MAY 暴かれるミヤコダさん(後編)
まだ5月
「
私がそう言ったために、
那乃さんが呆れたように肩をすくめて、コップのアイスティーを飲み干した。からん、ころっと氷が音を立てて、コップの中を転がる。
「…架乃が、今度恋人をを連れて行くけど、名前を呼び捨てするのは自分だけだから苗字の『カヌキさん』て呼べ、って電話で言った時は、わが妹ながら脳ミソが随分とろけてると思ったけど」
そんなこと言ってたのか、と私がチラッと架乃を見ると、架乃が目を逸らす。那乃さんは自分で自分のこめかみをつついて苦笑いした。
「カヌキさんも、相当、ここがとろけちゃてる」
「ははは、否定しません。でも、本当に、架乃のヤキモチはいちいち煩わしいこと、この上ないですよ」
私が笑うと、架乃はゴメンナサイと項垂れた。
「許してやって、って私が言うのも何なのだけど」
那乃さんがゆっくりと右手を伸ばして、小さな子供を扱うように架乃の頭を撫でる。少しだけ髪が乱れたが、架乃はそのままで、髪を直そうとしない。長い前髪で顔が隠れているが、頬が少し緩んでいる。
本当、お姉ちゃん子。
「この子は社会勉強も兼ねて、援助最低限でバイトもさせて大学生活を送らせてるけれど、本当はうちは裕福です。戦前から続く事業を拡大してきて、ちょっとした会社を一族経営しているのね」
私は分かったと頷く。架乃の仕草がどこか上品なのは家柄や育ちがいいからだろうと想像はしていた。那乃さんは話を続ける。
「詳しいことは割愛するけど、端的に言うと、わたしは後継者として割と厳しく教育されてきて、この子は、自由にさせられてきた」
自由にさせられて、させられるって普通は言わなくないか。
「うちの母親、自分が若い頃に自由じゃなかったからって、自分の欲しかった自由を与えることが愛情、って思い込んじゃってて」
「自由ねえ」
架乃がふーっとため息をついた。
「わたし、自由って言うより、お姉ちゃんと違って、親は自分に何にも期待してないし、必要としてないだなって感じてた」
架乃と那乃さんが同じようなうんざりした顔をしている。
いつの間にか、私は首を傾げていたらしくて、のびた方の首筋を架乃に触られてビクンとした。
「去年、
「…そんなこと言いましたっけ」
「言ったよ。そのときにはピンと来なかったんだけど、最近、すっごく実感した。」
「カヌキさんちのお母さんも変わってるの?」
「いや、うちの母は基本はうるさいだけです。私にしたら苦手なところは多少はありますけど」
「えー、いいお母さんだよ!!」
うちのお母さんと架乃は私をダシにしてメッセージのやり取りをしているらしい。お母さんてば振袖の写真とか昔の写真とか勝手にどんどん架乃に送るのホントやめてほしい…。
「こないだなんか、酔っ払って、ふにゃふにゃ意味不明な言語を発している深弥の動画を送ってくれ、…おっと、これは秘密だった」
お母さんから架乃のスマホに流出した映像を消去せねばと、私は決意する。
コホンと咳払いして、架乃は自分の親の話に戻した。
架乃の手が止まり、コップを持ったまま、飲もうとしない。その手から手首へと水滴が流れ落ちたので、私は慌ててハンカチを出して水滴を拭う。
「…愛されているのは分かるのに、いつでも何をしても、どんなに頑張っても、逆に何も頑張らなくても『架乃の好きにしていいのよ』って突き放されるから、あれ、わたし何か間違ったのかな、失敗したのかなって、子供ながらに悩んでばかりいたっけ」
ハンカチを持つ私の手に気付いて、架乃はコップをテーブルの上に置いた。そして小さくサンキュと呟いた。
「挙句、『お姉ちゃん、わたし、いらない子なの?』って、真剣な顔で何度も聞いてくるもんだから困った困った。悩まないで傲慢なワガママ娘になれるくらい鈍感でバカな子じゃなかったのが良かったのか悪かったのか。まあ、聡い子だから、そのうち親の考え方や価値観の偏りに気が付いて、慣れたか諦めたかしたのよね」
と那乃さんが言うと、別に賢くないよと架乃は肩をすくめた。
「慣れたのか諦めたのか覚えてない。そのうち、『いらない子』って思わないようにしてたら、そんな風に悩んでたことも忘れちゃってた。とりあえず、お姉ちゃんの真似をしておけば無難だと気付いたし。お姉ちゃんが、ちゃんとわたしを叱ったり甘えさせたりしてくれたから大丈夫だったていうのもある」
架乃はソファーの背もたれに背中を埋めさせる。l
