水無月2 カヌキさんは水底に沈む(中編)

 病院、そしてファミレスを経て、わたしたちはアパートに戻ってきた。


 わたしは、右腕の動かないカヌキさんのために、ソファーベッドのマットレス部分を引き出してベッドに変形させて、押し入れから敷きマットと枕と布団を取り出して、寝る準備を整えた。これも、当面は、カヌキさん一人ではかなり時間が掛かりそうだ。

 すみません、とカヌキさんはわたしに頭を下げた。

「しばらく、ベッドのままにしておきます」

「気にしなくていいから、もう、今日は寝て」

 そう言って帰ろうとするわたしを、服の裾を引っ張ることでカヌキさんが引き止める。

「帰っちゃうんですか?」

「一人の方がゆっくり眠れると思うけど…」

 一応、反論してみる。でも、カヌキさんが、ふるふると首を振る。今のすがるような目をしているときのカヌキさんに逆らえないか。心細いときに甘えてもらえるのって嬉しくもあるし。

「……顔洗って着替えてくるから」


 わたしが戻ってくるまでカヌキさんは律儀に体を起こしたまま待っていた。腿の上に右手を乗せて、それを左手で撫でている。

 痛み止めの薬がもう効いているから、かなり眠そうだった。

 

 わたしは、灯りを消して、カヌキさんの左隣に滑り込んだ。横を見ると、もうカヌキさんは眠りに落ちていた。


 が、


 やっぱり腕が痛いらしく、カヌキさんは熟睡できない様子だった。

 いつもより寝返りが多いだけでなく、うっとか、ふうっとか、声が漏れるのだ。


 で、


 わたしが、その声でもやもやして眠れない。




 薄明かりの中、カヌキさんは寝ながら眉間にしわを寄せている。

 その少し開いた口から、はあっと息がもれて、うわぁって思う。


「寝かせてよ…深弥みや

 カヌキさんの眉間をつつく。




 翌朝、わたしたちは大学に行くことを諦めた。

 二人とも寝不足だった。


 それぞれが大学の友達に連絡を付け、休むことを告げた。

 わたしの友達であるアライは、見た目はパンクだが授業態度は真面目なので、ちゃんとノートなりデータなり取っておいてくれるので、こういうときは助かる。


「深弥、親御さんにも連絡した?」

「あ、そうか」

 カヌキさんはちょっと顔をしかめた。そして舌打ちした。

「…うう、嫌だけど、仕送りを一時的に増やしてもらわないとダメそうです」

 治療費やら何やら、確かにお金がかかりそうだった。

 親を頼りたくない気持ちには同感するけど、仕方のないところだ。


 わたしに背を向けて離れたところでカヌキさんが実家に報告をしている声が聞こえる。

 大丈夫、大丈夫だってば、と繰り返している。心配されてるんだろうな。


「ああ、分かってるけど、うるさい…」

 スマホをテーブルに置いてカヌキさんがため息をついた。それはそれで、なんだか微笑ましい。

 友達の前で子供扱いされることが恥ずかしくなったのはいつからだっただろうか。親という存在の前では、わたしたちはまだ子供だ。



「お風呂入りたい…」

 親への電話で疲れたカヌキさんは、肩を落として言う。

「しょうがない、わたしが沸かしてあげる」

 ありがとうとカヌキさんが苦笑いした。


 お湯がたまったところで、わたしはカヌキさんの腕の包帯をほどき、ギプスを外した。

 お風呂から出たら、またギブスを着けて包帯を巻かなくてはならない。

「自分一人だけで包帯巻けないかな」

 カヌキさんがつぶやく。

「練習すればできるかもしれないけど、1ヶ月だけならわたしがやった方が早くない?」

 そうですね、とカヌキさんが眉尻を下げた。その眉間をつつく。気付かれていないが、昨晩から、つつきまくりだ。

「そんな顔しない。大したことじゃないから」


 広くはないアパートなので、洗面所は脱衣所と洗濯機置き場を兼ねていて、風呂場への入り口はそこにある。

 カヌキさんは着替えとタオルを持って、そこに入っていった。


 が、洗面所でがたがた音がした。

「カヌキさん、大丈夫?」

 ドアの外から声を掛ける。

「…うまく、服が脱げなくてバランス崩しただけ…」

 返事が心許ない。


「ごめん!入る」と言ってわたしが風呂場のドアを開けると、まだ、カヌキさんは下着姿で、背中のブラホックで苦労しているようだった。左手だけではホックが外せなかったらしい。

