遠回しの意地悪?

 

「ほらさっさとサラダも片付けちゃって」

「いや、だってさ……食べると身体冷えるし」

「それ食べ過ぎたらなんだけど」

「理子知ってる? トマトって昔は観賞用だったんだってさ」

「そのくだり聞き飽きたから。どっかの国で飢餓に苦しんでる人が食べてから広まったんでしょ? 栄養も他の野菜と比べてリコピン以外ぜんぜん大したことないって。だから食べないって理由にはならないと思う」

「……分かったわ。作ってくれたんだし」

「流石に丸のままのみ込むのは危ないから止めてね。歯で噛み潰して、皮を破ると緑のぶよぶよした中身が口いっぱいに広がる味わいを――」

「やっぱ意地悪だ!?」

「ふふ。トマトは食べなさいよ? 身体にいいんだから」

「こ、こいつもトマト狂い。謎信仰……」


 食感さえどうにかなればなあ。ケチャップとかは平気だから。フォークで半分に切ると、予想通り緑のどろっとした種の部分がどうにも嫌な感じだ。理子に視線で助け舟を出すが、まったく意に介していない。やっぱり料理は私がした方がいいな。何としても料理を作らないと。

 

 じっとアイコンタクトを続けていると、携帯が鳴る。

 立て続けに数回。この音はメッセージだっけ。

 しばらくして画面を見る理子の顔が曇った。




「……マジか。いや……結果的には……」



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