第57話 ジーゲスリード講和会議2日目 4
バルベルティーニ伯爵代理人クーペルの窮地に、助け船を出したのはアルベルト・パイナス伯爵だった。
「お待ちください。アプトメリア侯爵」
ヴァイシュ・アプトメリア侯爵が鋭い目つきでアルベルトを睨んだ。
「何だ、パイナス伯。吾は卿ではなく、バルベルティーニ伯爵代理人に訊いているのだ」
「アプトメリア侯爵から提示されたイル=バレー要塞の廃棄案は、バルベルティーニにも利があるものです。クーペル卿が反対する訳がありましょうか。クーペル卿自身は、アプトメリア侯爵の妙案に、賛同する意思を持っています」
アルベルトがクーペルに強い視線を送った。
「そうであるな、クーペル卿」
「……は、はい」
バルベルティーニ伯爵代理人クーペルが、茫然自失となった状態で、同意した。クーペルは、アプトメリア侯爵に加えて、パイナス伯爵にも圧力を掛けられ、観念して同意するしかなかった。
クーペルの同意により、アプトメリア侯爵は矛を収めることになったが、この成り行きに満足していないのは、火を見るよりも明らかだった。
その様子を伺いながら、アルベルトが口の端を緩め、言い放った。
「クーペル卿がイル=バレー要塞廃棄に賛同していながら回答を渋った理由は、吾輩にも理解できます」
アルベルトが言葉を止めて、反応を伺った。
アプトメリア侯爵が、言葉の続きを促した。
「理由とやらを申してみよ」
「はい。クーペル卿の懸念は、イル=バレー要塞の棄却が決定したとしても、あれだけの規模の要塞を撤収し、また多くの生活する人間を移住させることが、速やかに行えるのかどうか、ということです。すべてを完了させるには、年単位の時間を要すことになるでしょう」
アルベルトがショウマ・ジェムジェーオンの同意を得ようとこちらを向いてきた。
「違いますかな、ショウマ殿」
ショウマはアルベルトの意図がどこにあるかを探った。
イル=バレー要塞は年々拡張を続けてきた。アルベルトの言葉通り、簡単に撤収できる規模ではない。
この会話だけでは、アルベルトの意図を掴む材料が不足していた。
ショウマは同意するしかなかった。
「パイナス伯の言葉通り、完全にイル=バレー要塞を完全に棄却するには、1年以上の時間が必要になることになると思います」
アルベルトが皆に問いかけるように、顔を回した。
「ショウマ・ジェムジェーオン殿も認めたように、要塞廃棄するには長い期間が必要となります。その期間、イル=バレー要塞の無力化と、棄却処理の進捗を監視する必要があります。それらを、どのようにモニタリングするかが問題というわけです」
アプトメリア侯爵がクーペルに顔を向けた。
「それを懸念していたのか? 伯爵代理人」
「は、はい」
生返事だった。
クーペルの顔は何も理解していないことを物語っている。
ということは、アルベルト・パイナス伯爵が独断で話を進めていると判断すべきだ。ここで、アルベルトを自由に喋らせれば、彼の思惑通りにことが進んでいく。
ショウマは、釘を刺す必要があると判断した。
「パイナス伯は、イル=バレー要塞廃棄を決定したとしても、ジェムジェーオンが要塞廃棄を進めないと主張するおつもりですか」
「いやいや、まさか。そんなことは思ってません、ただ……」
「ただ」
アルベルトが難しい顔を造った。
「イル=バレー要塞の廃棄を、ジェムジェーオンが進めたとします。仮に、不可避の事情で計画が遅延した際、正当に遅延理由を主張したとしても、バルベルティーニが納得しない可能性があります。かといって、バルベルティーニが要塞の廃棄を実施するのは、ジェムジェーオンが内政干渉を主張して認めないでしょう」
ショウマは答えた。
「これは、ジェムジェーオンの国内問題です。当然のことながら、要塞の廃棄はジェムジェーオンが進めます」
アプトメリア侯爵がアルベルトに問うた。
「懸念は理解した。この問題に対して、パイナス伯爵は良い考えがあるのか」
「ジェムジェーオンとバルベルティーニ、双方に納得できる人物が、イル=バレー要塞廃棄の責任者となればいいのですが……」
