第14話 あとかたづけ


 レンジの鳴る音で顔を上げた。

 目の前には見慣れたキッチンの光景が広がっている。手に包丁を持っていて、まな板の上にはじゃがいもの皮。そしてこの匂い。切ったものをレンジで加熱していたらしい。何を作るかはすぐ想像出来た。


 さっきまで職場にいたんじゃなかったか? 携帯を……携帯はどうしたっけ。坂本さんが大変そうだった。何か言われた気がする。坂本さんと誰かに。休憩室。ロッカー。

 ああ、もう! お酒を飲んだ覚えもないのに、断片的なことしか思い出せない。そもそも何をしてるんだ私は。レンジでじゃがいも温めてる間ずっと、ぼけっと包丁握ってただけか? 色々やれたはずだ。他の食材切ったり片付けやフライパン準備したりさあ。他の段取りが何も出来てない。全然なってない。


 母が心の穏やかさを保てなくなったのは……父が亡くなった後だ。それは間違いない。労災事故を含めた会社の対応が悪く、母は損害賠償の裁判を起こした。私の聞く限りでは感情を抑えて交渉し続けていたが、示談も成立しなかったらしい。父の死が会社側の責任だと認められるまで、二年かかった。準備期間を考えればもう少し長いかもしれない。私はその頃には短大を卒業し、理子の進路も定まっていた。

 ささいな変化に私は気付くことが出来なかった。母は料理に掃除にと時間が掛かりだして、家事がおぼつかなくなっていたのに。最初はお酒を飲むようになったからだと思った。父のことが忘れられなくて、それで辛さが和らぐなら……そんな風に考えていた。


「ねえ」

「え……?」

「アプリからの手続き終わった。携帯の利用は一時的に停止しといた。思い当たるとこ探して見つからなかったら買い換えれば?」

「ご、ごめん」

「は? こっちのミスでしょ。あたしがそっちに電話掛けたから。考えが足りなかった。誰かが画面から番号を見て、悪用する可能性を考えるべきだった」


 理子はそう言ってテーブルの椅子に座って携帯を触り続けている。つまりは私の作る昼食を待っているということだ。あの日と同じ、母の料理を姉妹でずっと待っていたように。

 

『効率悪すぎ。それくらい同時に出来るでしょ?』


 理子が母の手際の悪さを指摘して、一気に異常はさらけ出された。

 崩れていくのはあっという間だった。それを見せまいと努力するのを止めたのもあるが、母はみるみる痩せていき、物もいくつも覚えていられなくなった。

 日常的なことや、昔の記憶。子どもの時にみんなで手作りしたお菓子のことも。確かにあるはずなのに見つけられなくて叫んだり感情的になる。それを介護していてもどかしく思った。頭の中を曖昧にさせているモヤモヤを追い出してやりたかった。そして今、この散らかった台所を見る限り……私は母と同じように日常を途切れさせつつある。


 マジか。そりゃあ若年性なんて名前は付いているけどさ。

 20歳ちょっと過ぎたくらいで発症するものなのか……


 理子はどうなる? 誰が妹を守るんだ?

 せめて大学を卒業するまで……そう言えば進路や就職はどうなっているんだろう。もっと早く聞いとけば良かったが、まだ間に合うはず。わりと近い未来、結婚して家庭を持って……子どもの事とか、なんて考えてたりするのかな。


「理子、好きな人っている?」

「……はあ? 急に何?」

「いや、あっあのね。ちょっと聞いてみたくて、ええとそう! 進路とか悩み、やりたい夢とか! 大丈夫だからね? 決まってないなら言わなくても別に」

「決まってたら言えってこと?」

「そ、そうじゃなくて、理子の中で明確になってれば、それでよくて」

「……うざ」


 ため息をついて、理子がこっちに歩いてくる。

 訝しげに目を細めて私を見ると、キッチン周りの惨状をしばらく眺めて、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

 

「余計なお世話よ」

「で、でも……」

「今日から四日前。お味噌汁には何が入ってた?」

「え、その日は……かき玉汁にしたから、ニラと……」

「あっそ。あんたの頭の引き出しに異常はない。回り道もない。まあ、ほこりが積もりに積もって、自由には動けないでしょうけど」

「埃? なんのこと……?」

「またいつもの思考停止? 別にそれをどうこう言うつもりはないわ。けどね。あたしの未来に、あんたは入ってない。いてもいなくても変わらない。例え何があってもぜんっぜん気にしないからさ。自分のことだけ悩んでれば?」

