第38話 姉は立ち向かう



「待って、いま……いい方法を考えるから」

「時間がないよ理子」

「か、身体が上手く動かせないの。あたしじゃ……」

「安心して涼くんと待ってな。すぐ何とかしてやる」


 必死になっている理子の声。今にも泣きそうな妹の顔。

 みるみる口端が歪み、震えていた私の歯の根は強く噛み合って剥き出しになる。急に頭の中が晴れていく。いつも私をかき乱していたものはどこかへ行ってしまった。胸のつかえが取れるというのは、こういうことを言うんだろう。

 ああ、いま理子はどうしようもなくなっているんだな。それは……誰のせいだ?


 理子は私と役割を代わってあげられなくて、悲しい顔をしている。小さい時からそうだ。理子は両親が風邪を引いたり、私がケガをしたりするといつもそう言っていた。理子は優しいから、私がいくら止めろって言っても役立てない自分に対して心を傷付ける。きっと父が身体を壊した時も、母が家事をこなせなくなっていた時も、そう考えたに違いない。そして今も。

 でも、だめだ。この役割は譲れないんだ。私は理子の姉なんだから。


 迷いは消えた。いや

 私には理子がいてくれなくちゃ困る。そして理子も、私を同じように想ってくれているのが……はっきり分かった。


 「お姉ちゃんに任せろ」


 理子と涼くんに背を向けた。辿り着く先は分かってる。土の匂い。耐え難い渇き。うっすらと漂ってきた白いもや。それらがしつこいくらいに位置を物語っていた。散歩道を外れ団地の横を通り、倉田さん宅の訪問から帰るいつもの道を目指す。

 涼くんが何か言っていたが、すぐに聞こえなくなった。代わりに子どもたちの声がする。保育園の外遊び……鬼ごっこや、ボール投げ、かけっこ、公園を探検するようなざわめき。倉田さんと散歩をする時、色んなものを見た。倉田さんの見たいものを私も見ているつもりだった。それが何なのかは……これから分かる。


 視線の先に橋が見える。ゴミ収集場から迂回して来たから人の行き交いはほとんどない。代わりに白いもやが幾層にも重なり、砂浜の波のように漂ってまとわりつく。足に重さを感じるのは錯覚だ。実際には霧や煙ほども存在しない。この息苦しさもそう思わせてるだけ。心臓が動いている限り血は巡り、足を前に出せば必ず身体もつき従う。存在しないものの影響なんてたかが知れてるんだよ。


「ん、意識が飛んだ……でも」


 意味無いんじゃないか? 十秒ちょっと経っていることが歩数のずれで分かる。短時間しか力が及ばないらしい。その間は何も覚えていなくても、橋の下へ向かうという意思まで消せていない。

 目当てのものがないか植え込みを見ていると、木の支えだった杭が刺さっているのが見える。シャベル代わりはこれでいいか。少し割れてるか欠けてるが問題なさそうだ。

 手を伸ばして、ふと後ろが気になった。何か気配を感じたわけじゃない。今まで歩いていた道を確かめたくなっただけ。もしかしたら大量の血が流れ落ちているような気がした。私の身体のどこかに傷が出来ていて、痛みもなく出血し続けている。動けるのが不思議なくらい、でも血じゃないのは分かる。もっと大切で、取り返しの付かない何かが私から零れ落ちている。でも行くんだ。最後の最後まで……傷口を塞げなくたって辿り着いてみせる。それだけ決めた。それだけが私の中に残っていればいい。


 いつの間にか杭を手に持っていた。指先が土塗れで血が滲んでいる。子どもの声は変わらず聞こえていて、陽も落ちていない。杭の湿った部分、土の付いた箇所を見る。引き抜くのにかかった時間はそこまでじゃないはずだ。ああくそ。疲れはともかくノドが乾いて仕方ない。ふらつくが杭を杖替わりにして耐えた。白いもやは灰色がかった色に変わり、より濃くなって私を絡めとろうとしている。歩くたびに薄皮を貼るように覆われ、だんだん分厚くなる……


 もし呪いの声が聞こえたとしたら何て言ってるだろう? 来るな引き返せって感じか? それとも言葉巧みに誘ってくるか。意図がどちらにせよ、場所を教えてくれていることには違いない。足取りは重くなっていくが、大したことない。空き缶や雑誌が刺さったフェンスを左手でわし掴みにして、すう、はあ、と何度か息をつく。

 

 ここだ。この土のにおい。

 橋へ向かう傾斜のゆるい階段の下は、周囲の植え込みでちょっとした死角になっている。フェンス越しに中は見えるが、好き好んで覗こうとする人は少ない。小さなゴミがたくさん落ちていて汚いし、じめじめしている。日光があまり入らず、橋の上の排水が滴ってくるからかもしれない。植え込みから入ると、捨てられたゴミの間から草が伸び放題になっていた。

 汗が玉のようになって服へ染み込んでいく。ノドが乾いて仕方がない。こんなに土は湿っているのに。日差しがあまり入らないのは都合が良かった。これからすること対して。

 雑誌やビニール袋を杭で散らすと、黒ずんだ土が露出する。どんよりとした湿り気と重苦しさがある。灰色のもやは煙のようにこの場所から漏れているようだった。そこへ思いっきり杭の尖った部分を突き立てた。掘るのには難しくない固さ。


 倉田さんも三十年以上前……ここで土を掘り返して、何かを埋めた。隠すためか、それとも自らの過去と決別するため? 思い入れのある絵の道具。倉田家に関わる秘密。彼女の半身と言っていいような、命と等価値なくらい大切なもの。

 力を込めて杭をより深く土に沈める。倉田さんの心の扉、その奥底にしまっていた何かを……私が暴く。今もこの世に繋がったままの未練を断ち切り、私たちにかかっている呪いを解くんだ……!


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