第2話
『中国に
言いだしたのはモコだった。どこかへ行きたいなんて、彼女の口から聞くのはきっとこれが初めて。軽い食事や服を買いに行く程度の外出は何度かあったが、旅行、ましてや海外へ行きたいなど今まで言い出したこともなかった。
上手く言い表すことが出来なかったが、七瀬はそれをいいことだと思った。だから、一泊二日の貧乏旅行を計画した。それに関して、不満はない。
今日だってそうだ。空港を出て早々、パスポートを見事に消してしまったモコを大使館まで連れて行き、気の遠くなるような待ち時間を一緒に待った。別段そんな事に腹を立てているわけではない。
では、この言いようのない苛立ちはなんだ。
雨の上がった盤錦。街は妙に感傷的だった。湿った地面には、けばけばしい派手なネオンが反射している。それが七瀬には深海に住む魚のように見えた。自分はそこへ潜っていく、光を持たない魚。
商店街を中ほどまで歩いた所ではたと足を止める。目の前には小さな写真館があった。常夜灯の点いた店頭ディスプレイには、ウェディングドレスを身にまとった女性が恰幅のいい男にお姫様抱っこされている写真が飾ってある。
「結婚する相手を選ぶときは、自分を抱え上げられる人と結婚するんぞ!」
ビクッと肩を竦め振り返ると、向かいの夜店に座った中年男性が箸をつき上げて笑っている。続けて、隣に座った小太りの男がそれを制した。
「それを言うなら、そもそも好きな子を抱き上げられねぇような奴はダメなんだよ。お前は今のカミさん、抱っこ出来るのかよ」
夜店の中にドッと笑いが起る。七瀬は下唇を強くかんだ。
もう、アイツとはこれで終わりだ。そう思った。日本へ帰って結婚でも何でもすればいい。
髪だって。髪だって―
着信があった。
モコからだった。固くスマホを握りしめ、少し躊躇ってからそれに出た。
「もしもし……? 七瀬?」
しばらく無言のまま、モコが狼狽する様子を聞いてみようかと思った。が、間の抜けたモコの多種多様な「もしもし」の連呼を聞いていると思わず、笑ってしまった。
「なに?」
「もーッ、繋がってないかと思ったじゃぁん。あのね………? 七瀬、もし、外にいるんならさ。オレンジジュース買ってきてよ」
言葉に詰まった。そして、シンプルな罵詈だけが残った。
「ば、バカァァァァァッ!!!」
張り裂けんばかりに、スマホを怒鳴りつけ、電話を切ると乱雑にポケットへ突っ込んだ。スマホは程なくして震え始めたが、七瀬は問答無用で電源を切ってやった。
もう、これで本当に。本当に終わりだ。本当に。電源ボタンを押しながら七瀬はそう念じ続けた。
部屋に戻るとモコが死んでいた。
浴槽に鼻まで浸かったモコの周りには、幾つかのカラフルな錠剤とそれを入れていたピルケースが散乱している。自殺だ。七瀬はそう直感した。
心の風邪。やけになって薬を大量に服用。そしてオーバードーズからの神の福音と言うわけか。
恐ろしく静止した空間の中で、ピンクの髪だけが湯船の中を揺蕩っている。
出しっぱなしになっていたシャワーを止め、七瀬は舌打ちをする。若いということはあらゆる災事を重層化して見られないということ。感情よりも先に、事後処理のことが頭をかすめた。
まだ血色のいいモコの頬と唇が現実感のなさに拍車をかけていた。
七瀬の連絡で駆け付けた若いホテルマンは「たぶん、死んでいる」と言い、指のささくれを気にしながら「医者を呼ぶか」と尋ねた。
20分程して、一人の男がやって来たが、七瀬は最初それが医者だとは気が付かなかった。
綺麗にそり上げた禿頭に胸まで垂れた髭。体は中肉中背で、夜半にもかかわらず丸いサングラスをかけていた。
クンフー映画から抜け出して来たようなその男は、人差し指と中指をモコの頸と手首に当てると、ぐるり部屋を見回した。
ホテルマンへ出て行くように促し、長く深いため息を吐いた。しゃがんだままモコを見つめている男の背中は、沈黙を強要しているようで、七瀬は何も言わず、事の趨勢を見守った。
男はうなじに出来た大きい虫刺されをぼりぼりと掻き、咳ばらいをして浴室に灯る冷たい蛍光灯を見上げた。
「まあ、もうわかってるとは思うが、あんたの友達は死んでる。理由は―」
男の目が、水洗台の上へ一まとまりにされた錠剤の山へ転じる。
「自殺、でしょ?」
「さあ、それは動機であって原因ではない。原因は単純明快。薬を飲み過ぎて死んでしまった、それだけだ」
「ケーサツ呼んだ方がいい? 海外旅行で人が死ぬのって私、初めてだから」
男は鼻をすすり、うなじの虫刺されを指で摩った。
「あんた、若いな」
「は?」
「金、ないだろ。…………旅先で、それも国をまたいで死ぬと凄まじい金が掛かる。遺体を空輸するには専用の手続きだって必要だし、費用だって馬鹿にはならない。安く済まそうとすれば、見知らぬ土地で雑に焼かれてはいそれまでよ。それにしたって、すぐには無理だ。滞在費だってその分かかる」
男の意図は分からなかったが、言っていることは理解できた。彼の言う通り、自分もモコも金はない。頼れる人は? 鈴木モコに頼れる人などいたためしがあるか、七瀬は考えた。
「そこで、だ。…………俺もこんな診察だけじゃあ、一銭にもならない。だから、お互いがそれなりの得と少しばかりの損をする提案があるんだよ」
振り返った男の顔がにんまりと歪んでいた。
つづき
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