神無月 カヌキさんは断った(後編)
「
眉をひそめて、深弥がわたしを見る。
ゆっくりと首を振った。2往復。そして
「…ダメです」
深弥の声は固く冷静だった。
「ダメって…?」
深弥は、両手でわたしの肩を軽く押して、わたしの腕の中からすり抜けた。
「嫌なんじゃないんです。ずっと一緒にいたいです」
キッチンの食卓用の椅子に深弥は腰掛けた。
「ひとつは、基本的にお金が掛かることはしたくないからです。腕をケガしてから、親が仕送り増やしてくれていて、引っ越ししたら、またお金が掛かってしまいます」
深弥の家は、決して貧しくはない。
でも、意地っ張りな深弥は、親に出させるお金は最低限にしたいんだろう、というのは分かる。
「でも、一緒に暮らした方が、家賃は安くなるし、光熱費や食費も節約できるよ」
わたしがそう言うと、深弥はふっと息を吐いて、唇を笑う形に歪めた。
「そうですね、そこはメリット」
でしょ、と言いながら、わたしは対面の椅子に座る。
「もうひとつは、私、この部屋を見付けるのに、ちょっと苦労したからです」
へ?このアパートってそんなに良いとこでもないよ。わたしは、割りと適当に決めた記憶がある。大学の近くの学生だらけのワンルームはなんだか嫌で、少し離れた所を探して、比較的安価のバストイレ別の1DKってのが気に入っただけ。
「…大きな音を出して映画を見ても大丈夫な部屋をすっごく探したんです」
2階建てのアパートで、わたしたちの部屋の1階部分にはクリーニングのチェーン店があり、夜には店が閉しまって人はいなくなる。今いる深弥の部屋は道路に面した建物の端っこで、深弥が大音量でテレビを見ていたとしても、ドア越しに廊下に微かに音が漏れるくらいで、わたしの部屋まで響いてくることはほぼない。
確かに、意外に、こんな部屋は余りないかもしれない。
「うぅ、大音量が出せる部屋で、そんなに高くない所、そういう条件ってこと?」
それなら、わたしは探してみせる、と考えた。
二人で住むなら、2DK以上だ。探す範囲は広がる。
「……でも、実際、お金も映画も、そんなのはどうでもいいんです」
深弥は、テーブルの上に両手をおいて、指を絡ませる。
「…私が一人になったとき、困るから…」
え?
ひとりになる?って
「私、この大学の大学院に行きたいんです」
「それと、一人になるっていうのと、どういう関係があるの?」
「
「え、ちょっと待っ」
「もっとつらいのは、卒業より早く、架乃が…」
わたしが
「……私から離れてしまったら、すぐに引っ越さなきゃならなくなる」
わたしが深弥から離れてしまう?
「一緒に暮らせないくらい、私のことを嫌いになったり、架乃が他の誰かを好きになったり」
「ありえない!!」
わたしは大声を出して、立ち上がった。
深弥は肩をすくめて小さくなった。
「………架乃じゃなくっても、わ、私が、もしかして、架乃を嫌になったり、他の人のこと…」
わたしは深弥じゃないから、ありえない、って言えなかった。
深弥には、自信がないんだ。
一緒に暮らせるくらい、わたしたちの関係が続いていくという。
……じゃ、わたしには、その自信がある?
「架乃も言いましたよね。薬指の指輪はまだ重い、お互いそこまで縛れないって」
言った。
そんなこと言った。
わたしも自信がなかったから、ピンキーリングを選んだんだ…
わたしも深弥も、今までの恋は長くは続かなかった。
卒業まで、あと2年半。
そんなに長く、一人を好きだったことは、わたしも深弥もこれまでにない。
でも
「やだ!卒業してもしなくても、深弥とは別れないもん、一緒にいる」
子供か、わたし。
「それで、わたしも大学院に行く、落ちたら、一緒に暮らせるところで就職する、ダメならアルバイトする!」
ばん
と深弥がテーブルを叩いた。初めて、深弥が本気でわたしに怒ったんだと思った。
「私を理由にして、適当に将来を決めないで」
口調は穏やかだけれど、いつもの深弥と全然違った。わたしの目をじっと見据える。
「私は、私のために私のやりたいことをやる。架乃もちゃんと自分のために先のことを決めて」
深弥は、そこで、固くなった表情を歪めた。
「ごめんなさい、違う。えっと…、一緒に暮らしたいとか、私のことも含めて卒業後のことを考えるとか、そういうの、嬉しい気持ちもちゃんとあるよ…」
わたしも怒った深弥に一瞬怯えていたことに気づいて、肩の力を抜く。
「…でも、私なんかのために簡単に物事を決めちゃダメだよ、架乃」
一緒に暮らしたい
ただの思い付きを軽く口にしてしまったわたし
それに対して、自信がないことも先のことも、ちゃんと考えた深弥
わたしの方が子供だ。
「…帰る」
恋愛感情だけで動いた自分が恥ずかしい。
それと、わたしの言ったことに、うんって同意してくれない、そんな深弥に腹を立ててしまっている、自分にむかつく。