「でも、忘れてただけで、結構、呪いみたいにこびり付いてるとは思わなかった。こないだ、深弥に言われるまで気付いてなかったわ」
「そうでもないよー。大抵のことは器用にこなせるくせに、習い事も趣味も部活もなんでも途中で投げ出す、彼氏もファッションもころころ変える、とにかく一つのことが続かない子だったから、それは、お母さんのせいだとわたしはずっと思ってたもの」
「もー、彼氏はそんなにころころ変えてなかったし!てか深弥の前でそんなの言わないでよ。…自分では、ただの飽き性だと思ってたんだから」
私には、その話が笑えなかった。
「執着してしまうと、失うのが怖くなるから、長続きしない。些細なことで、自分が不要だと感じてしまう」
私がぼそっと呟くと、架乃と那乃さんの動きが止まった。
「それって結構面倒臭い呪いだと私は思うんです」
「カヌキさんは、架乃のそんな呪いを解いてくれるの?」
「できません」
私の即答に那乃さんが目を丸くする。
「解くのは、架乃自身です。…私は、そんなのに関係なく、ただ、架乃のそばにいます」
「…架乃」
那乃さんは私の顔を見ながら、架乃に声を掛けた。
「何、この子、いい子すぎない?架乃、カヌキさんのこと騙してない?カヌキさんの頭撫でていい?ハグしていい?ちょっとたくさんちゅーしていい?」
「駄目だってば!!ちょっとたくさんって何よ!?」
架乃は私を両腕でがっちりホールドして、那乃さんから遠ざけようとする。その慌てっぷりに那乃さんはお腹を抱えて笑った。
夕飯までご馳走になって、夜も遅い時間になってから、架乃の実家に戻ってきた。
ご両親は不在だった。
まるでモデルルームのように無機質なダイニング。ほとんど使っていない様子だ。
そのテーブルの上に封筒。表面に、「架乃へ」と書いてある。手紙だろうか。
「わーお」
架乃が手紙を見て声をあげた。
「ラッキー、結構な金額のお小遣い振り込んでくれたみたい。…これで、末っ子の恋人を歓迎しているつもりなのよね。おかげで明日は豪遊できそう」
ため息混じりに架乃が言う。
「欲しい物はこうじゃないってご両親に言えば?」
私がそう言うと、架乃は肩をすくめる。今日、何回その仕草を見ただろう。そうやって諦めたのは、これまで何回あったんだろう。
「…昔はね、お姉ちゃんと二人で、お父さんとお母さんに、何度も何度も、わたしの欲しいものはそうじゃないって言ったんだ」
「どうなったの?」
「分かった、好きな物を自由に買いなさい、って、たくさんお金くれた」
ちょっと唖然とする。
愛されているけれど、どうでもいいんじゃないかと感じてしまうから混乱する、と架乃は言う。
愛情とはなんぞや、と言う命題が解けなくて頭が痛い。
「…そんな状況で、架乃がぐれなくて良かった」
そう言うのがやっとだ。
「ちょっとヤバい時期はあったよ」
架乃が洒落にならないことを言って、ニヤリとする。
お風呂も綺麗で広くて、何だかホテルみたいで落ち着かなかった。
急かされるみたいに、さっさと上がって、架乃の部屋に戻る。架乃の匂いの残るこの部屋だけが、人の気配があって落ち着ける場所だからだ。
早いなーと言いながら入れ替わりに架乃がお風呂に行ってしまって、架乃の部屋に取り残された。一人になって、ベッドに寄りかかって床に座り込んで、腕が吸い込まれるようなふかふかのクッションを抱え込んで、昼間の那乃さんとの会話を思い出していた。
今日、架乃のことで今まで知らなかったことが、いくつか分かった。
知ることができたのは良かった。
たまに、いや、ちょくちょく、架乃が見せる極端さの理由は、漠然と分かった、ような気がする。
でも、所詮、それは誰にでもある、今の自分を形成した過去の情報に過ぎないとも私は思う。
私はただ一緒にいたい
その思いだけが強くなる
「何考えてるの?真面目な顔して。実験?映画?」
「ぅわ、いつの間に戻ってきたの!?…ていうか、何か着てきてくださいよ」
「ぱんつ履いてるじゃない」
ぱんつという表現にそぐわない大人な下着一枚と肩にかけたバスタオルだけの格好で、部屋に戻ってきた架乃を見て、目のやり場に困る。
見慣れる、くらいには見た、筈だけど。困るということは、まだ見慣れてないということになる。
「じゃ、深弥も脱いでいいから」
そういう問題ではない。
「…帰ったら、愛されてるけれど愛されていない人のほらあ映画見せてよ」
それは、難しい、と思った。
