水無月2 カヌキさんは水底に沈む(前編)
水無月
どうして文系なのに統計学をやらなきゃならないんだと、みんなでぎゃあぎゃあ騒ぎながら課題を解いていた。
すっかり遅くなったものの、カヌキさんも今日は遅くなるとと言っていたので、二人で夕飯を摂ることにした。
わたしは買い物が好きなんだろう。衣服やアクセだけでなく、生活用品でも食料品でも。
こんな雨の日でもそれほど苦ではない。
でも、料理はそんなに好きではないので、お総菜を買って帰ることにする。
アパートまであと少しのところで早足の女の人とすれ違った。
雨と暗さでよく見えなかったけど、わたしと服装の趣味が似ているような気がしたので少し気になった。
傘で顔が見えないが、余りこの辺りでは見たことはない人だと思う。
まあ、そういうこともあるだろう。
角を曲がる。
わたしとカヌキさんが住むアパートは2階建てで、1階は店舗。家屋は2階のみ。カヌキさんちが階段から一番奥で、わたしの部屋がその隣になる。階段はクリーニング店の裏だ。
え?
裏に回って、いつものように階段に向かおうとしたときに物凄い違和感があった。
階段の手すりにの前に雨にうたれながら座り込んでいる人がいたからだ。
階段の灯りに照らされて、はっきりと姿が見えた。
「カヌキさん!!!」
慌てて、本当に慌てて駆け寄った。
どう見ても、その人がカヌキさんで、雨に濡れたまま、手すりに寄り掛かってぐったりしている。
わたしの傘の下に入れたけれど、今さらという感じだった。
七分袖のTシャツはびっしょりと濡れて、カヌキさんの肌に貼り付いていたし、デニムも色が変わっていた。
「カヌキさん!カヌキさん!!」
「…
名前を呼ぶと、カヌキさんが反応して、顔を上げた。
「架乃、濡れちゃってるよ…」
自分の方がよほど濡れているだろうに。
「いいから、立てる?」
傘を右手に持っていたので、左手でカヌキさんの右肩に手を掛けた。
「ぅあ、駄目!触らないで!!」
カヌキさんが珍しく声を荒げたので、慌てて手を引いた。
よく見ると、右手がだらんとしていた。
「ごめんなさい、階段から落ちて、右腕ちょっと痛めてるから、お願い、触らないで」
大丈夫かと問おうとして、明らかに大丈夫ではないので、言葉を飲む。
「…立てる?」
「うん、立てると思う…。ちょっとびっくりしただけ」
「左手は大丈夫ね?」
わたしはカヌキさんの左手を握り、引っ張り上げるようにして立ち上がらせた。
「……っ」
その振動で、また腕が痛んだらしく、カヌキさんは顔を歪める。
「多分、手首を捻挫してる…。あと、肘と肩は打撲したかも」
カヌキさんは、なんとか立ち上がったものの、まだ手すりに寄り掛かっており、左手で右手をゆっくりと確かめるように撫でた。右手は肘で緩く曲げていて手首は曲がらないようだった。
「救急病院行こう」
私が言うと、カヌキさんは首を振った。
「せめて、着替えさせて」
「なんで、階段から落ちたのか、よく分かんない…。リュック引っ張られたみたいな感じがして」
階段の前にカヌキさんのリュックサックと傘と眼鏡がびしょ濡れになって落ちていた。リュックは防水効果があるけど、これだけ濡れていてたら中の本類はヤバいかもしれない。眼鏡は片方のレンズにおおきな割れ目が入っていた。
「とりあえず、屋根の下に入って」
階段を数段上がれば、軒があって雨は防げる。カヌキさんをそこまで連れて行き、わたしは自分の荷物を一旦置いて、カヌキさんの荷物を拾いに階段を降りた。
「カヌキさん!階段上がれたら上がってて」
下から声を掛けると、カヌキさんは頷いて、手すりにすがりながら階段を登り始めた。
わたしは、その様子を見届けてから、雨ざらしになっていた荷物を拾い上げ、自分も階段を駆け上がり、カヌキさんに追い付いた。
カヌキさんのリュックのポケットから鍵を取り出して、部屋に入った。カヌキさんはキッチンの椅子にどかっと座り込んで左手で右腕を触っている。顔が少し歪んでいた。
わたしは、荷物を置いて、バッグからハンドタオルを出し、カヌキさんの右腕を動かさないように注意しながら、カヌキさんの髪や顔、体を拭いた。
「服、脱げる?」
わたしが尋ねると、カヌキさんが頷いた。わたしは着替えようとするカヌキさんから目を逸らし、濡れたリュックから本やノートを出して濡れ具合を確かめようとした。
「うう…」とカヌキさんが小さくうめいている。見ると、Tシャツが左側だけ肩まで脱げた格好になっている。右腕がうまく動かなくて脱げないらしかった。左側だけ上半身の素肌が露出している。
わたしはそれを見ない振りしながら近寄ると、頭をTシャツから抜いてやり、ゆっくりと右袖から右腕を抜くようにして脱がせた。
「立って」
デニムを脱がすためにわたしは膝を付いてボタンに手を掛けようとすると、その手をカヌキさんの左手が押さえた。
「…自分で脱ぐ、から」
