7月 カヌキさんとサメとワニ
7月
駅前のカフェでアルバイトを始めた。今日のシフトは10時まで。明日は講義もバイトもないのでゆっくりできる。来週締め切りのレポートを片付けてしまおうか。
なんて、考えながら店を出ると、むわんと熱気がわたしを襲う。太平洋が近いこの街は、湿度が高くて、ただ暑いだけじゃない。この街の大学を選んだのは自分だけど、この大学のある街の気候までは選んでいないし。
「あっつー」
ぼやきながら、自転車の鍵を外す。家まで自転車で30分弱。汗だくになる未来が見えて、気が遠くなる、ような気がする。ヘアクリップで髪を軽くまとめ上げると自転車をこぎ始めた。
アパートの2階の自分の部屋を通りすぎ、一番奥の隣の家のインターフォンを押す。
「ただいまぁ」
鍵が開く音がして、ドアが開く。黒髪の小柄な女の子がわたしの顔を見上げている。
「お帰りなさい。ミヤコダさん」
大学に入学してまだ3ヶ月なのに早速同棲突入である。
嘘
情けない話だけど、また、カヌキさんにお世話になっている。
高校までは、同級生の中で自分はしっかりしている方だと思っていたのだけれど、こうして大学に入って、アパートを借りて独り暮らしをしていると、自分でも信じられないくらい、わたしは迂闊だった。
夏の大失敗は、エアコンだ。
まだ大丈夫だと思って油断していたら、梅雨明けが近くなって突然猛暑がやってきた。夜も30℃超えの熱帯夜で、まともに寝ることができなくなった。慌てて電器店に行ったけれど、エアコンの注文が殺到していて工事まではしばらく掛かるとのことだった。
店をいくつか回っても、エアコン設置まで2週間は掛かることを知って、ふらふらになってアパートに戻ってきたとこころで、ちょうど大学から帰ってきたカヌキさんに声を掛けられた。事情を説明したところ
「工事できるまで、うちにいればいいじゃないですか」
当然のようにカヌキさんは言ってくれた。
この映画好きの隣人は真面目で善人で、…お人好しすぎて困ってしまう。
エアコン難民となったわたしは、自宅に戻るのは着替えと洗濯のときだけで、他はずっとカヌキさんちにいる。カヌキさんが光熱費を受け取ってくれないので、とりあえずバイトのない日の夕食をわたし負担にしてもらっているけれど、それでは借りは返せない。困った困ったと思っているうちに、カヌキさんちに半居候となってだいたい1週間が過ぎた。
「カヌキさん、わたし、迷惑じゃない?」
「ないですよ」
テーブルの上に散らかっている実験データを片付けながら、カヌキさんはわたしを見もせずに答える。ほっとしながらも、もーちょっと気にしてくれてもいいのよ、なんて思う。
「そんなことより」
そんなことかー
「…私、観たい映画のブルーレイ借りてきちゃって、明日、それ観たいんですけど、いいですか?」
「今夜、見ればよくない?」
「今日は実験レポートやっちゃいたいんです!すっきりしてから観たいんです」
えらーい。
「明日、わたしバイトないから一緒に見ていい?」
「…パニックホラーですけど」
「怖くてパニックになる映画?」
「ははは。まあ間違ってはいませんね」
カヌキさんの笑いが乾いている。きっと間違ったに違いない。
その夜、私は先に寝てしまったけれど、カヌキさんは遅くまでパソコンを叩いてた。
朝起きると、隣でカヌキさんがくーくーと寝息を立てていた。カーテンの隙間から見える日差しは今日も暑いことを伝えてくる。大型テレビの前に置かれたソファーベッドは、広げるとセミダブルベッドになる。その上に冷感の敷きパッドを敷いて二人で寝ている。わたしは自宅から枕とタオルケットを持参して、ベッドの右半分を借りている形だ。
カヌキさんの眼鏡を外した寝顔は中学生みたいで可愛い。頬にかかっていた髪を耳にかけてあげる。わあ、髪さらさらじゃん。
もっと髪をさわりたかったけれど、カヌキさんを起こしてしまうので諦めて、静かにベッドから抜け出した。なるべく音を立てないようにして、一旦、自室に戻り、こもった熱気に文句を言いながら洗濯をして、朝御飯のパンを食べた。カヌキさんが寝てる間くらいは暑い自分の部屋で過ごそう……はい、暑すぎて無理でした。
洗濯物を狭いベランダに干してから、しずーーかにカヌキさんちに戻り、キッチンでレポートを書くために本を読み始めた…