「夫に関心を持ってもらえなくて、おっきいビー玉とか画鋲とか異物嚥下をする人妻の話はどうですか。観てないから、よく知らないんですけど」
「それはなかなかエグい」
「ホラーじゃなくても、いいかなぁ」
私は、頭の中の映画リストを検索する。
その間に、架乃が私の正面に跪く。
「世界中の人から愛されていることを知らない晒し者の話は?」
「ええ?意味わかんない」
「はは、観れば分かります。架乃は観たら、絶対、泣きます」
架乃が距離を詰めて来る。架乃の裸の胸が揺れて、それに目が行ってしまう。クッションを挟んだまま抱きしめられた。
「わたし、映画で深弥に泣かされるの、好きになってきたかも」
「ははは、そんなこと言われると、泣かし甲斐がなくなっちゃうじゃな…」
最後まで架乃は喋らせてくれなかった。
力が抜けてきて、ベッドに寄りかかっていた背中がずるずると下がって、このままだと首が痛くなりそうなところで頭を抱え込まれた。
「ねえ、めちゃくちゃ愛したいんだけど、ベッドの上と、床の上、どっちがいい?」
その質問は、ちょっと品がないと思う。
結局、ベッドの上を私は選んだ。
自分たちの家じゃなくて、架乃の実家でこんなことをするのは、なんだかいけないことをしているみたいで落ち着かない。
その上、なんだろう、今日の架乃はちょっと違う。
優しすぎて、丁寧すぎて、逆にもどかしい。
架乃が、弱く少し強く、ゆっくり早く、蠢く。
私の息が上がり始める。
「…わたし、今まで誰も自分の部屋まで連れてこなかったのは、ただ自分のテリトリーを侵されたくないだけかと思ってたけど」
集中して聴くのが難しい状態に私を追い込みながら、架乃は言う。
「恋人も、友達ですら、いつかわたしのこといらなくなるって、一人で思い込んでたのかな…」
私は声にならない声を漏らす。でも、大丈夫、聴いてるから。そう伝えたくて、強く瞑ってしまった目を細く開いて架乃を見る。
「なのに、深弥をここに連れてきたくて、お姉ちゃんに見せびらかしたくて、仕方なかった。いつの間にか、わたし、深弥だけはいなくならないって思い始めているのかもしれない」
ああ、でも、もう
「…わたし、自分の嫉妬深いとこ、自分でも嫌いだった。でも、それを愛情表現って言ってもらえて、ふふ、メロメロって言ってもらえるなんて」
「…架乃…っ……」
「深弥、もっとわたしを呼んで、わたしの名前、呼んで」
もう、私の喉から出るのは、架乃の名前ではなかったけれど
ーーーーー
翌日
高い展望台から街を見下ろした。
お洒落な都会の街並み。
テレビや映画で見たことのある建物群、観覧車、港。大桟橋には、たまたま大きな豪華客船が停泊している。
タワーの展望台にはたくさんの人がいて、ざわついてた。都会って、どこから人が湧いてくるんだろう。ゾンビ映画みたいでちょっと気持ち悪い。こことか東京とかの大都会はホラー映画より怖いと思う。
架乃が、あれは何、これは何、あっちに行くと…と丁寧に説明してくれる。細長い指が指し示す方向に私は視線を向ける。
それから、額から鼻にかけて綺麗な線を描く横顔を盗み見た。
架乃が私の視線に気付く。でも、気付かなかったように、私をちらっと見て、また、目を風景に戻した。
「…いつか、もし、深弥と一緒にいられなくても……、なんて、思うのは、嫌で怖くて仕方ないけど。…誰かに、ここまでそばにいてもらおうと思えたのは、良かったんだろうな」
眼下に広がる街並みを見ながら、近くに人がいなくなったタイミングで架乃がそう言った。わたしは
「それ、別れる時に言う台詞だから」
「あはは、確かにそうね」
「言っときますけど、今日で365日だから」
「何が?」
知らない振りをしようとする架乃の肩をもう一発叩く。今度はさっきより強く。
「痛いよ。うそうそ、分かってる!明日が1年の記念日ね」
分かってたくせに。分かってて昨日の夜、あんなにしたくせに。
「架乃、もう1年、追加延長確定ですから」
「…やっぱり、深弥はわたしのこと、本当に好きよね」
「そうですけど、悪い?」
「悪くない、ううん、すっごくいい」
「でしょ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ネタにした映画タイトル
「Swallow/スワロウ」(2019)
「トゥルーマン・ショー」(1998)
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