AUG.カヌキさんは拳を噛む
8月
空港から電車を乗り継いで今は新幹線。
たった10日間だったけれど、刺激的だった。脳味噌フル回転で英語を聞き取って、必要があれば会話もする。ホソエ教授の助手をするのはかなり厳しかった。なぜこんなことになったのかと思ったら、本当は語学堪能な大学院生が助手として付いてくる筈だったのに、急用で付いていくことができなくなり、その代わりとして、学部生とはいえ、出来が良さそうだというホソエ教授の「勘」でわたしとニトウに白羽の矢が立ったとのことだった。
ありがたいことに、わたしとニトウは二人がかりで教授の無茶振りの期待に応えることができたようで、助手以外にも二人とも興味のある発表を聴きに行ったり、向こうの大学生と話をしたり、ちょっとだけ観光したりと、密度の濃い10日間を過ごすことができた。
「…で、ミヤはどうするのぉ?」
ニトウがペットボトルのお茶を飲みながら言った。お茶っ葉から淹れたお茶が飲みたいと愚痴りながら。
「どうするって…考え中」
わたしはため息を一つ吐く。それから窓を見た。夜の新幹線の窓なんて自分の顔とその隣のニトウの横顔、それから3人掛けにいるサラリーマンの寝顔しか見えない。
「ニトウは、即答で断ってたね」
「うん、残念だけどさぁ」
ニトウはもう一口お茶を口に運ぶ。
「1年以上の留学なんて、私には無理。寂しくて耐えられないよ」
ホソエ教授と一緒に渡航して学会に参加する予定だった大学院生は、家庭内で大きなトラブルがあり、本人もそれで精神的なダメージを負ってしまい、急遽、退学して自宅に戻ることになったという。詳細までは分からないが、ホソエ教授はとても残念だと語っていた。
そして、その大学院生は、ホソエ教授の助手であったというだけではなかった。近々、交換留学生として渡米する予定でもあった。
つまり、その枠が空いた。
「君たち二人とも2年生までの成績は問題ない。英語はもうちょっと頑張ってほしいところだけれど、推薦することはできる。どうだい?」
ホソエ教授の渋い響く低音を思い出した。
その言葉で、わたしの頭の中で何かが目を覚ますのを感じた。
ずっと、自分には何もない、と思っていた。
勉強が嫌いなわけじゃない。
今回の学会で、改めてもっと勉強したい、という気持ちには、なった。
深弥とそれを秤にかけようとして、やめる。
問題は、期間だ。
普通は1年の交換留学となるが、このタイミングで留学すると卒業が2年先になってしまうため、先生の勧めは、自費で延長して向こうで学位を取ることで、そこまで考えると1年半弱、向こうに滞在することになる。時間がある時に、その話についても、ある程度は詳しく説明を受けた。
「ニトウはどうしても駄目なの?」
そう尋ねるとニトウはわたしの方を見ずに頷いた。
「恥ずかしいんだけど、遠距離恋愛がきついんだぁ」
ニトウには同い年の幼なじみの彼氏がいる。ほぼ生まれた時から一緒で、小中高ついでに予備校まで一緒で、中学校の卒業の頃から交際を続けている。どこの少女漫画だよって揶揄ってきたけれど、ニトウが存外真面目に恋愛していることをわたしたちはよく知っていた。
「別れ話じゃないけれど、一回、距離を置こうと思って別々の大学に進学してみたけれど、正直、結構つらいんだ。多分、彼もねぇ」
ニトウはクスッと笑った。
ああ、凄い、ニトウってこんなに「女」だったんだ。少し訛りがあって、おっとりしていて、のんびりしている、っていうイメージが強くて、彼氏の話もたまにゆっくりこっそり話すくらいで、そんな艷やかな気持ちを抱えているようには見えない。
「今は、どうしても彼に会いたくなったら新幹線に飛び乗れば会えるから、なんとか
そう言って、わたしに見せた新幹線の切符は、わたしたちの大学のある県よりも先の県の駅までで、ニトウはこのまま彼に会いに行くのだと言う。
「ご馳走様」
そう言ってわたしはニトウの二の腕を肘で突ついた。
「ミヤは、……カヌキさん、いいの?」
ぐふっ
むせた!
あれ、わたしたち、大学の友達には喋ってない。わたしと深弥のことを知ってるのって、深弥のお母さんとうちのおねーちゃんだけ、だよね。あれ、深弥が喋ったってこと?