カヌキさんを起こしたのは、宅配便だった。
眠そうな顔で紙袋の宅配便を受け取ったカヌキさんは、う、マジか、と眉間にシワを寄せてつぶやいた。わたしには見せてくれない顔と言葉遣いが気になったが、プライバシーだから何も聞けない。ばりばりと袋を破いて中から何かを取り出したらしいカヌキさんは、さらに、ぶつぶつと毒づいたかと思うと、スマホを取り上げ、何かを打ち込んでいた。送り主への苦情らしい。
「……どうしたの?って聞いていいかな…」
おずおずと私が尋ねると、初めて見るカヌキさんのしかめっつらがそこにあった。
「あああ、いや、高校の友達から……」
8月の上旬にカヌキさんは実家に帰省する予定で、そのときに地元の高校時代のお友達たちと海水浴に行くのだそうだ。
「お揃いの水着を買ったら送るとは聞いてて、冗談だろうと思っていたら」
「ふんふん、本当に水着を送ってきたと」
「……私、ビキニなんて嫌です」
カヌキさんがしかめっつらから途方に暮れた顔になっていた。
わたしは、カヌキさんが手に持っている水着を見る。淡いオレンジをベースにしたボタニカル柄でカヌキさんに似合う色だと思う。お友達さんはカヌキさんのサイズも似合う色合いも分かってるらしく、仲の良さが想像できた。
「これなら布地多いし、そんな恥ずかしがるようなデザインじゃないよ。多分カヌキさんに似合うと思うよ」
「ミヤコダさんは、スタイルいいから……」
褒められた。背がちょっと高いだけなんだけどね、わたしなんて。
「いいじゃん、着てみなよ。ぱっと見サイズ大丈夫そうだけど、確認してみよ」
えええ、とちょっと嫌そうな声が返ってきた。
「きっと似合うと思う」
実はわたしは気付いている。カヌキさんは、わたしの上目遣いに弱い。
「着て見せて」
耳まで真っ赤になったカヌキさんは、わたしに見せていたビキニを手に取り、うなずいて、キッチンから隣のテレビの部屋に移動した。
ふふ、ちょろいぜ。
なんとはなしにキッチンから隣の部屋を振り返る。カヌキさんは、キッチンと隣室をつなぐふすまをとっぱらって、1DKを広めのワンルームみたいにしているから、キッチンからもう一部屋は丸見えだ。
!
ソファベッドの向こうに、カヌキさんの裸の背中が腰のくびれのところくらいまで見えた。
きれいな肩甲骨のラインに目が引き付けられる
罪悪感が沸いて、すぐに視線を外してカヌキさんに背中を向けた。友達とはいえ、着替えを覗き見るのはマナー違反だ。
エアコンはほどよい温度設定の筈なのに、かーっとわたしの体が熱くなって、ぱたぱたと手で自分を扇ぐ。
ごめんね、と心の中でカヌキさんに謝ってはみたけれど、目をつむれば脳内再生可能なくらいにカヌキさんの背中が映像記憶にしっかり残ってしまった。
「……ミヤコダさん……どう、でしょうか」
ほとんどつぶやきみたいな小さな声で、着替え終わったことをカヌキさんが教えてくれた。
わたしはもう一度振り返って改めてカヌキさんを見た。
ああ、やっぱり似合ってる。ビキニといっても、ボトムはショーパンだから可愛くて、そんなに恥ずかしがらなくていいのに、と思う。やるなあ、カヌキさんのお友達。
「うん、可愛い、可愛い、可愛い!!」
思わず、キッチンテーブルから立ち上がってカヌキさんに近寄る。わたしの可愛いの連呼で、カヌキさんがてへへと照れ笑いした。
「あ、どうせなら」
わたしは、何も考えず、カヌキさんのブラに右手を突っ込んでいた。左、そして右。
左側のときは、カヌキさんは目と口を大きく開けた。
右側のときは、ひゅっと小さく息を吸い込んでいた。
「ほら、谷間ができ…」
「うあああああ…!」
カヌキさんは、悲鳴にならない声をあげて、わたしから逃げるように後ろに飛びすさって、壁に背中をぶつけ、両腕で胸を隠しながらしゃがみ込んだ。
その真っ赤になった顔を見て、自分が何をしたのか気付いた。
そして、わたしは自分の右手を見て、改めて、何をどうさわったのか、その感触を思い出していた。
全体的にやわらかくて、手のひらを小さな少し固いものが滑っていった、ような
「ああああああ、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね」
