第39話 ひびわれゆくもの


 汗が地面に吸い込まれていく。

 こんな、一メートルも穴を掘ってる訳じゃないのに、疲労感がすごい。当時の倉田さんがそこまで底深く何かを埋めたとは思えないが……


「はあ、っは……ふぅ」


 ……まただ。また意識が途切れた気がする。

 土に出来た穴の大きさで何秒経ったか大まかに知りたかったが、日陰でよく分からない。私はどれだけの時間こうしてる? 杭を持つ手は痺れたように感覚が薄い。

 土からは灰色のもやが漏れて漂っている。苦しげにじわじわ這い出て……解放されたがっているようにも何故か思えた。実際は何の仕掛けもなく単にそう見えているだけ。呪いが五感に訴えて邪魔しようとしている……このもやも、耐え難い渇きも、湿った土のにおいも。私に直接影響を及ぼすことはない。

 聴覚だけは普通だ。問題なく機能している。あのぼそぼそとした囁き声は耳の外からも内からも聞こえてこない。団地の子どもの声が聞こえてくるだけ。団地の外、車が通る音も、橋の上に誰かが歩く音も一切ない。この道を通る人も。


 ……それってあり得る? 誰もいないなんてことが。団地の反対側からの橋のふもと。そして昼前の時間とはいえこの場所に、全く人が通らないなんてこと……第一気配すら感じない。すでに私はおかしくされて、認識がずれている? 近くを誰か歩いていれば絶対に分かるはず。いくら灰色のもやが私を包み込んでいたとしても。

 

 子どもの声がする。

 たくさん集まった声のたば。底意地の悪い、致命的な過ちを期待して笑いが零れているような。本当に子どもの声? 楽しそうではあるんだけど暗い灰色の響き。団地の遊び場から聞こえているにしては何か変だ。

 どこから――土の感触が変わった。何かある。握力が無くなっていたのか、ずるりと手から杭が落ちた。掘った穴の先に黒ずんだ枝のようなものが見える。杭はこれに当たったようだ。縮れた木の根? いや丸まった革?

 もちろん三十年以上経っているから、当時のままではない。これは……何かを、布で包んでいたのらしい。小さなボロボロとした灰色の欠片が見える。


 そっと肩に手を置かれて、大きな声をあげそうになる。ノドの渇きでたまたま叫びが掠れただけかもしれない。すぐに不安は無くなり深いため息だけが漏れる。この見慣れている手は、理子だ。動けるようになってここまで来たのか。 


ねえさん」

「わざわざ来たの? でももう――」


 早い者勝ちだ、そう言って振り向く寸前で肩に乗せた手が映った。

 理子の指に黒い点がある。小さな虫が止まっていると感じた瞬間、染み一つない手に点々と穴があき幾筋もひびが入った。血の気のない肌。こちらをぼんやり見ている視線。その身体に走った亀裂が同時に開き、光の入り込む余地のない黒い影が溢れ出した。


 妹の指に。

 腕に。

 肩に。

 顔中に。

 それは扉のようにも複眼が光を反射したようにも見えた。


「ネエサン」


 鈴が鳴るように、割れ目が一斉に言葉を発した。泡のようにぶくぶくと点は膨れ上がって増えていく。身体はもう原型が分からない。顔の輪郭だけがはっきり残り、つやの無い黒髪が煙のように揺れている。

 私はずっと妹の名前を叫んでいた。

 渇き切ったノドからはどう絞り出しても、掠れて声にならない。焦げたわたあめみたいなその手を掴む。ザラメのような手触りに湿った土のにおい。


「こ、……のっ……!」


 馬鹿か私は。

 理子が呪いの対抗に打ち勝って、ここまでどうにか来たとしてだ。このゴミだらけの場所に物音ひとつ立てず近付けるか? そして肩に手を置くまで一声もかけず、涼くんも付き添ってないってこと……あり得ない話だったろうが。くそ。理子は無事? 無事だよな。いま肌に触れる直接的な感覚は、私だけに力をつぎ込んでる? それとも距離が近すぎるからか? 呪いの作り出す【北川愛理がもっとも恐怖する姿】に、期待通り動揺してしまった。

 ちょっと考えれば分かったことなのに、私は心底ほっとしたんだ。妹が来てくれたことへの安堵……そこを思いっきり突かれた。その緩みは……家族だけしか踏み込めない場所なのに。


 ほとんど黒に近い灰色のもやが、肩に乗せた手と融け合って私にまとわりつく。その最悪を煮詰めたようなものに吐き気を覚え、全身に鳥肌が立った。不快な粘つきが意思を持ち、私を目指して蠢いている……!

 

「ネエサンネエサンネエサン」 

「や、嫌……」

「アソボ、アソボ……アハハハハッ!」


 全身を震わせ、子どもの声が私を嘲笑している。

 そして、また私の意識を消し飛ばすつもりだ。直接触れてるから理解できてしまう。さっきみたいな短くて弱い感じじゃない。来る。どうにか足掻こうとしてもまぶたすら閉じられない。呪いの干渉で動きは止められて――

 

 瞬間。額と口をすごい力で掴まれ、ねじり切られる。頭が砕けた嫌な音とともに目や耳から輝きがこぼれた。きらきらした何かはすぐに消えて、どす黒く汚れて散っていった。

 身体が地面に投げ出される。掘った穴を潰れた視界で見ながら、ここまで歩いてきた時に流れ落ちていたものに気付いた。あれは頭の奥底にあった扉にひびが入り、そのすき間からずっと漏れていたものだった。




 あ、あ……いたい……。

 頭が、われて……つめたい、さむい……。いき、できな……




 りこ……! 理子。り、こ――


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