 着替えが難しいことに気付いてあげられなかった。


 頭の中で何をしてあげるべきか考える。

 右腕がうまく使えない、ということは。


「…ちょっと覚悟して」


「え?架乃かの?」



 カヌキさんを洗濯機の前に立たせて、わたしはその後ろに回る。

 右肩に大きな痣ができているのが目に入った。


 ホックを外して、気をつけながら肩紐から右腕を抜く。

 カヌキさんは顔を赤くして、わたしから胸を隠そうとしているけれど、

「あ、ありが……!!!ちょ」

 そこを後ろから、勢いよく、ショーツを足元まで落とした。


 問答無用で上下の下着を奪い取ったわたしは洗濯機にそれらを放った。


 ワタシハナニモミテイナイワタシハナニモミテイナイワタシハナニモミテイナイ


 頭の中で呪文を唱えながら、風呂場のドアを開けて、カヌキさんを押し込む。

「椅子に座って待ってて」


 それから今度は、着ていたパジャマ代わりのTシャツとショートパンツを脱いで、自分が下着姿になった。

「ちょっ、っっちょっと、架乃!!?」

 風呂場ではカヌキさんがわたしに背を向けて丸くなっている。


 ワタシハナニモミテイナイワタシハナニモミテイナイワタシハナニモミテイナイ


 呪文を唱えながら、シャワーの温度を調整し、カヌキさんの背中にシャワーのお湯を当てた。

「背中と左腕と上半身左側だけ洗うね」

 ボディソープを泡立てて、左手だけでは洗えないところを洗う。

 カヌキさんは大人しく固まっている。


「ついでに髪も洗っとく」


 カヌキさんの髪を洗い、軽くまとめてタオルで包んだ。


「よく温まってから出て」

 唖然とした顔のカヌキさんは体を隠すようにしながら頷いた。

 恥じらいと驚きで思考が止まっている顔だ、あれは。


 わたしは無事ミッションを達成し、風呂場を出た。出た途端に顔がかーっと熱くなる。

 濡れた体をタオルで拭いて、熱くなった頬に手の甲を当てて冷やそうとしたけれど、手の方が熱くなった。


 呪文のとおりワタシハナニモミテイナイ


 訳がない!!!

 全部見えた訳ではないけど、全裸だよ全裸。


 胸がバクバクしてる。 


「だから、怪我人に興奮するなってば」

 心の中のエロ親父を叱りつけながら、両手で顔を覆い、それから両側の頬をぱんぱんと叩いて、キッチンに戻って自分が脱ぎ散らかしたTシャツを拾って着た。


 