居候の分際で堂々と胸を直に鷲掴みにするというひどいワイセツ行為をやらかしたことに対し、わたしは土下座して謝った。
「べ、別に変なつもりじゃなくて、その方が胸が大きく見えるかと思って…いや、ごめんなさい」
ああ、エアコンのない自分の部屋に戻って反省しよう。ごつんと床に額をうちつけながら考えていた。
「ミヤコダさん、土下座やめて…。大丈夫だから。分かってるから。私が過敏に反応しちゃっただけだから」
土下座をしているわたしの背中を、カヌキさんがぽんぽんと叩く。
「ミヤコダさん、お昼にしましょ。素麺でいいかな」
「あ、わたしがやる!」
土下座から立ち上がって、わたしはキッチンに走り込んだ。ばたばたしながら鍋に水を入れてガス台に置く。良かった、カヌキさん怒ってない。
「ミヤコダさん、こんなことくらいでエアコンのない部屋に帰るなんて言わないで下さいね」
素麺の袋をわたしに手渡しながら、カヌキさんが赤い顔で笑いかけてくれた。
「ミヤコダさんのこと意識しすぎですね、私。……人と一緒に暮らすのって初めてで、実は、何かと意識しちゃうことがあって、気にしない振りしてたんですけど、さすがに、あんなに思いきり胸を触られたら、もう恥ずかしくて仕方なくて。下着売り場の店員さんのときも恥ずかしかったですけど、そんなもんじゃなくって……」
いつになく、カヌキさんは言葉が多い。どうやら、わたしは許されたらしい。あと、思ってたより、わたしのことを気にしてくれていたことまで分かってしまった。ほっとして、視線を鍋からカヌキさんの赤い顔に向けた。
「…わたし、まだ、居候していていい…?」
「もちろん!いてください」
素麺を食べた後、いつものように二人並んでソファーベッドに座って映画を見た。
カヌキさんが借りてきた映画は、主人公の女の人が人のいない穴場でサーフィンをしようとして、サメに襲われるものだった。主人公は傷だらけになりながら、何とか岩礁に逃げ延びる。砂浜までは泳げる距離なのだけど、海に入ればサメに殺される。いずれ、満潮になれば、主人公のいる岩礁は海に沈んでしまう。
襲ってくるサメが怖い、岩が沈む時間が迫ってくるのが怖い、自分で縫った傷が痛そうなのが怖い。逃げられそうなのに逃げられないのが怖い。
「わたし、もう、海行かない……」
映画が終わって、わたしがつぶやくと、はははっとカヌキさん笑う。相変わらず、全然怖くないらしい。
「日本の海なら大丈夫ですよー」
「もう、海行かないもん。行くなら川か湖にする」
「湖かー。もう1本、観ていいですか?」
カヌキさんは、もう1本のブルーレイをセットした。
ハリケーンで湖から溢れた水と一緒にワニもあふれ出て、水泳選手の主人公とその父親が家の地下室に閉じ込められて、ワニに襲われるという話だった。
襲ってくるワニが怖い。ハリケーンで街一杯溢れる洪水が怖い。地下室に閉じ込められるのが怖い。
「…ワニもサメも嫌だああ。もう、泳ぎに行けない」
「ははは、ワニもサメもよくできたCGですよ」
わたしが喚けば喚くほど、カヌキさんは楽しそうに笑う。
映画は確かに怖かった。
だけど、いつもより映画に集中できなくて、ときどきわたしは右手の指をわきわきと動かしていた。
カヌキさんは大きめのTシャツを部屋着にしていて、袖ぐりからブラの脇が見える。今日まで、それを気にしたことはなかったのだけど、今はそれが気になってしまう。それが目に入る度にわたしの右手がカヌキさんの胸の感触を思い出すのだ。
サメに襲われている主人公のビキニ姿なんて、毛ほども気にならなかったのに。
ああ、わたし、右手にエロ親父を飼ってしまった
なお、カヌキさんとお友達は、台風で海水浴には行けなかったそうだ。カヌキさんの水着姿を見ることができたのは、とりあえずわたしだけだったということになる。
それを知って、わたしと右手のエロ親父とで喜び合ったのは、カヌキさんには秘密だ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ネタにした映画タイトル
「ロスト・バケーション」(2016)
「クロールー狂暴領域ー」(2019)
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