第20話 神様よりも




「何をしてるんですか!」




 振り返ると、団地の玄関奥に女性が立っていた。

 高齢の……ウチの事業所じゃ見ない人だ。でもこの団地で顔を見た記憶ある。倉田さんとの散歩や買い出しで何度かすれ違った。


「何って……投函物がはみ出して見苦しいから揃えていましたが」

「だけど他所よその物を許可もなく触る……って、その黒い服。さっき四階にいた女じゃないの!?」

「ああ、そうそう。思い出しました。岡崎さんの号室近くに犯罪者を見るような目で、アタシの様子を探る方がいましたっけ」


 今なんて言った?

 四階は岡崎さんが住んでいた。何号室かは憶えていないけど、訪問介護に一度行っていたから場所は分かる。もしかして、すでに……妹は。私が無意識でいた時間に事を済ませていたの? それを自分は阻めなかった……? 


「犯罪でしょ! 家具の引き取りで開いてたドアから中を覗くわ、ポストは漁るわ。何が目的なの!? すぐにやめなさい!」

「失礼ですが、あなたは? 岡崎さんとはどのようなご関係で? 神さまが必ずピンチに助けてくれるって約束でもされました? そうじゃなきゃあどんな大義名分を振りかざして――誰に命令してんだババァ」

「やめて! あの、すみません。謝ります気を悪くされて申し訳ないです! 私がぜんぶ元に戻したら、出て行きますから!」


 深々と頭を下げる。なんで私は……前もって理子を止められなかったんだ。玄関に入る前にいくらでもチャンスはあったのに、見ない振りをして……ち、力だってきっと私の方が強い。腕を引っ張ってでも家まで連れ戻せ、今からでも!

 顔を上げると厳しい表情をした女性と目が合った。


「謝罪は結構。二人とも通報して……え? 貴女の顔、どこかで……」

「あ、この地域で訪問介護をしている、北川と言います! たぶん、広場や並木道で会ったんだと思います」

「ああ確か、足を引きずった女性と散歩してなかった?」

「はいその通りです。なので、何度か挨拶を」

「てっきりその人の付き添いのお孫さんかと……幸せそうに感じたから。じゃあこの女に無理矢理、団地の案内させられてるの?」

「それは……ええっと」

「岡崎さんの情報は、意思に関係なくアタシが喋らせましたよ? 普段なら漏らさない事情まで、ね」

「この鬼畜! ひどい仕打ちを……!」

「ええ、ええ。どのように罵っていただいても構いません。質問に素直に答えてくれるなら嬉しいのですが。口を割らせるのは心が痛むので」


 理子がチラリと私を向く。愉悦の光を瞳の奥に宿らせている。これは妹の警告だ。楽しみの邪魔するな。そう言っている。私を利用して、この人から情報を聞き出そうとしている……! 止めさせたい、けど。む、むりだ。ビビっちゃって……何も言えない。

 再び女性を凄みを利かす顔には雰囲気がある。普段着ない黒服も一役買っているが、女ギャングって言われても納得してしまいそうだ。裏で糸を引いている感じの!


「私は棚橋よ。……同じ階に住んでる岡崎さんとは知り合いだったの。荷物運んでた業者の人たちが首を傾げていたわ。偉そうに堂々と部屋を盗み見て……そっちこそ何様のつもり?」

「今の口ぶり。彼が亡くなったのをよくご存知のようだ。ちょっと、まあ……尋常じゃない死に方でしたので。究明のためにアタシが調べているんですよ。棚橋さん」

「警察……探偵ってこと?」

「そんなところです。彼は誰かに恨まれたり、仕事や趣味の領域で厄介ごとを抱えたりしていましたか?」

「いえ、聞かなかった。特に晩年は何かすることも無かったし」

「ずいぶん長い付き合いなんですね」

「この団地が出来て五十年近く経つけど、お互いずっと住んでたから」

「あ、それ聞いたことあります。昔はもっと入居者がいて、抽選とかしていたくらいだったって」

「ええ、北川さんの言う通り。若い新婚さんが次々入居してね。学童とか保育園がたくさんあって……近くの商店街も活気があったわ。団地も私も年を重ねて来たの。改築とかも棟ごとにしてはいるけど、もうそう遠くないうちに解体や建て替えをするって話よ」


