APR.カヌキさんは逆襲する

 4月



 3度目の春が来た。

 もう3年生になってしまった。大学生活が半分終わったことになる。


 うちの学科は3年から専攻が決まる。

「君ら、僕の研究室でいいの?」

 ホソエ教授は、おおむね天然スキンヘッドなところと低い声と穏やかな口調がダンディだ。低い声でわたしとニトウに話し掛ける。

 ホソエ研究室に入ったのは2人。わたしとニトウしかいない。他の研究室が4人から5人振り分けられたので、他の研究室の半分しかいないということになる。

 高い英語力が求められるという噂があって、余り希望する学生はいないが、わたしはホソエ教授の講義が面白くて、ホソエ研究室に入ることを早くから決めていた。

「センセイ、英語ができないと、ダメいうんは、本当なんですか?」

 ニトウが教授に尋ねると、教授は首を振った。

「…できるに越したことはないけど、日本語ができれば大丈夫だよ」

 そう言って、教授は論文のコピーをわたしとニトウの前に置いた。

「とりあえず、この論文を選んで、感想を口頭でいいから僕に言いに来てくれるかな」


 …英語だった。

 教授、そういうところだよ、と思ったが口には出さなかった。


 ニトウと二人、泣きながら研究室を出た。



 2階の自分の部屋で、電子辞書片手に、論文と戦う。

 内容は興味深い。それは確かだ。でも、頼むから誰か翻訳してくれ、とは思う。少しずつ読み進めていたら、もう深夜になろうとする時間だった。

 慌てて、お風呂に入ろうと1階に降りると、ダイニングのテーブルで深弥みやはタオルを首に掛けて。目を細めてパソコンを睨んでいる。

 深弥は深弥で研究と戦っているらしい。

 険しい顔してても、威嚇してくる子犬みたいで可愛いんだけどね。


「深弥、お風呂入った?」

「私、出たばかりだから、お湯、まだ温かいよ」

 わたしが声を掛けると、顔を上げ、ニコッと笑う。

「先に寝てていいから」

 そう言うと深弥は、うんと頷いて、パソコンに目を戻した。


 多分、3月。

 叔父さん夫婦が経営するペンションで働いている頃から、深弥はわたしに敬語を使わなくなった。時々、敬語に戻ってしまうこともあるけれど、最近では、おおむねいわゆる「タメグチ」だ。他の人には相変わらず、慇懃な言葉を使っているみたいだから、多分、わたしにだけなんだろうと思う。

 言葉遣いだけではなくて、わたしに対する遠慮みたいなものが減った気はする。深弥らしい細やかな気遣いは変わらないので、分かりにくいんだけど、何かが変わったのだと思う。

 なんていうか…


 風呂場から出ると、深弥はまだパソコンを見ていたけれど、わたしに気付いて手を止めた。

架乃かの、もう寝る?」

 論文との戦いに疲れたわたしには、もう机に向かって戦う気力は残っていない。

「まだ、そんなに眠くないけど、少なくとも、もう部屋には戻って論文読むのはやめる」


 そう答えると、少しだけ深弥の頬が赤く染まって、わたしの顔から視線を逸らしながら言う。


「…じゃ、しよ」




「何を?」

 わたしは最初、本当に意味が分からなくて、聞き返してしまったが、深弥がかーっと赤くなったので、そこで悟った。

「…何って、何、っていうか、その……せ……」

「ええ?嘘でしょ!?」

 ゴニョゴニョ言い淀んでいる深弥の言葉を遮って、わたしは驚きの声を上げた。

 深弥から誘ってきた!!