「適任者はいるのか」
「条件からすると……、ジェムジェーオン側に、バルベルティーニが納得するような人材がいればいいのですが」
アルベルトが思惑顔で俯いた。
一瞬の沈黙。
アプトメリア侯爵が口を開いた。
「……吾にひとり心当たりがある」
「どなたでしょうか? お聞かせ願えますか」
「実のところ、このイル=バレー要塞廃棄という案は、吾の発案ではない。ジェムジェーオンのザカリアス将軍と面会した際に、耳にした案だ。彼の者は、自分はアスマ・ジェムジェーオン伯爵の命令に従っただけだと主張している。書簡自体が本物であるならば、新しいジェムジェーオン政府は、ザカリアス将軍を罪に問えない。暫定政府軍の最高幹部のひとりだった者だ。バルベルティーニもザカリアス将軍であれば、信を置けよう。イル=バレー要塞廃棄の責任者に、彼を任命してはどうだろうか」
アルベルトが賛意を示した。
「まさしく、妙案かと」
ザカリアスの狙いはこれだったのか。
――不覚をとった。
アルベルトの目が笑っている。
イル=バレー要塞廃棄という案は、アプトメリア侯爵がザカリアスと面会した際に伝えられた案だった。その面会にアルベルト・パイナス伯爵も臨席していた。つまり、アルベルトも、事前にこの案を承知していた。当事国のバルベルティーニよりも、第三国から提出されたほうが受け入れやすい。さらに、アルベルト自身ではなく、アプトメリア侯爵の口からザカリアスの名が出るよう誘導する念の入れようだった。
アプトメリア侯爵がクーペルに尋ねた。
「バルベルティーニの意見が聞きたい」
クーペルが答えた。
「ザカリアス将軍であれば、信頼できます。アプトメリア侯爵がご提案された人事案に従います」
アプトメリア侯爵の顔がショウマに向いた。
「ショウマ卿はこの人選をどう考える」
ショウマは沈黙した。
アプトメリア侯爵が賛同を求めてきた。
「ザカリアス将軍はショウマ卿と対峙していた暫定政府の最高幹部のひとりだ。卿が返答に渋る気持ちは理解できる。しかしながら、聞いてほしい。吾は、不幸な行き違いがもとになって、この騒乱が発生したと思っている。今日この時をもって、敵味方の諍いをなくし、皇帝陛下の忠実なる臣下として、皆で和平を享受したいと考えている。その実現のために、これは良い人選だと考えている」
この騒乱は、人間の意志が絡み合った結果だ。
――不幸な行き違いであるものか。
だが、現在のショウマに、ザカリアスを否定する材料も、アプトメリア侯爵の提案を撥ねつける実力もなかった。首肯するしか選択肢はなかった。
「判りました。イル=バレー要塞廃棄の責任者にドナルド・ザカリアスを任命します。早速、イル=バレー要塞廃棄の計画作成を命じます」
アルベルトが満足げな表情で、ショウマに向かって言った。
「ジェムジェーオンだけでなく、この会議に参加した各国に計画書を提出してくれるのでしょうな」
「お望みとあれば、提出しましょう」
「それでこそ、新しいジェムジェーオンの当主です。我々は皇帝陛下の忠実なる臣下として、アクアリス前脚地方に平和を実現しましょう」
ショウマはアルベルトを見据えた。
――このままでは、終わらせない。
アプトメリア侯爵の方に、身体を向けた。
「この機に、もうひとつ提案があります」
「申してみよ」
「パイナス伯爵国は一度調印した『パルブラインの和約』を、一方的に破棄しています。和約から約7年が経過しており、皇帝陛下もオリバー・ライヘンベルガー卿に、正式に男爵位を授与しています。今回の機会に、改めてパイナス伯に『パルブラインの和約』の調印を、アクアリス前脚地方の平静のため、お願いしたいと考えておりますが、いかがでしょう」
アルベルト・パイナス伯爵の両眼が、眼鏡の奥で大きく見開いた。
5年前、パイナスは、ライヘンベルガーが宗主国パイナスの断りなしにシャニア帝国より男爵位を受けたことを和約違反にあたるとして、和約破棄を宣言していた。ライヘンベルガーが男爵位を得ることは、皇帝直臣の地位を得ることを意味する。同時に、ライヘンベルガーが治めるラーガルライン地方の統治正統性が生じることになる。いずれ、ラーガルライン地方を奪回したいと考えるパイナスにとって、ライヘンベルガー男爵位は認め難かった。
