弥生 カヌキさん依存症
「俺はさ、音楽齧ってるから、あのやり直しの連続シーンは怖かったね」
「あ、そうですね。あれは怖かったですよね。演出もそうですが、元から顔の怖い俳優さんが、演技と表情で怖さ5割増しでした」
「先生にあんなんされたら、俺ならおしっこちびっちゃうよ」
「あ、あと、あの腕を挟まれた映画のラストの神経ぴーんのシーン、どうですか?」
「あ、あれね、俺、ヒュンってなっちゃったね」
「ヒュン?」
「あ、
叔父さんが下ネタに走った瞬間、叔母さんが叔父さんの頭をはたき、わたしも叔父さんの背中に蹴りを入れた。
「女の子に何の話をしてんのよ!」
怒っている叔母さんに、深弥がオロオロしながらフォローを入れる。
「あ、大丈夫です。私、兄がいるんで、…その、ヒュンっていうの知ってます」
知ってるの!
春休みに入り、3月の間だけ、去年と同じく、叔父が叔母と二人で経営しているペンションで二人で住み込みのアルバイトをしているところだ。今回も3週間くらいの予定。3年になるとアルバイトをしている余裕がなくなりそうなので、最後の小遣い稼ぎだ。
休憩中に、映画好き同士の深弥と叔父さんが、謎の映画談義を始めて、気が付いたら叔父さんが深弥にタマの話をしていた。
「何、また怖い映画の話?」
わたしは深弥が腰掛けている一人掛けのソファの背もたれに腕を置いて、上から深弥の顔を覗き込む。
「ははは、恐怖映画じゃないのに怖い映画の話です」
「意味が分かんない…」
わたしが顔を少ししかめると、深弥はクスッと笑う。
「ホラー映画じゃなくても、怖いシーンのある映画って結構あるんですよ」
「そういうもんなの?」
「深弥ちゃん、深弥ちゃん、あれ怖くなかった?あの猫のミュージカル」
「はははっ、怖い怖いです。あんまり怖いって話題になってるんで、観てみたら、本当に怖かった。変に生々しいっていうか、不気味でぞわぞわ感が止まらなかったです」
「だよね、だよねっ」
深弥と叔父さんは、訳の分からない話で盛り上がっている。わたしは肩をすくめると、キッチンの方で叔母さんが始めた仕込みの準備に加わることにした。どちらかと言えば大人しい深弥が、珍しくはしゃいでいるのを邪魔したくない。会話に加われないのは、ちょっとつまんないけど。
「叔母さん、ミュージカルがどうして怖いの?」
「私に分かるわけないでしょ」
そう言って叔母さんは玉葱を手に取って、そのミュージカルの有名なナンバーをハミングしながら皮を剥き始めた。
「オーナー、私、そろそろ客室の準備始めないと」
「お、もうそんな時間か。今度さ、俺がこないだ見たホラーじゃない怖い映画観ようぜ。今度の休みの前日に借りてくるからな」
「はい!楽しみにしています」
「
そんな深弥を目の端で追っていたわたしは、叔母さんから声を掛けられて少しびっくりする。
「え、はい、何?」
「深弥ちゃん、前に来てくれたのはゴールデンウィークだったっけ。1年経ってないのに、何だか少し大人っぽくなったねえ」
「…そう?わたしは毎日見てるから分かんない」
「こないだまで、何か真面目すぎておどおどしてるとこもあったけど、なんだろ柔らかくなって落ち着いたよね。すごいね、若い子は成長早くて」
「成長って、そんな小学生じゃあるまいし」
「私は大人びたって言ってるの。彼氏に限んないけど、誰かいい人に出会ったとか、大学やアルバイトで何かあったとか、理由やきっかけは色々あると思うけど」
「…そうかもね」
だとしたら、この1年で深弥を大人にした犯人はもっぱらわたしだろうな。
「それにしても架乃は昔から大人っぽい」
「…叔母さん、老けてるって言ったら蹴るよ」
うふふ、蹴られるところだったわ、とおばさんは笑った。ひどい。
このアルバイトはけっこう疲れてしまうので、そんなに体力が続かない深弥はわたしよりも早く寝てしまう。
使わなくなった奥の方のダブルの狭い客室がわたしたちの部屋だ。今日も叔父さんたちと一緒にお客様たちと話をしていて遅くなったわたしは、深弥を起こさないように静かに部屋に戻り、パジャマ代わりのスゥエットを着てベッドに潜り込んだ。
「ん…架乃?」
「ごめん、起こしちゃった?」