「あ、ゴメン、違ってたらごめんねぇ。でも、ミヤとカヌキさんって……あの、…っき合ってる、よねぇ?」
ニトウの口調は、ふざけてる時のそれとは違う。
「アライは絶対気付いてると思うよ。…モリは、あー、気付いてないなぁ、あの子はいつだって自分の恋愛で一杯一杯だから」
ニトウはわたしを揶揄ってるわけでも試しているわけでもない、と信じる。
「いつから気付いてたの?」
「うーん、ミヤが小指に指輪を付けた時に、彼氏ができたんだなあと思った。フェロモンだだ漏れだったし」
ちょっと、その表現はやめてほしい。
「で、それがカヌキさんだって分かったのは、ミヤの喜寿のお祝いの時ねぇ」
「喜寿って言わない。今年の2月のわたしの誕生日宴会ね」
「都田架乃喜寿祝賀会」
わざわざ言い直すか。
「あの時ねぇ、チラッとカヌキさんの胸元のペンダント?ネックレス?が襟元から外に出ていた時間があって、ミヤのそれと同じ指輪がペンダントトップだった」
言ってよ!いや、言えないか。
「腑に落ちたっていうか、去年くらいから、ミヤはやたらエロい感じになったけど、カヌキさんは柔らかくなったからさぁ」
ニトウは人をよく見てる。深弥は、わたしと付き合い出してから雰囲気がどんどん変わってる。わたしのことはさておき。
「…だから、ミヤはカヌキさんと離れられる?」
離れたくない。
この10日間だって、ちょっとキツかった。
わたしは自他ともに認める
…でも。
「離れられないよ」
わたしは、ニトウにではなく、自分で自分に言い聞かせる。
ーーーーー
築25年の古い家。
でも、これが今のわたしの大切な居場所なので、帰ってくるとホッとする。それから、おかえりと言って迎えてくれた深弥を抱きしめる。深弥もわたしの帰ってくる場所だ。
お土産を渡して、荷物は明日片付けることにして台所に放り出すと、まず、わたしはシャワーを浴びることにした。
「お風呂沸かしてあるから」
私に深弥は気を遣ってくれる。その若妻っぽい台詞に、ちょっとゾクっとしてしまい、自分で自分のオヤジ臭さに呆れてしまった。
ふーっとお風呂に浸かって一息付いてると、居間兼寝室兼映画視聴覚室から、かすかな深弥のきゃーっという悲鳴が聞こえた。
お土産に喜んでもらえたようで何より。
あれの何がいいのか、よく分かんないけど。
居間兼以下略に戻ると、深弥がわたしのお土産を着ていた。エロい下着にしてやろうかと実は思ったのだけど、それは日本でも買える。
買って来たのは、Tシャツ。
映画のグッズショップに連れて行ってもらい、店員さんにホラー映画マニアの女の子が喜びそうなものをくれと言ったら、このTシャツの柄が分からないヤツはマニアじゃないと言われて勧められたものだ。黒いTシャツで、首まできっちりとしめたスーツだか軍服だかを着た美少年がプリントされている。
「凄い!よく、こんなTシャツを見つけたねえ」
深弥はそのTシャツを着て喜色満面だ。わたしも喜ばしい。向こうのサイズでXLで、相当に大きい。半袖なのに肘が隠れてる。その広い襟ぐりから深弥の鎖骨がはっきり見えて、短パンを履いている筈なのに、Tシャツ一枚しか着ていないように見える。これがいわゆる彼シャツというものなのか、Tシャツの柄の良さは全く分かんないけど、サイズ的には大変よろしい。
咳払いをして、心の中でほくそ笑んでいるエロ親父を抑え付ける。
「それ、誰なの?」
「ジョナサン・スコット・テイラー、ていうか『オーメン2』のダミアン」
うわ、正しいのかどうかサッパリだけど、どうやら本当に誰だか分かってる!ショップ店員さん、わたしの恋人はモグリではないようです。
「ほらぁ?」
「そうです!70年代の。観る?」
深弥の頭の中には70年代から80年代の名作ホラー映画が詰まってて、検索機能まで付いている。
「あ、でも、今日の
深弥はわたしの体調を慮って引いた。でも、わたしは引かない。
「…やだ、寝ない」
そう言って、もう一度ぎゅっと抱きしめた。その時
「…ミヤはカヌキさんと離れられる?」
ニトウの声がリフレインして、わたしの動きが止まる。
「どうしたの?」
深弥がわたしの肩に手を置いて、わたしの顔を覗き込んできた。
「…離れたくない」
「うん、私もだよ」
黒目がちの睫毛の長い目が射抜くように見えて、わたしは凍ってしまったかのように動けなくなる。
「どうしたの?どこか体の調子悪い?時差ボケ?」
深弥の眉が少し下がった。
わたしは首を振る。
離れたくない
なのに
わたしは
実はもう決めていたんだと、そのとき、分かった。
ーーーーー
深弥の目が大きく見開かれて、口がかすかに開いては閉じる。眉間に皺が寄って、眉が歪む。唇が震えている。
深弥から声にならない息が漏れた。
