第13話 ロッカーの後ろに
休憩室を通り、そのままロッカールームへ入る。
そこで大きなため息をつく。坂本所長の強い口調に、思わず頷いてしまった。ここ数年、誰かの有無を言わせない指示を聞くと、頭の中が真っ白になり考えることを止めてしまう。それが私の癖だ。なかなか治せない。
私が休むことで、本来するべきだった業務が坂本さんたちに降りかかる。それはみんなの時間を使わせることだ。私に構う、迷惑をかける……どういうつもりだ? なんで疲れた顔を見せてしまった? どうしてもっと、もっと何でもないように振舞えなかったの……!?
「あれ」
携帯はどこ? 事務所に忘れたんじゃないなら、後は自分のロッカーに置いてあるはずだけど。
ロッカーの中はもちろん、その周りにも携帯は見つからない。
自分の机は念のため確認したし、第一あるなら坂本さんが伝えてくれるはずだ。どこかに落としたのか? 思い出そうとするがふわふわとおぼろげで……分からない。お酒を飲みすぎた時のように帰り道の記憶が抜けている。まいったな。また理子に怒られるぞ。
考えがまとまらず、手で所在なげに机の回覧物を整頓し消毒液のボトルの向きをぜんぶ直した。今週いっぱいの休みとなると、上履きも持って帰って……いっそ心機一転で新調するか? 悪くない思い付きだ。理子を買い物に誘ってもいいだろうし。携帯電話はロックしないと。どうやってやるんだったか――
ふと気配がしてドアの方に目をやると、坂本さんが睨むような顔で立っていた。
「あ、休憩ですか? もう帰りますから」
「……少し聞きたいことがあるの」
「何でしょう?」
「倉田さんの件があった次の日。利用者の岡崎さんも亡くなったわ」
「え……?」
「知らない。そうよね。休んでいた北川さんが知ってるはずない」
「岡崎さん、一度ヘルプで訪問したことがあります。確か……」
「私と同伴で行った時よね。あの時は担当の職員がドタキャンしちゃって……岡崎さん、気難しい人だったしローテーションが定着するまでが大変だったけれど」
岡崎さん。
……男性の利用者だ。倉田さんの住んでた、向かい側の団地の人。亡くなった? 高齢だったけど、声は元気過ぎるくらいだったのに。
頑固さと神経質なところがあって、介護するにも細かい注文を出していたっけ。それで、私たちの掃除やサポートに少しでも行き違いがあると、火が着いたように怒鳴ってくる。それこそ掴みかかって来る勢いで、最初は怖かったな。ただ病気の投薬かその後遺症で手が常に震えていて、口での文句に留まっていた。それに指示をきちんと守っていれば、新聞を読んだり窓の外を眺めたりと落ち着いた様子だった、と思う。
「そんな……何か、急病でしたか?」
「倉田さんの部屋は髪とかテーブルとか黒い色で塗られてた。他に、何か異常だと思ったことはない?」
「異常?」
「身体に小さな傷があったとか、落ちていた物とか。生前のことでもいいの。話しているとき気になったことを教えて」
「ちょっと待ってください。それ、いま関係あるんですか?」
瞬間的に倉田さんを見つけた場面が頭をよぎる。
冷たくなっていて、すでに死んでいる彼女に心肺蘇生を続けていた時のやるせなさと両手の感触。周りに何があった? パレットがそばに落ちていて、かき混ざった黒い絵の具が見えて……他は思い当たらない。私が胸を押し込む度に、口からどろっとした血が溢れて――いや、あれは血ではなかった?
「あの日。部屋に入って、倉田さんのそばにいた貴女を見た時。普通じゃない顔してた。放心してたって感じでもないのよ。今もそう。まるで――」
小さな声が聞こえて、後ろに振り返る。
ロッカールームの外は休憩室だ。そしてお喋りの絶えない昼時とは違う。誰もいなかった。入って来る人も。そして何より私の後ろには壁しかなかった。
「どうしたの?」
「誰か、苦しそうにしてて……」
「私たちしかいないでしょ! じ、冗談は止めて!」
「でも聞こえたんです。確かに」
絞るような、曇った声。誰かに捕まって大声で叫ぼうとしたけど、口を塞がれてたみたいな。希望が潰えた、悲痛さを滲ませた低い声。不思議と聞き覚えがある。よく知っている気が……誰の声だろう?
「おかしいわ、倉田さんも、貴女も! 岡崎さんだって自殺にしてはおかしい……両目を
「お、落ち着いてください。私はただ……携帯を取りに来ただけで」
「携帯? ここに携帯を置いて帰ったの?」
「ええまあ。とにかく一息ついてください」
坂本さんはまだ何かぶつぶつ言っている。二人の死を、とんでもない陰謀か怨恨にでも結び付けて、無理矢理に理解しようとしている。私は震えている坂本さんをなだめながら、乱れそうな思考をゆっくりと巡らせた。
岡崎さんは目と耳を、おそらくは潰して亡くなった。倉田さんに関係があるのか? 絵の具をのみ込んでいたけど、何のためか分からない。
私のすぐそば、背中から誰かが囁いた気がした。
後ろの肩よりも、耳元よりも、もっと近いところ――まるで頭の奥底から漏れ聞こえてくるような……。
【ア……イ、ィ………イタ………!】
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