「そっち行っていいですか」
疑問形で言ってるけど、確定事項みたいだ。わたしが横にずれてスペースを作る前に、深弥は枕を置いて当然のように布団に潜り込み、わたしに縋り付くように体を横たえる。すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。
深弥の髪の香りに包まれて、わたしの体の深いところがむずっとし始める。でも、よく寝ている深弥をこんなことで起こすのはしのびないし、自分も疲れてるし、明日も早いから、無理はさせられないと思って諦めた。
わたし、おあずけ、どれくらい我慢できるかな…
深弥の髪に指を絡ませると、するっと髪は指から抜け落ちた。
クルクル回るようにアルバイトの日々は目まぐるしく過ぎていく。
叔父さんは繁茂期の働き手をどうするべきか本気で悩んでいる。私たちが手伝えるのは、この春休みまでかもしれない。就職してしまったら絶対に無理だ。
就職、とかって考えたくない。
でも、3年になれば考えなくてはいけない。就職活動が始まる。
わたしは何がしたいんだろう。
何ができるんだろう。
ただ働くだけでいいなら、そんなに無理に考えなくてもいいか、と逃げたくなってしまう。
深弥が傍にいてくれればそれでいいのに、その深弥からちゃんと考えなきゃダメって言われてる。
もう、このまま叔父さんとこで働こうかなあ、なんて思うけど、それを口に出したら、深弥は離れていってしまいそうだ。わたしの恋人は真面目で、本当に頭が硬い。
「架乃、ぼんやりしてないで、これ運んでくれませんか」
「はーい」
ほら、怒られた。
その映画を見たのは、このアルバイト中で唯一の休みがもらえる日の前日だった。深弥はワクワクしていたらしく、テレビの真正面のソファーを陣取り、その前にはコーヒーやお菓子を甲斐甲斐しく準備していた。ここでアルバイトしている間は、深弥は大好きな映画を見ることができないから、今、映画
目がキラキラしちゃってる。わたしのことをああいう瞳で見てくれたことはない。というか、映画を見るときだけ、物凄く目が輝く。
「え、主人公、おじいちゃんなの?」
「そうですよ、架乃も知ってる俳優さんですよ。1年の時、映画館でリバイバル上映、観に行ったじゃないですか」
「あの猟奇殺人の映画?」
「あの映画の博士が主演ですよ。あの博士役でアカデミー賞を獲って、この映画で約30年振りにアカデミー賞獲ってるんです」
「ほえー」
あかでみぃ賞なるものに興味のないわたしが気の抜けた返事をするとあからさまに深弥がヘソを曲げる。やばい。
「…別に無理に観なくていいんですよ」
「いえ、拝見させていただきますです」
わたしは深弥にペコリと頭を下げ、隣のソファーに腰を下ろした。さすがに家で映画を見るときみたいに、深弥を後ろから抱え込む訳にはいかない。
それは、ある老いた男性の物語だった。認知症が始まっているのに、介護人を辞めさせてしまうので、娘がひどく困っているところから始まる。
「え?」
わたしは混乱する。物語が進み、シーンが変わる度に状況が少しずつ変化する。この人は誰だったっけ?え、さっきと設定が違う?え?場所が違ってる?
………
「…これは、怖いですね。ジャンルは、ホラーじゃなくて、いわゆる難病モノのジャンルに入ると思うんですけど」
エンドロールが流れ始めて深弥が息を吐き出すように呟いた。
「だろお?」
叔父さんがしたり顔で言った。
深弥が解説する。
「普通、難病モノは病気の当人だけでなく周囲の家族や恋人にスポットを当てるんですけど、これはあくまでも本人のみの視点でどんどん見当識が薄らいでいく状況を描き出していく。この演出は秀逸ですし、その難役を、こう何というか、軽々と演じているところは流石というか…」
「老いることへの恐怖がじわわって来るんだよね、…って架乃!?」
わたしは声も出せず、両手で顔を覆って泣いていた。
最初は怖かった。
それから悲しくなった。そして物凄く怖くなった。
主人公は記憶を失っていく。
何もかも忘れてしまい、分からなくなってしまう。
わたしは、いつか深弥を忘れてしまうのだろうか?
深弥もわたしを忘れてしまうのだろうか?
