第3話

ホテルのロビーでブルーラグーンのタバコを燻らせながら、七瀬は男が言ったことの信憑性について考えてみた。


「あんた、乾屍かんしって知ってるか? 映画にもあっただろ? あれはキョンシーって名前だったか。世代じゃないか? まあ、中国式のゾンビってところだ。だが、ゾンビと決定的に違うのは、大人しくて、コントロールが効く。そして、一番大事なのは…………ゾンビなんかと違って、実在する。俺は少しばかり、そっち方面に覚えがあってな。早い話が、あんたの友達を乾屍に出来る。

 いやいやいやいや、何も怖がることはないし、嘘でもない。

まあ聞け、あんたの友達は死にたてほやほやで腐ってもない。血色もいい。すぐ生き返らせてやれば、生きてる人間と遜色がないはずだ。生き返ったら、飛行機でもなんでも乗せて連れて帰ってやればいい。こっちで諸々の後始末をするよりは断然に安い値段で済むし、面倒な手続きもない。…………どうだ悪くないだろ?」


 状況の整理が付かない内にこんな持ち掛けをするのは卑怯だと思った。冷静に考えれば、モコに頼れる人間がいないわけではない。かーくんだ。立派な仕事についている彼ならば、喜び勇んで金でも何でも出すだろう。

だから、自分は何も心配する必要など―



 気づくと男の提案を呑んでしまった自分がいた。料金は後払いでいいと言われ、七瀬は外へ出された。

 渦巻いていたある種の熱量とパニックを、時間とニコチンが次第に沈静化させていくと、自分はなんて馬鹿な嘘に騙されてしまったんだという猛烈な罪悪感に襲われた。


 生き返るなんてあり得ない。いくら、モコの死に現実感がなくともそれは事実だ。現に自分の目で見たではないか。

 七瀬の頭に湯船で動くピンクの髪がフラッシュバックした。


 これはきっと新手の詐欺だ。適当な嘘をついて自分を部屋から追い出し、金品を奪う。いや、それだけならまだいい。遺体からまだ使えそうな臓器を取り出すのであったらどうする。

 タバコを力づくでねじ伏せ、自分の愚かさに腹を立てた。

 戻って来いといわれた時間までは大分あったが、七瀬は堪らずエレベーターに乗り込み、自分の部屋の前まで向かった。


 強めにドアをノックしたが、思った通り返答はない。熱い吐息を吐き出し、舌打ちをすると狂ったようにドアを叩いた。ドアノブに手をやり、何度もひねった。そうしている内、ドアノブに強い跳ね返りがあった。


 驚きながら、一歩下がり身構える。七瀬の目がじわじわと回るドアノブを見つめた。扉の隙間から男がぬっと顔を出した。

「早かったな………まあいいさ。もう終わった。中へ入れよ」


 少しの間、七瀬は呼吸を整えなければならなかった。

 部屋の中は薄暗く、むせ返るほど香の匂いに包まれ、天井付近にはその名残が滞留している。荷物は部屋の隅へ寄せられ、床には羽毛のような灰色の羽根が無数に散乱していた。

 男はゴミ同然にそれを踏みしだいて部屋を進んだが、どうもそのまま踏みにじる気にはなれなかった。そろそろと足場を選ぶ事に意識と視覚を奪われ、少しの間現実を忘れていた。

「上手く行ったよ。あんたの友達、生きてるみたいだ」

 現実。ここにはもう一人、人間がいるという現実だ。


 頭越しに気配を感じた。どこにそれがいるのか、気配で分かる。ゆっくりと七瀬の視線が動き、床を捉え、ベッドの足を見た。シーツに皺が寄っていて、そこには深い影とシルエットが落ちている。


 そしてベッドの縁には何かが座っていた。


 全裸のモコだった。


生きているというのは全くの比喩ではない。目を開き、虚空を見つめているモコは言われなければ、死んでいるなどとは思いもしないだろう。ふっくらした張りのある肌。窓越しのネオンを受ける髪。全てが元のまま。

 言葉を失い、七瀬は生唾を飲み込み何とか声をかけた。


「も、モコ……?」

 首筋の筋肉がひくと動き、恐ろしいほど緩慢な動作でじわりじわりと、モコは七瀬の方を向いた。わずか背中に嫌な気配が走った。彼女の目に名状できない何かが無かったからだ。だがその不快感もたちどころに消えるほど、モコは美しかった。


 異様に乾いた喉へ生唾を無理矢理飲み込み、男を一瞥する。

 思わず、モコに触れようとして本能がそれを阻んだ。男は笑った。

「別にゾンビじゃないんだ。噛みぁあしないよ」

 恐る恐る頬に触れるとまだ弾力があった。体温もまだ微かに残っている。よくわからないため息が出た。ともかく、これでモコを連れて帰ることは出来る。

「襲ってはこないが、その分頭もない。呼びかけに答えたりするのは、生前の記憶の残滓が頭蓋骨の隙間にまだ、こびり付いてるからで、感情や思考があるわけじゃあない。軽い指示に従うぐらいしか脳がないから、面倒は全部あんたが見てやるしかない」


 七瀬はバスタオルでモコの身体を覆ってやると、ベッドに仰臥させた。

「それと………トドメを刺す時は、これを飲ませてやれ」

 男はそう言って小さく包装された紙を手渡した。手のひらに収まるほど小さく折り畳まれた白い紙には、赤い複雑な文字が刻まれ、中にほんの僅か重みを感じた。

「漢方だ。水に混ぜて飲ませてやれば、再び死ぬ。連れて帰ったら、飲ませてやればそれで終わりさ」

 男が出て行ったあと、七瀬はモコの寝顔を見ながら、しばらくタバコを吸った。



つづき

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