煙と咒法は天高く

涌井悠久

煙と咒法は天高く

 もう時刻は23時を回っていた。夏と言えど涼しく、ワイシャツだけでは少し肌寒い。そんな夜だった。

 女の死体が、目にほうき星のような涙の跡を残しながら公園に横たわっていた。

 その近くで、ぼんやりと遠くを見つめながら煙草を吸う男がいた。白い煙が悠々と星空へ立ち上っている。

「…すみません、何してるんですか?」

「うん?…ああ。見れば分かるでしょ。殺したの」

「殺したのって…そんな軽く――」

「軽いよ。…君、人を殺す事の重さって考えたことある?」

「…はい。何度かあります」

「だったら分かるはずだよ。僕の殺人がいかに軽いか。彼女は僕の婚約者だ。婚約者だったんだ」

「…なぜ殺したんです?」

「ある日彼女は『呪い』にかかってしまった。僕がそれを知ったのは彼女が『呪い』にかかって1年経ってから」

「ち…ちょ、ちょっと待って下さい。『呪い』って何ですか?」

「呪いは呪いさ。そのままだよ。…彼女さ、浮気してたんだ。会社の人と。たまたまメールを見ちゃってさ――『情死っていいよね』って書いてあったんだよ。普段そんなこと言わないし浮気してるしで二重の衝撃を受けたよ。その時に気づいたんだ。彼女は『心を寄せた人と心中する呪い』にかかってるんだって」

「だから…恨んで殺した、と?」

「恨む?違う違う。僕は彼女を愛してるよ。今も変わらず。愛してるからこうするんだ。仕方ないんだよ。そういう衝動は理性じゃ抑えられない」

「…そう、ですか」

「分かってくれて良かったよ。僕の殺人は軽いんだ。僕の愛に比べたらね」

そう言うと、男は短くなった煙草を捨て、ポケットから新しく煙草を取り出した。

「…君も吸うかい?ショッポ。14ミリ」

「要らないです。煙草は嫌いなので」

「ああ、そう。…ふぅ。しかし、君は強いね。目の前に殺人犯がいるってのに全く怯えないし、逃げもしない。しかも煙草も吸わないときた」

「煙草はあまり関係ないようにも思えますけど…」

「あるよ。煙草を吸うような奴はもろい。アイデンティティがないからって吸う奴もいれば、吸ってる時は幸せだから嫌な事から逃げられるって奴もいる。人間として脆いんだ。ちなみに僕は後者」

「…煙草は吸いませんが、私だって脆いですよ」

「へえ?意外だね」

「上司が嫌になればお酒を飲みますし、残業で疲れたらお風呂にも入らないし化粧も落としません」

「はは。君みたいな奇麗な人がそう堕落するとは考えられないな」

「人なんてそんなものですよ。馬鹿で傲慢で。…私ははたから見れば奇麗に見えるかもしれませんが、結局は人ですから」

「僕も君も死んだ彼女も、みんな馬鹿で傲慢かい?」

「そうです。だから人は死んで天に召されるんです。『馬鹿と煙は高い所が好き』って言葉があるほどですからね」

「君、面白いね。気に入ったよ」

「ありがとうございます」

「…さて、君はそろそろ帰らないとじゃないのかい?明日も平日だ。君の嫌いな上司と残業が待っているよ」

「…そうですね。そろそろ帰らなくちゃいけません。私は馬鹿ですから、嫌と分かっていながらも仕事をしなきゃいけない」

「そうだね。それでこそ人間だ。煙が昇る先で、また君の話が聞けるのを待っているよ」

「はい。いつかまた会いましょう」

 私は再び家路を辿り始めた。

 結局、警察は呼ばなかった。呼んだって無駄だと思ったから。彼があの後何をするのか、あらかた予想はついていた。なぜなら、馬鹿と煙は高い所が好きだから。

 次の朝、私は昨晩飲んだチューハイの缶を捨てて、淡い朝日の中で出社の準備を始めた。

 ふと、テレビをつけてみた。

「――昨夜、市内在住の会社員前島まえじまゆめさん25歳が、同居していた小説家の枝川えだがわ航地こうじ容疑者27歳に殺害されました。なお、警察の調べによりますと、犯人は犯行に及んだ後、現場の公園で自殺を図り死亡したとのことです」


 枝川。貴方のその行動は『呪い』の影響?それとも、自分の意思?

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