「どうしたの、なんで?」

「…なんで、って、えっと、…したいから…」

 そりゃまあ、深弥も慣れてきて嫌がってはいないのは分かっていたけれど、深弥の方から言い出さないので、わたしがいつも様子を伺ってタイミングを測って、誘い掛けるのが通常だ。

「ちょっと待ってよ」

 前髪をかき上げながら、ちょっと動揺して乱れた呼吸を整える。これは、何かの引っ掛けか。いや、深弥はそういうことはしない。

「ねえ、10のうち、幾つくらい、『したい』の?」

 自分でも珍妙な質問をしているとは思う。深弥は赤い顔をして首を傾げた。

「10のうち?……『したい』が、3かな」

 なんだ、3か。7はしたくないのね。ちょっとがっかり。


「残りの7は、『してほしい』」


 深弥が視線をわたしの目に戻した。

 多分、わたしは相当に間抜けな顔で深弥を見ていたのだろう。深弥が薄く笑った。

「架乃、鼻ふくらまさないで。きれいな顔が台無し」

 ばっと両手で鼻を、顔の下半分を隠した。

 やば、一気に興奮してる。

 わたしは、ダイニングの灯りを消してから、つかつかと深弥に近付くと、その手を取って、寝室に向かった。もう、ソファーベッドはベッドになっていて寝るだけになっている。

 押し倒す前に、ぎゅっと抱きしめる。


「何があったの?」

 腕の中でキョトンとした顔の深弥がわたしの顔を見上げる。

「今日は、普通にいつも通り。講義と実験があっただけ」

「そういう意味じゃなくて。……言葉遣いとか、『したい』とか。最近、深弥は変わったから」

「変わってないよ、私は」

 そう言って、深弥は背伸びして、わたしの顎にキスをする。

「あ、ちょっと身長足りなかった」

 そう言って深弥が目をそばめる。そんな顔されると、もう。


「ん……変わった、っていうか、敬語もだけど…取り繕うの、を、やめた…」

 わたしが深弥の首筋を辿るの止めると。はあ、っと深弥は息をついて、その話を続けた。

「ペンションでバイトして、架乃が映画を観て泣き出した時」

 ああ、あの不細工になった日か。

「架乃は、泣き疲れて寝ちゃったけど、どうしたら架乃の不安を取り除けるのか私はずっと考えてて…。」

「うん…」

「正直、無理だって思った。」

 わたしの体がビクッと震える。ざわざわと足の爪先から恐怖が這い上がる。深弥はそれに気付いて、わたしのキャミソールの中に手を入れて、そのまま背中を撫でる。刺激するのではなくて安心させるように。

「大体、人を変えるなんて、おこがましいことだなって。…そこで実験計画の見直しを図ろうって思った」

「実験計画?」

「ん、あ、ごめんね。普段の癖でそう言ってるだけ。いつも実験が思い通りにならない時は、基本の設定や過程が間違っているから、その洗い直しをするの。それと同じように振り返って考えた」

 背中を撫でていた手が止まり、横を向いて目を背けた。こういう時に目を逸らすのは恥ずかしいか、照れているかだ。

「目標は…どんな結果を導き出すか。架乃をどうこうするとかじゃなくて、その前に今の私が最終的に求めている結果は何かって」

「どんな結果?」


「…げる…」

「げる?ゲル状の何か?」

 ぶっと深弥は吹き出して、逸らしていた視線を私に戻す。

 わたしの背中にあった深弥の手に力が入って、ぎゅっと抱きしめられて、今度は深弥が下からわたしの首筋に顔を埋める形になった。


「今の私の目標は、『添い遂げる』こと」


 わたしの喉がぐぅっと鳴る。わたしの喉は深弥の耳の隣辺りの位置にあるから、きっと丸聴こえだろう。

「…長い長い目標。失敗するかもしれないけど、実験を開始しなければ結果は得られない。この結果が達成できれば架乃の不安の消失っていう副次的な結果も発生するかも」


「…もう、いいから黙って」

 わたしの中にある全部のスイッチが全開寸前だ。

「もう少し聞いて」

 深弥の手が止まって、指に力が入り、背中に食い込む。

「私が元彼との関係を駄目にしたのは…、敬語を使うことも含めて、相手の期待する自分を演じるばかりで、ちゃんと本音を伝えてなかったこととか、修復から逃げたこととか、そういう自分の非も大きかったなと今なら思うんです」