 少しして、カヌキさんが風呂場から出た音がした。多分、洗面所で体を拭いているだろう。

 洗面所のドアの前でわたしは声を掛けた。


「カヌキさん、背中だけ、わたしが拭いてあげるから、後ろ向いてて」

「…うん」



 洗面所のドアを開けると、カヌキさんが洗濯機の前に全裸の後ろ姿で立っていた。




 くらっとした。




 右腕が延びないので、軽く肘で曲げている、少しだけ不自然な姿勢だった。

 やっぱり右側の背中から腰にかけて、うまく拭けなかったらしく、水滴が残っている。

 右肩の痣が濡れて光って余計に目立つ。


 自分の視線が自然に肩から足へと滑っていく。


 うなじ

 肩甲骨と背骨のライン

 腰のくびれ

 そして、お尻と足


 細くて小さいけれど、意外に均整は取れている



 同性の裸なんて今まで意識したことがなかった。

 単純に裸がきれいっていうなら、うちのお姉ちゃんはグラビアアイドルのような結構すごい体の持ち主だ。

 見ると、すっごーいとは思うけれど、それだけだ。


 お姉ちゃんに比べたら、カヌキさんの体の凹凸は貧弱。


 なのに、わたしの目を引き付ける。




 そして、無償に触りたくなる


 手が背中に向かう




 この1ヶ月だけでも、何度もキスをして抱き締めた。

 それはそれで満足だった。




 だけど、こうして何度もカヌキさんの肌を目にしてしまうと、わたしは揺れる。



 もっと



 もっと




 もっと…!





「…架乃、本当にごめんなさい」



 小さな声が聞こえて、ドキッとした。

 背を向けられているので顔は見えないけれど、真っ赤な耳が覗いてている。


「気にしないで」


 我に返って、バスタオルで背中全体を包むようにして、まだ濡れているところを拭いた。



「それと、本当に本当に申し訳ないのだけれど」

 カヌキさんの背中が少しだけ震えている。

「下着、付けるのも手伝って、……下さい!」

 最後の「下さい」は半ばヤケクソな声だったので、笑ってしまった。

「手伝ってあげるから、大丈夫」

「もう、笑わないで」


 好きでわたしに裸を見せているわけではないだろうカヌキさんも相当恥ずかしいに違いなかった。




「私、一人でお風呂に入れなかったし、髪も乾かせなかった。どうしよう、ものすごく不便」

 カヌキさんは呆然としている。

 ギプスを着けて包帯を巻かれた後、Tシャツとジャージという一人でも着ることができる服を着て安心したところで、髪を乾かそうとして、結局、また、わたしに手伝われることになったからだ。

 昨日まで簡単だったことができなくなっていたことに自分でも驚いて、がっかりしているようだった。

 ちょっと口を尖らせて悔しそうな顔をしている。ふがいない自分が嫌なんだろう。


 食事、着替え、入浴と、難しいことがたくさんあると分かった。

 右手に筆記用具を持てないから、多分、学校でも色々ありそうだ。



 何が、どれくらい、うまくできない?


 頼まれなくても、わたしがいくらでも手伝うけれど、強情なカヌキさんのことだから、素直に頼んでこない気もする。


 カヌキさんは、きっと顔を上げた。

 左手で目尻を触ったので、ちょっと泣けてきていたのだろう。


「できないことリストアップする」


 ノーパソを自分の前に置いて起動させると、何やら入力している。

 表計算ソフトで表を作り始めたらしい。


 こういうところ理系っぽい。


 主に左手だけで器用に入力している。

 時々ミスタッチしたらしく舌打ちをするけれど、パソコンは片手でも大丈夫そうだ。



 カヌキさんは勉強している時とか、ふだん以上に真面目な、真剣な目をする。

 データを確かめているのか、手が止まった時に、目を細める癖がある。


 勉強している時の顔もわたしは好きだ。

 映画を見ているときよりクールな顔になる。

 多分、一番大人びる瞬間。


 その顔を見ていたい気持ちを抑えて、後ろに立ってリストを覗いてみる。



「手伝い必須なのは何?」

「包帯と料理ですね。着替えとかは練習すればなんとか…」

 表には、日々の行動を項目にして、その横に、一人でできる、できない、練習する、買うなど可・不可や解決法なんかも打ち込まれていた。


「うーん、最低限の包帯の巻き直しだけでも架乃がいないと困る」


「お風呂と着替えなら積極的に手伝う」


「…なに言って」




「「!!!!」」


 わたしの冗談に反応して、振り返ったとき、カヌキさんは右手のギプスを振り上げる形になり


 わたしの顔を直撃した。

 



「あああ、ごめんなさい…」



「……ねぇ、ギプスは凶器になるって、書いておいて」

 左頬を抑えてわたしは苦笑いした。

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