第20話 少女たちの遊戯
昼食が終わり、璃衣は自室で数学の課題を黙々と解いていた。プリントと教科書の隣には、端末が置いてある。端末のランプは明滅していない。何の通知も来ていないことを表していた。これは後になって分かったことだが――何かの折に端末を再起動した際、メッセージアプリが立ち上がっていなかったのである。もしこのことに彼女が気付いていれば……と悔やまざるを得ない。紗久は闇の組織の一員でありながら、魔法少女のコミュニティにも属している、特異な存在である。きっと彼女が危機を知らせてくれたであろうに。悪いことに、この御時世、端末というのは、電話としての機能を有していない。発信できるのは、警察と消防ぐらいのものだ。闇の組織は、緊急時の連絡手段を、何かしらの形で確保しておくべきだったのだろう。そのようなことは露知らず、璃衣は次の問題に移った。
「――!」
璃衣の手が止まった。いや、この程度の問題が難しい訳ではない。魔物が出たのだ。しかし、と璃衣は首をかしげた。その魔物の出現の仕方が、どこかいつもと違うような気がするのだ。とはいえ、そんなことに悩んでいても仕方がない。璃衣は黒のコートを引っつかんでベランダに出た。もしかしたら、強力な魔物なのかも知れない。そのときは、もう討つしかない。そう決心して、璃衣は飛んだ。
「……」
行き着いた場所は、山にほど近い、放棄された建設現場だった。娯楽施設でも作るつもりだったのだろうか。広大な敷地に見合うはずの建物は、午後の陽光に赤黒い鉄骨をさらしていた。当然、窓ガラスもはまっていない。その中庭で、低級の魔物が一匹、うろうろと徘徊していた。
璃衣の違和感は高まる一方だった。普通、魔物は人が多く住むところに発生する。このようなひとけのない、都心から離れた場所に現れるなど、滅多にあることではなかった。ともあれ、この魔物に釣られて来たのは、どうやら璃衣だけではなかったらしい。
「あ、あなた……闇の組織ね!?」
魔法少女の声に、璃衣は振り向いて言葉を返した。
「そうよ。ねぇ、あなた。そう怖い顔をしないで。話を聞いてくれないかしら?」
「は、話……? そんなこと言って、私達を洗脳する気なんでしょう!?」
「落ち着いて。そんな気持ちはこれっぽっちもないわ。話を聞いてくれるだけでいいのよ。それから判断するのは、あなた次第」
「ま、まあ……話、だけなら」
相手の意外な反応に、璃衣は内心驚いた。いつもは、ここで拒否の言葉か、魔法の弾丸が飛んでくるかのどちらかだったのだから。しかし、聞いてくれるというなら、これほど有り難い話もない。璃衣は魔物とは何なのかを、対面の魔法少女に向かって分かりやすく説明を始めた。
「――ということなの。分かる?」
「ええ、ええ、なんとなくは……」
聡い璃衣は察した。
この女は、話を聞いていない。何か、別のことを考えている。
突然、その魔法少女が反転して魔物の方へ突進した。
「魔物を倒しすぎると大変なことになる? そんな話、信じられる訳ないでしょ!」
璃衣は彼女を追いかけず、はぁっと盛大な溜め息をついた。
「私が今からあの魔物を――え?」
魔法少女の動きが、空中で止まっていた。正確には、ほんの少しずつ動いていたが――傍から見れば、止まっているも同然であった。
「か……らだ、うご、かな……っ」
璃衣のフルールの先。桔梗の花がきらめいている。これが彼女の特殊能力。時間の停滞であった。魔法少女は、虚空に張りつけられている。勝負とも言えぬ勝負は、あっけなく決したのだ。あとは、魔物が消えるまでこの状態を保てばいい。璃衣は、ふっと息をついた。
「――!」
璃衣がその攻撃を避けられたのは、いくつもの違和感を感じ取った末の警戒があったからだろう。目標を見失った緑色の弾丸は、地面に弾けた。
「大丈夫!? 助けに来たわ」
「あ、ありがとう!」
魔法少女が、もう一人やって来ていたのだった。
「あなた、前に会ったことがあるわね。今日という今日は許さないんだから!」
新手の魔法少女と、時間の停滞が解除された魔法少女が、璃衣を挟撃する。二対一の戦いは、璃衣としても初めてのことであった。しかし、紗久の言う通り、璃衣は優秀な魔法少女なのである。二人を相手にして、まだ余裕のある動きを見せていた。
「きゃぁああああっ!」
一人落とした。残るは一人だ。二引く一は一なのだから。では――なぜ璃衣の視界には、二人の魔法少女がいるのだろう? 否。二人ではない。三人、いや四人……まだ増える。ここに至って、ようやく璃衣は、事の重大さを知った。最初の一人は、時間稼ぎだったのだ。時間が経てば、きっとその一人も起き上がってくる。
十対一。
長期戦は不利だ。かといって、相手の特性が読めないまま、こちらから仕掛けるのはあまりに無謀と言える。組織のメンバーに連絡が取れたとしても、絶望的な距離だった。璃衣は動けないまま、魔物が断末魔を上げる声を聞いた。
「ねぇ、あんたさぁ」
リーダー格と思わしき、高校生の魔法少女が口を開いた。
「謝るなら、今のうちだよ? 今まですみませんでしたって。これからはもう何もしませんって。そう約束するなら、許してあげる」
「……」
「なにか言いなよ。あんたたちのせいで、あたしたちみんな迷惑してるんだからさ」
土下座して約束する。至極簡単なことだ。子供にだってできる。しかし、言うまでもなく、璃衣はそのようなことができる人間ではなかったのだ。
「目の前で」
「は?」
「目の前で、間違ったことが行われていたのなら……それを止めたいと思うのは、自然なことでしょう?」
「……」
「でも、だからと言って争いたい訳じゃないの。戦いなんて、時間の無駄。どうせなら議論の場を設けてくれないかしら? こんな罠を張ってる暇があったらね」
「……ふぅ……」
この瞬間、対話は終わった。そして、戦いが始まるのだ。次の一声で。
「みんな。目の前の悪を、やっつけるわよ」
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