 確かに、幾つかの棟では改装を何度もしてる。倉田さんが去年ここに引っ越してきた時も、建て替えのために一時的に立ち退くかどこかの棟に移動するかを入居前に言われたみたいだし。

 理子が話をかみ砕くように何度も頷く。


「最後に一つ。岡崎さんの手がけた作品、どこにあるか知りませんか?」

「……いえ。知りません」

「そうですか。手間を取らせてすみませんでした。ご協力ありがとうございます。もうここには立ち寄らないようにいたしますので。数々の非礼、ご容赦ください」


 もう興味がない、と言う風に形式だけの謝罪を述べると、妹はさっさと外に出て行ってしまう。私は棚橋さんに何度かお辞儀をしてから理子の方へ走り寄った。


「理子、もうこれっきりにしてよ!?」

「言われなくても多分しない。得るものはあったし」

「そ、そうなの……?」

「今の話。幾つか嘘があったけど……亡くなった倉田さんと岡崎。二人は絵を描くってことが共通していた。別々の死じゃない。繋がっている。あとは答え合わせまでたどり着くだけね」


 視線を持ち上げて街灯をぼんやり見る。

 岡崎さんが、絵を? そんなこと棚橋さん言ってたっけ? いや違う、質問の仕方が制作に関して触れてたんだ……そもそも絵とか書きもしない人だったなら、そこから否定されるはずって理子は言いたいのか。私には見抜けなかった嘘もあるらしい。ど、どこだろう――

 

「……」

「なに立ち止まってんの?」

「わたあめ」

「は?」

「ほら見て、わたあめ」


 白い街灯がぷくりと膨らむ。

 またわたあめが落ちた。並木道に柔らかく跳ねて転がってくる。たくさん……こんなオモチャあったよね。水と油にきれいな色がついてて、天井をひっくり返すやつ。手で振らないでじっと見てなくちゃ。ころころころころころ、ぼたぼたぼたぼたぼた……あはは。だんだんくっ付いて大きくなる。白いもやが靴にまとわりついて離れない。細長い針のような足が何本もそこから突き出て、自分の身体に刺さった。痛みは感じない。引っかきながら白いもやが這い登ってくる――




【カテ、ナクナル……カラッポ……。モラウ……】




「何かして欲しいことがあるみたい。なあに?」

「倉田さんは白いテーブルを塗り潰して、黒い絵の具をのみ込んでいた。岡崎は耳と目を自分で潰してる。ああ、くそ。なんだこのふざけた状況は。わたあめってどこだよ……!?」


 わたあめはすっぽりと私を覆い隠し、まるで雲か濃霧の中のよう。静かで……何も聞こえないし分からない。誰かが何か、ぶつぶつと語りかけて来る――


 誰かが私の手を掴んだ。冷たく震える手。

 縋りつくようなこの感触を私は憶えている。


「目を閉じろ」

「りこ……どうしたの?」

「白いのはまだ見えてる?」

「見えない。真っ暗で。あれ、どこ……」

「探すな。他の言葉に耳を傾けるな。この声だけ聞いてろ」

「また誰かに泣かされたの? お姉ちゃんが……そいつを……」

「いいから早く帰ろう?」

「そうねえ……大丈夫。あんたには、あたしがいる――」


 ぎゅっと手を握られた。返事をするように力を込めて返す。いつものやり取りなのになんだか嬉しくなる……つねってやれば涙の理由も変わるかなとも思ったけど、気が済むまでさせてやろう。



 だって理子はあたしの大好きな、妹だから。



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