第18話 離れの一件
離れは畳の匂いがした。
十数畳くらいの居室に年季の入った机が二つある。カスミさんの話だと、ここで倉田さん達は学習や絵を描いていたらしい。その後子どもやお孫さんも離れを学習部屋としていたことから、倉田家では代々そんな風に使われているのかもしれない。
確かに静かで落ち着ける。私は時計の針とか空調の音で意識があちこちに行っちゃうから、この場所を短大の勉強に使えたら集中できただろうな。
「あ! この絵、倉田さんの!」
静謐な雰囲気を台無しにして、壁に飾ってある絵画を見る。
すごく粗削りな風景画。手の動くまま、心の動くままに任せたって感じの、でも倉田さんの絵から滲み出る温かみをこの絵からも感じる。恐らくはずっと前……カスミさんと絵を描いていた頃のもの。
「当たり。これは昔の絵ね。姉がここに戻って住むようになった時、この絵を見せて恥ずかしがらせようと思ったのに……上手く行かず残念」
「いいから座りなさいよ。ってか一目で分かるの? 勘?」
「な、なんとなく……」
「愛理さんがさっき言っていた絵は、こっちね」
「失礼します。拝見させていただきます」
机の上に二つの絵が重ねて置かれている。額縁の部分がちらっと見えた。カスミさんに催促されて理子が先に立ち上がり、眺めるように確かめている。あのサイズがそれぞれ異なる額縁……覚えがある。イチョウの並木道の絵と真っ白な絵のもの。理子が感嘆した様子で息をついた。
「……この並木道の風景画。まず積もった落ち葉の黄色が映えますね。それで癖のある陰影のつけ方が、中央近くの歩いている二人の構図を際立たせてる。まるでナミノキョウイチの作品みたいな迫力を感じます」
「理子、ナミノキョウイチって?」
「は? あんた知らないの……本当に? 現代美術の代表、特に油彩画家ナミノって括りなら海外でも有名なんだけど」
「その、うん。あんまり詳しくなくて」
「……壁の絵が倉田さんのって見抜けたのは、先入観の無さが幸いしたのかもね。確かに厚く重ねて塗るタッチは類似してるけどさあ。カスミさん、特に汚れは付いてないみたいですね。素人目ですが、趣味の域はゆうに超えた作品に思えました」
「ありがとうございます。姉は一時期どなたか、画家の師事を受けていたそうですが……家を出て絵を描いていたと言う背景もあり、あまり多くを語ってくれなくて」
カスミさんと理子が美術の単語が飛び交う難しい話をし出したので、もう一つの絵の方を見てみる。……向こうの絵は助かったみたいだが、こっちは汚れているな。もろに黒い絵の具を被ってしまっている。いや、塗ったのか? 元の白い絵の原型すらないほどに。
真っ黒……倉田さんの絵にしては厚みがなく……だけど均一? ただ黒く塗り潰した薄っぺらい感じじゃない。暗闇の世界のように、暗黒を写真に収めたみたいに。光が入り込む余地がない。筆の通ったような跡さえ見えない。この絵。手で触れようとしたら、絵の向こう側に抜けてしまいそうな――そういうイメージを見る人に残そうとしたなら、倉田さんの試みは怖ろしいほど叶っている。
「それで足が悪くなったらあまり遠くには行かないで、あの団地を散歩した風景ばかり描いてるって言ってたわ」
「この絵の中央。二人の表情は分かりませんが……恋人ですかね?」
「どうかしら。距離感からそう思えるだけかも」
「なんとなくお互いを……んん、意識し過ぎか? でも……」
恋人? たまたま並木道で歩調の合った男女のようだったけど。ただ倉田さんは想像では描かない。モデルが必ずあるんだ。過去に行った場所や体験したり見たもの。そっちの絵で言うなら……あの団地の、行き交う人の瞬間を切り取ったどこか確実にあった場面。
「ねえ、あんたはどう思う? 倉田さんの絵」
……私は理子の言葉に答えることは出来なかった。
イチョウの並木道。二人のうち、女性の方がこっちを見ている。恨めしそうに後悔を滲ませて。どうして、なんで、と言っているようだった。あるいは自分の内で膨れ上がった憎悪を、こちらに向けて呪っている。そんな絵だ……そんな絵だったか?
息をのむ。唇が震えているのが分かる。
若い女性は倉田さんに似ている気がした。
目を見開いて、ひどく困惑している表情……にも見える。そう思えば倉田さんの最期の顔と重なる部分がある。絵に筆を加えたのだろうか? 死ぬ間際になって、作品の中に自分を描き入れようとした……?
ただ間違いなく断言できるのは……
この絵に描かれている女性は若き日の倉田さんだってこと。それはさっきカスミさんに会った時よりも強く感じた。面影、雰囲気、そんなもんじゃない。倉田さんの絵から生き生きとした迫力を読み取れるように、倉田さんそのものだって自然と理解できるのだ。
「こっちの絵は……よく分かりませんね」
「そうねえ。姉の作風とは違って見えるし、ナミノキョウイチさんの絵に、こういったものもあるの?」
「いえ、聞いたことないです。キャンバスの号数が違うのか一回り小さい以外は……白いですね。白い絵としか」
「そうね」
「……え?」
「雲を表現? わたあめ……いや、何かが重なってるって感じで」
「気まぐれに筆の強弱を確かめただけかしら」
声が聞こえる。後ろから。
この絵の女性が見ている方向から。
思い出した。この声。職場のロッカールームで聞いた……
【コ………ノ、カテ……ニ、……レ……】
地獄の釜底にひび割れが入り、偶然私の後ろに繋がったような。恨みの感情、執念がどこからから漏れ出たような……それは自らのノドを震わせて内側から聴こえてくる。ねばつきさえ感じる声の醜悪さにあてられて目の前が真っ暗になる。それは気のせいとはっきりと言い難く、錯覚……でもないのかもしれない。まぶたの裏よりも濃い暗闇が絡みついたのを確かに感じたから。
そのあとは一瞬の息苦しさ以外、何も分からなかった。
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