「片手じゃ無理でしょうが」
「…恥ずかしい」
だからさ、あなたが恥ずかしがると、わたしも恥ずかしくなるじゃない。恥ずかしいのはわたしもなんだよ、恥ずかしいより心配がかろうじて勝ってるだけなんだって。
という言葉を飲み込む
「いいから、立って。左手をわたしの肩に置いて立って」
カヌキさんは結局わたしに従い、膝立ちしているわたしの肩に左手を置いて立ってくれた
濡れたデニムは脱がせにくかったし、正直、目のやり場にも困った。
それに、下着姿の人から靴下を脱がすのって、なんかエロいシチュエーションだと思うわたしは、やっぱり心の中にエロ親父を飼っているらしい。
はーっと息をついて、濡れた服を洗濯機に放り込む。
上下クリーム色で揃えた下着が目にちらつく。
ヤバいな、わたし。
女の子の下着姿に動揺したことなんて、過去にはない。
更衣室には、着替えてる女子高生ってうるさい、って記憶しかない。
なのに
「怪我人に興奮してんじゃないよ」
頭を振って、カヌキさんには聞こえないくらいの小さな声で自戒する。
下着姿のカヌキさんはタンスから大きめTシャツを取り出した。わたしに手伝ってもらいながら、ゆっくりとそれを着ると、下はジャージのハーフパンツをはいた。ハーフパンツの右側を左手で引き上げるのが難しそうで顔をしかめていた。
正直、服を着てもらえて、わたしは安心した。
心臓がバクバクしているのに平静を装うのはツラい。
雨の中、タクシーを呼んで救急外来のある病院に向かった。
カヌキさんはタクシーの中で、わたしに寄り掛かっていた。
顔色が悪い。わたしがくっついているといつも顔を赤くしているのに。
「なんか右腕全部が痛くて、どこを痛めているか、よく分からない」
息を吐き出してから独り言のようにカヌキさんはつぶやく。
それから、突然くすっと笑った。
「…架乃」
呼ばれたので、ん?とカヌキさんの顔を見る。
「私のこと、
あ
わたしは、カヌキさんに「架乃」と呼ばれるため、意識して「深弥」と呼ぶようにはしていたが、心の中ではずっとカヌキさんと呼んでいた。動揺しすぎて元のカヌキさんと呼んでしまっていたことに今気付いた。
カヌキさんの方が先にわたしの名を呼ぶことが定着しているようだ。
「そういう……深弥も、敬語じゃなくなってる」
カヌキさんが目を上に動かして、それから元に戻す。
「…痛いから、です」
取って付けた「です」に二人で小さく笑った。
「右肘のトウコットウコッセツですね。軽いからギプス固定で大丈夫ですよ。で、手首の骨は大丈夫ですね、捻挫です」
「「コッセツ??」」
カヌキさんとわたしはお医者さんの言葉に二人で驚いた。カヌキさんの腕の骨のレントゲン写真を見ているわたしたち。姉という触れ込みで診察室にちゃっかり入り込んでいるわたし。
「そう、右肘のね、ここの骨の先のところ、ひびが入ってるでしょ、これ」
身を乗り出して、お医者さんが指し示す箇所を見つめる。線?あの線がひび??
「とう骨頭骨折。4週間くらい固定ね。大丈夫、軽い方だから」
いや重傷じゃん…
腕をまるごと固められるのかと思ったら違った。手の甲から弛く曲げた右肘の上まで、幅10cmの柔らかい板を当て、それが固まるのを待った。なるほど、腕にぴったりサイズのギプスができるってことか。
それを包帯で巻いて固定して、さらに三角巾で釣る。
カヌキさんは呆然とした顔で、看護師さんになされるがままになっていた。
ただ肘を固定されたことで痛みが薄れたようで、顔には赤みがさしており、ちょっと安心した。
「架乃、私、骨折してた…」
うん、知ってる。わたしもあなたの隣で聞いてたから。
会計待ちをしているとき、カヌキさんはまだ納得できていないのか、包帯を巻かれた右腕を見ていた。
「架乃」
「ん?」
「あの、お腹空きました」
…うん。いつものカヌキさんが戻ってきた。
帰りのタクシーで、アパートから近いファミレスに行き、わたしたちは遅くなった夕食を摂った。
雨は小降りになっていて、明日はとりあえず止みそうだった。
「お箸、使えないんだ…」
焼き魚定食をフォークを使って左手で食べながら、ぽつりとカヌキさんが言った。
「フォークとスプーンで食べるようにするしかないかな」
「ていうか、この手だと料理できないと思います」
「あ、そうか」
右腕が使えない
それがどれほど不便なことなのか、わたしたちはこれから思い知る。
そして、それがどんなに刺激的なのか、わたしは、思い知る。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
今年もどうかよろしくお願いします。
なお、これまでのお話のネタになっていた映画のタイトルをお知りになりたい場合は、近況ノート「中間報告」をご覧下さい。
うびぞお
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