わたしは、深弥の部屋から、逃げた。
自分の部屋のベッドにごろんと横になった。
いつもは、自分の方が深弥より大人みたいな気でいるから、わたしの方が深弥を振り回している。
でも、こういうときに分かる。やっぱり、ちゃんと精神的に大人なのは深弥の方だ。
それと
別れる可能性まで考えてたなんて
それが何より嫌だった。
わたしは、考えたこともない。
先のことより、今、深弥が好きだってことが大事。
付き合い始めてこっち、ずっと好きだって伝えてきたから、深弥がそんなことを考えていたなんて思いもしなかった。
「なんか、悔しい…」
じわっと目が熱くなって、涙がたまってきたのが分かった。
一緒に暮らしたい、って言っただけだったのに。
眠るに眠れない
泣くに泣けない
どれくらい、ベッドの上でうだうだしていたんだろう。
こんこん、っとドアをノックする音。深弥しかいない。
「架乃…」
ドアの開く音がして、わたしの名を呼ぶ声がした。ああ、鍵かけてなかった。
わたしはベッドにうつぶせになって、深弥の声に返事をしない。
「架乃?」
深弥が静かにわたしの部屋に入ってくる気配がした。
深弥がわたしの部屋に入るのは珍しい。
キッチンを抜けて、寝室にしている部屋に入ってきたと思う。ベッドの近くに立って、わたしの名前を2~3回呼んだけど、無視してしまった。
ベッドがきしんで、深弥がベッドに座ったのが分かった。
「スカート、しわになっちゃいますよ」
いいよ、別に。
「ごめんなさい」
謝らなくていいよ。
それも言えなくて、わたしは、深弥に背を向けるようにからだの向きを変えた。
帰って
帰らないで
どっちか分からない。
無視してごめん。
それも言えない。
背中が温かくなって深弥がわたしの背中にくっついたのが分かった。
深弥んちのベッドと違って、わたしのベッドは狭いのに。
ちょっとすると
首筋に、深弥の息がかかった。深弥の気配がぐっと濃くなる。
肩から腕、脇腹を深弥の手が撫でる。
……ヤバい。むらむらしてきた。
もう無視できない。
背中を向けたまま、深弥の手首を握る。
「ダメだよ、深弥。今日は帰って。わたし、深弥を滅茶苦茶にしちゃうよ」
深弥の額がうなじに当たる。
「うん、明日も講義あるし」
深弥のからだがわたしの背中から離れたようで、背中がちょっと寒くなった。
「架乃が、ちゃんと着替えて、ちゃんと寝るなら、帰ります」
「…うん、ちゃんとする」
「鍵もかけて」
「うん」
「今度の週末なら、めちゃくちゃにしていいから」
ドアを閉める直前に、なんか凄いことを言って、深弥が帰っていった。
ちょっとだけ、その言葉にどきどきしてから、わたしは鍵をかけて、着替えて、一人で寝た。
一人で寝るのが寂しかった。
一緒に暮らしたい
やっぱり、その気持ちは変わらない。
「大学院に進む予定」とアライ。
「公務員になるんだあ」とニトウ。
「あたし、先生になるー」と、あのモリですら、もう卒業後のことを考えていた。
しかも、3人とも、なんだか手堅い。民間企業に就職する気はないのか。
「ミヤは?」
アライに尋ねられて、わたしは答えられなかった。
「うん、とりあえず、資格は取りたいけど、まだ全然」
「どうしたの、急に?」
「えーと、み、カヌキさんとシェアハウスしようって誘ったら、大学院行くからダメって言われた。それで、わたしも院まで行くのもありなのかな、と思って」
へーっと3人が言う。
「じゃ、私とカヌキさんとでシェアハウスすればいいじゃん!」
とりあえず、3発くらいアライを殴った。
「卒業したらどうせ別々でしょー、カヌキさん真面目すぎー」
モリはけらけらと笑う。
「仲いいねえ、カヌキさんとミヤはぁ」
ニトウがのんびりと言う。
「そんなことより、ミヤ、大変だよ、大変」
モリはいつも賑やかだ。そんなことだなんて、言うな。
「国文のミヤの真似っ子ちゃん!小指に指輪してきた!それ、ミヤがしてるのとそっくりの!!」
「「「えええ!?」」」
「はあ、バイト先にも押し掛けとるのお、立派にストーカーだねえ」
のんびり屋さんのニトウですら危機感を覚えたらしい。
「いや、押し掛けるってほどでもないよ。普通にお客さんだから、別に害ないし」
「でも、気持ち悪いじゃん!何がしたいんだろ」
モリは騒ぐ。
「ミヤに何がしたいのか、もう自分でも分からないんじゃない?」
アライが意味深なことを言う。
わたしにしたら、真似っ子ストーカーのことは本当にどうでも良くて、
どうしたら深弥と一緒に暮らせるようになるか
この週末にどう滅茶苦茶にしてやろうかってことの方がずっとずっと重要だった
筈だった。
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