その唇が「い」「や」と動くのが見えた。「い」「か」「な」「い」「で」も。
でも、深弥はそれが声にならないように、両手で口を抑えた。
そしてぎゅっと目を瞑った。
両手が拳になって、ぐっと力が込められたことが、浮き出た骨で分かる。前歯がその骨に食い込んだ。痛そうで、やめさせたくて、手首を取ったけど、深弥の拳を口から離すことができなかった。
それから、深弥はゆっくりと、顔を上げて、わたしを見た。
表情が消えた。
もう、その顔を見ていられなくて、でも、離したくなくて、深弥の頭と頬に手を回して口付ける。
でも、深弥は、キスを返してくれない。ただ、なされるままだ。顔中を唇をなぞっても、その口内に舌を入れても反応がない。目は薄く空いている。
どうしていいか、分からない。
お願いだから.わたしを見て
押し倒すと、ペタンと深弥は横になった。さっきまでニコニコ顔で着ていたTシャツをたくし上げて脱がそうとすると、するりと簡単に脱げた。そのまま下着も全部剥がしてしまう。深弥はなんの抵抗もしない。
「深弥」
名前を何度も呼ぶと、ようやくわたしを見た。眉を寄せる。「か」「の」。やっぱり声を出さず、唇だけでわたしを呼ぶ。
むしゃぶりつくように愛撫する。
深弥は、時々ピクっとするけれど、それは感じているのではなく、ただの反応だ。
何をしても、なされるがままで、悲しそうにわたしを見ている。
その目に耐えられなくなって、うつ伏せにして、背中から抱きしめる。深弥は枕に顔を乗せて動かない、違う、少しだけ震えてる。
こんな状態の深弥を抱きたくない。
なのに、わたしは無性に興奮してもいて、抱かずにはいられなかった。
こんなのはダメだと、わたしの頭のどこかで何かが警鐘を与えた。でも、もう止められなかった。
冷たくなっていた深弥の体が次第に火照ってきて、汗ばみ始めた。
少し早い呼吸が聞こえてきて、呼吸にかすかな喘ぎ声が混ざる。
こんな苦しそうな声を聞くのは初めてだった。
なのに、どうして、その声に自分が昂ぶってしまうのか。
深弥の背中が反って体が緊張していく。
いつもなら、その時は、わたしの名前を何度も何度も呼んでくれる。でも、今日の深弥は、わたしの名前を呼ばないまま、小さな悲鳴のような息を吐いて、ただ体だけが、果てた。
いつものような幸せな気持ちはどこにもない。
ーーーーー
いつの間にか寝てしまって、ふと目が覚めた。
暗い部屋の中で、深弥は映画を見ていた。
裸のまま、眼鏡だけを付けて、膝を抱えている。
お土産のTシャツにプリントされていた男の子がテレビの画面にいた。
鏡の前で髪をいじっている。そして、3方向から描かれた「666」、黙示録に出てくる不吉な数字が頭髪の中に隠されているのを見付けた。「どうして、僕が!?」叫んでいた。そして、そこから先は、もう彼は嘆くことなく、冷たい表情で血に塗れた道を歩んでいた。
いつの間にか、わたしは体を起こしていて、やっぱり裸のまま、深弥の隣で膝を抱えて映画を見ていた。気が付くと、そんなわたしの体に、深弥が寄りかかっていた。
「このシリーズは、悪魔の子が人の世界を手中に収めるために、彼にとって不都合な人がどんどん死んでいく物語なの。1作目の主人公は3歳で、この2作目は14歳。思春期に入った彼は、自分が死に囲まれている理由を告げられて、初めて自分が悪魔の子だと知るの。私が知ってる限り、シリアスなホラー映画で、悪魔が自分が悪魔であることを知って嘆くシーンがあるのは、この映画だけ」
「どうして、彼は、悪魔である自分の運命を受け入れられたの?」
「なぜかなあ。ちなみに3作目の最終作になると、すっかりつまんない大人になっちゃっててガッカリしたんだ」
そう言うと、深弥は口元を少し緩めた。シリーズものは増えれば増えるほど駄作って、ぼやくくせにシリーズ一気見とか好きよね、あなた。
「ごめんね、架乃」
ポツリと深弥が謝罪する。何に?
「さっき、ちゃんと、…できなくて。体は感じていたけど、気持ちが付いてけなかった」
「そんなの、謝らないで。謝るのはわたし。無理にしちゃって、ごめん…」
コテンと、深弥はわたしの肩に頭を載せる。
「…言いたいことはあるけど、言えないのって、痛いな」
「言っていいよ」
「ううん、言わない」
深弥は小さく首を振る。何を言わないのか、わたしは分かってる。
深弥は沈黙で私の我儘を肯定してくれた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ネタにした映画タイトル
「オーメン2/ダミアン」(1978)
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