わたしは消えてしまう。わたしの中の深弥も消えてしまう。
わたしは顔を両手で覆っているから見えないれど、叔父さんと叔母さんがわたしを心配してオロオロしているのが伝わってくる。なんとかしなければいけないけど、できない。
「ああ、架乃って最近何だか情緒不安定なんですよね、特に今は生理前で…」
とかなんとか深弥が誤魔化すようにしながら、わたしを部屋に連れ戻してくれた。生理なんて言うから叔父さんが「え、あのそれ、大丈夫なのかな」なんて間抜けなことを言ってるから、余計に動揺させちゃった気配がしたけれど。
泣きじゃくりながらベッドに手足を縮こまらせて転がったわたしの隣に深弥は座って髪を撫でる。体の震えが止まらず、しゃくり上げてしまう。嫌だ、こんな小さな子供みたいな泣き方したくないのに。
先月の誕生日、深弥に言われた。
『架乃は、誰も傍にいなくなって、誰からも必要とされてないって感じるのが、怖い』
そう言われて、その通りだとはっきりと自覚してしまっていた。すぐに嫉妬したり深弥を誰かに盗られるんじゃないかと勘繰ったりするのは、結局のところ、単に自分に自信がないからだ。
「ちょっと依存しすぎですね、私たち」
わたしの髪を撫でていた深弥の手が止まる。それは、いつもよりも低めの声だったこともあって、その言葉にわたしがビクンっと震えた。
依存を治すには、依存しているものを断つのが
「カヌキさん依存症」を断つにはー
一瞬、ベッドに穴が空いて、そこに落ちるんじゃないかと思った。泣きながら深弥を見上げる。いや、もう泣いてなんていられない。
「…や、だ。いぞ、依存しな、よにするから、やだ」
「あ、やっとこっちを見てくれましたね」
目が合って、深弥がにっこり微笑む。そのまま、わたしの上半身に体重を預けて、首にすがりついてきた。
「お互い、これだけ依存してるんだから、離れられないに決まってるじゃないですか。どうして私があなたから離れることをこんなに怖がるのか、私にはさっぱり分かりません、分からない」
「深弥…」
「素晴らしい作品だけど、所詮はたかが映画なんだから、そんなものでこんなにグラつかなくていいのに」
所詮はたかが映画、深弥がそんな言い方をすることに驚いていると、深弥にしては珍しく、むしゃぶりつくようなキスがもらえてしまう。わたしの方がちょっとだけ怯んでしまったけれど、それは深弥も不安になってしまったからだろう。
ここにいる、傍にいる、と深弥が全身で訴えているのに、わたしがこうやって泣くたびに、深弥の方が自分の気持ちを信じてもらえてないのだと傷ついてしまう。
深弥をぎゅうと抱き締め返して、強くなりたいと願う。
深弥を傷つけてしまうような自分の中の脆さに気付いてしまったから、もう、そこから目を背けてはいられない…
泣き疲れてそのまま寝てしまい、まだ薄暗い早朝に目が覚めると、わたしの背中に深弥が引っ付くようにして眠っていた。深弥を起こさないように気を付けながら、ゆっくりと体を回転させて、背中にくっ付いていた深弥を自分の腕の中にしまい込む。
深弥が温かくて、ここにいるということに安心して、わたしは二度寝に入った。
「やだっ!!今日のわたし、すっごいブス」
洗面所の鏡に映った自分の顔を見て愕然とした。これは、化粧でどうにかできるだろうか…。腫れた瞼。浮腫んだ頬。鼻も目尻も真っ赤。ぎゃあああ、って声を上げたくなる。悪魔が乗り移ったんじゃないか、って思うくらいだ。
わたしの泣き腫らした目を見て、叔父さんとおばさんが朝から大慌てだった。叔母さんは、味噌汁の入ってる鍋ごとシンクに落とすくらいだった。子供の頃から泣かない子として親類に知られていたわたしが、こんなになっていれば、それは驚くだろう。
「架乃、その顔、写真撮っていい?」
一人呑気なのが深弥だった。
「やめてー!こんな不細工なの残さないでっ」
「どんな顔でも架乃は架乃だから、いいの」
深弥のスマホから無情なシャッター音がした。
え、本当に撮ったの?
「ははは、可愛い」
そう言ってスマホを見ながら笑う深弥が、敬語を使っていないことに、その時、わたしはまだ気付いていなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ネタにした映画タイトル
「ファーザー」(2020)
「セッション」(2014)
「127時間」(2010)
「キャッツ」(2019)
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