アプトメリア侯爵が首をかしげた。
「吾はこの事実を聞いていない。それでは、今回、ジェムジェーオンとバルベルティーニの間で和平が成ったとしても、パイナスとライヘンベルガーの間は戦争状態が続くということではないか。パイナス伯はアクアリス前脚地方の平和をどう考えているのだ」
アルベルトがショウマを睨みつけた。
「和約はパイナス領内でライヘンベルガーの自治を認めるものであって、独立を認めるものではありません。ライヘンベルガーがパイナスの断りなく帝国から男爵位を受けたのは、明らかに『バルブラインの和約』に反する行為です」
ライヘンベルガー男爵オリバーが応じた。
「パイナス伯、そのようなことは和約に記載されていない。明文化されていない事項を主張するのは、間違っていないか。領内自治と主張しているのは、パイナス伯の都合の良い解釈と捉えている」
ライヘンベルガーとジェムジェーオンはこの独立戦争を機に強く結びついた。
ジェムジェーオン伯爵アスマは、アクアリス前脚地方でジェムジェーオンに並び立つパイナスの力を割くため、中央貴族に働きかけ、ライヘンベルガーが男爵位を獲得するのを助けた。さらに、アスマは娘シオンをオリバーに嫁がせることによって、完全にライヘンベルガーをジェムジェーオン陣営に引き込んだ。
アルベルトが強硬に自説の主張を続けた。
「『バルブラインの和約』締結時に結んだのは、新たな権利であって、これまでの宗主国と従属国の関係のなかで有効になるというのは、パイナスとライヘンベルガーの間で、暗黙の了解だったはずだ」
割って入ったのは、アプトメリア侯爵だった。
「パイナス伯、確認したいことがある」
「……何でしょうか」
「ライヘンベルガーの男爵位授与は、皇帝陛下のご英断によるものだ。パイナス伯は、皇帝陛下の決定に背いてでも、ライヘンベルガー男爵国を認めないつもりなのか」
「それは違います……」
「では、どうして和約を破棄したままなのだ」
ライヘンベルガー男爵オリバーが口を挟んだ。
「ぜひ、パイナス伯爵には、『バルブラインの和約』に再調印していただきたい。それが、皇帝陛下の忠実なる臣下として、アクアリス前脚地方の平和に繋がります」
くっ、アルベルトが苦虫を噛みつぶしたような表情でオリバーを睨みつけた。
その横で、アプトメリア侯爵が首を縦に振った。
「ライヘンベルガー男爵の言、もっともだ。それで、パイナス伯。吾の質問に対して、まだ答えを聞かせてもらってなかったな」
パイナス伯アルベルトが、大きく息をついた。
一瞬、答えに詰まったが、アプトメリア侯爵に頭を下げた。
「和約に異議を唱えていたのは前代のパイナス伯爵の時代のこと。吾輩は宗主国として、ライヘンベルガーの男爵位授与を慶事と捉えております。再調印が遅れていたのは、タイミングを逸していたに過ぎません」
ハハハ、アプトメリア侯爵が満足げに高笑いした。
「そうか、それでは、今回を機会として、『パルブラインの和約』の再調印も行おうではないか。これで、前脚地方は安泰だな」
アルベルトもアプトメリア侯爵に合わせて表情を崩したが、目は笑っていなかった。
オリバーがショウマと目を合わせ、満足気にニヤと笑った。
アプトメリア侯爵が周囲を見回した。
「他に何かあるか」
意見はなかった。
アプトメリア侯爵が議論が尽くされたのを確認して、側近にジェムジェーオン騒乱の講和条約の調印を準備するように伝えた。
「ショウマ卿。明後日のジェムジェーオン伯爵襲名式を楽しみにしているぞ」
ジェムジェーオン騒乱の講和条約が各国の代表に回される。調印が終わった。
アプトメリア侯爵が立ち上がった。それに続いて、他の出席者たちも立ち上がった。
ジェムジェーオン騒乱が、これにて、真に終結した。
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