「いてもいなくても、変わらない……?」

「料理だって同じ。無くてもどうにでもなる。家のことをちゃんとやるべき、とか決めつけてあとは何にも考えてない。気楽でいいわ……マネしたくはないけど」


 ひとしきり喋ると理子はリビングのソファーに身を投げ、天井向けに携帯を触りだした。頭の中で言われた言葉がぐるぐると巡り出す。理子の伝えたかったことを理解しようとしたが、いつもの通り単語の羅列のまま、すぐに散っていって意図を読み取ることは出来なかった。


 気にされない。その価値がない。

 いてもいなくても変わらない。それが理子にとっての私。それが当たり前だと思ってた。その先を考えろ、と妹は言っているみたいだ。でも分からない。分かんないよ。なんで、どうして、って言葉が浮かぶだけではっきりした答えが見つからないんだいつもいつもいつも。私は、どうすれば……


【コノ ミカラ イナク ナレ】


 囁くような、落ち着いた声がした。初めて聞く声じゃない。よく知っている……誰かの言葉が、心に染み込んでくる。

 理子は迷惑してないって言ってくれたけど。もし私が、母と同じように色々なことを忘れたり間違えたりが増え出したら、それだけ理子の時間を使わせることになるに決まってる。私が生きている限り、何十年も。それならいっそ――


 ぎゅっと包丁を持つ力が強くなった。

 料理を途中にしている。はやく理子に食べさせてあげないと。

 だからダメだ。




 *  *




「いただきます」

お願いね」

「……ん」


 理子が頷く。食べるのは速くないし、これで三十分は稼げる。洗い物をしてくれれば尚更だ。携帯を見ながら箸を進めているから、私の姿は見えていない。

 エプロンをたたんで食器棚の引き出しにしまうと、ゆっくりと理子の横を通り過ぎて洗面所に向かう。洗濯は午前中に済ませてあるし、新しいものはない。携帯電話の利用も理子に止めてもらった。簡単だけど夕飯に食べれそうなものも冷蔵庫に入れてある。


 ドライヤーの延長コードやタオルが視界に入った。

 これだと……上手く行かないなたぶん。それに意識を失った時、倒れたり物音が出たらさすがに理子は気付くだろう。失敗はまずいんだ。やっぱり痛くても確実な方法がいい。


 手の内側に張り付けるように持っていた包丁を、いったんそばに置いた。袖をめくって手首をじっと見つめる。これが一番確実で簡単。それに始末も楽なんじゃないか?

 浴槽の戸を閉め切ってシャワーを出そうしたが、思いとどまった。ちょっとした音だけでも理子は食べるのを中断して声を掛けに来るかもしれない。


 もう私には理子しかいなかった。

 大切な家族。二人きりになってより強くなったこの気持ち。小さい頃みたいに何をするのもいつも一緒、って歳でもないのに。こんな子供じみた思いを頭から消せない。そう思うのは私だけだ。

 理子はきっと私に対して違う気持ちでいる。切っても切れない関係を目障りだと感じているはず。自分の支えなんて必要としていない。いや、自分が一方的に理子の足を引っ張り、しがみ付いている。邪魔なら取り除かないと……妹の人生に要らないものは。だから、後片付けだけやってもらおう。この先何十年と苦労をかけることに比べたら一瞬のことだ。


 空の浴槽に温度を確かめるような恰好で手を下げ、包丁を当てる。

 すっと横に風が流れ――後ろから叩きつける音がした。


 振り向くと理子が立っていた。戸が全開に開かれてなお、左手で押し込められて軋んでいる。そして、携帯の画面でも眺めるような目で私を見下ろしていた。


「な、なんで……どうして!?」

「今日のことを言ってるの? なら簡単よ。テーブルのお昼ご飯、一人分だけしか作ってない。いつもなら外食の用事があるとか体調が悪いとか、必ず理由をあたしに言ってくる。まあ、食べない理由なんて決まってるでしょうけど」

「それだけで……」


 理子の口端がわずかに上がった。

 小さく笑うだけで、その羨ましいくらいの顔立ちがより魅力を放つ。


「それだけじゃない。ここ数日、退屈しなかった。あんたから異常のサインが出ていたからね。とりあえず今やろうとしてた事、保留にしてくれない? あたしが許可するまではさあ」

「……」


 理子の手が、包丁を持つ私の手に触れる。

 自分の指をほどくようにして、包丁は理子の手に渡った。初めて貰った玩具のように、好奇心いっぱいの瞳をきらきらと輝かせている。やがてその目がこちらに向いた。両親を追い詰めた目。心の奥底に埋もれている隠し事さえのこらず暴くような、容赦のない目だ。


「これ持って、お風呂ですることって何? あたしには分からないなあ。分からないから教えてよ。お昼を食べながら……ゆっくり念入りにね」




 理子は笑っている。

 その歯を剥き出しにした表情。半年ぶりに見た。数年前にも。

 それは、私だけに覗かせた笑顔だった。

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