 ちょっと体勢がしんどくなって、深弥の上から体をずらして隣に横たわると、横向きで向かい合うような格好になる。

「だから、同じ失敗を避ける意味もあっての初期設定の変更。まず変えるのは自分。私にとって敬語は、ただの癖だけじゃなくて、……他人と距離を取って、なおかつ自分を良い子に見せる自己防衛の手段なので、少なくとも架乃には敬語をやめて言いたいことはちゃんと言う、を実践中です」

 言ってるそばから口調が敬語に戻ったことに気付いてないみたい。

「なんていうか、架乃をなんとか変えるより前に、長く架乃と付き合える自分になりたいんです……あれ、敬語だ」

 ようやく敬語に戻っていたことに気付いた顔にクスッと笑ってしまう。

「ありがと、深弥」

 そんなとこも含めて、どれだけ、この子がわたしのことを真面目に想ってくれているのか、改めて思い知らされてしまう。

 ああ、困ったな。わたしはこの子に何をして返せるんだろう。



「だから今日は誘ってくれたの?」

「私だって、その……性欲はあるんですよ。それを口に出すのは恥ずかしいけど、架乃に誘われるのを待つだけじゃなくて、したいときは言葉にしようと、ちょっと前から思ってて…今日は、言ってみようと思い立って…それで…」

 深弥がなんかゴニョゴニョしてきた。あと、わたしは再びムズムズしてきた。

「要するに、今夜はしたい、ってことね。覚悟はいい?」

 深弥の顔がちょっと引き攣ったけれど見ない振りして、いつになくおしゃべりだった深弥の口を塞いだ。…深く。

 




 翌日。

 今夜も論文の英訳と戦うつもりで帰宅して、二人で夕食を摂る。

「架乃は英訳?」

「うー」

「私はもう今日は開き直って映画観ちゃおうと思ってる」

 深弥は現実逃避するらしい。

「悪魔出て来る怖い映画やつ?」

「なんか、ちょっと評価が割れてるんで気になってる映画やつ。出て来るのは、悪魔じゃなくて宇宙人らしいですよ」

 映画にワクワクしすぎて口調が敬語に戻ってる。特に指摘はしませんが。

「じゃ、わたしも見る」

 現実逃避は大事だ、うん。



 隕石落下と共に現れた宇宙生物は聴力に長け、少しでも音を立てるとあっという間に襲ってきて人間を惨殺する。今や人類は絶滅寸前まで追い詰められていた。

 主人公家族は、宇宙生物から逃れ、家族だけで極力音を立てずにひっそりと暮らしている。しかし、このままでは宇宙人に殺されるのは時間の問題とだった…。


「…深弥ぁ、これ」

「うん…」

「面白くないとは言わないけど」

「ツッコミどころ多すぎ…」


 シチュエーションとか映像は面白いと思うんだけど。

 そうじゃないだろ、とか

 最初からそうやっとけばいいじゃん、とかとか

 つい、文句を言いたくなってしまう。


「これは、みんなで観て突っ込んで楽しむホラーだ」

 深弥が苦笑いした。

 ツッコミながら見るホラー?そんなのもあるんだ。


 ラスト、主人公一家は宇宙生物への反撃に転じる。

 主人公の女性が、ライフルをガシャンと鳴らして構えたところで映画は終わった。

 内容はどうあれ、逆襲を決意した主人公の最後の表情は格好良かった。いかに音を出さないか汲々としていた主人公ら残された家族が、遂に逆襲を始めたのだ。






 受け身から転じて前を向く。

 主人公の勇ましさは、まるで今の深弥みたいだとわたしは思った。










◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

ネタにした映画タイトル

「クワイエット・プレイス」(2018)

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