□ 二十二歳 冬②
「おねーちゃーん、早くしてよー」
玄関から妹の叫ぶ声がする。浪人生のくせに驚くほど落ち着いている妹に比べ、単に家族として付き添う私が非常に緊張しているなんて、どう考えても変だ。
「ちょっと待ってよ!」
「遅い、もう、早くしてよ、間に合わなかったらお姉ちゃんのせいだよ!」
「分かってるから」
慌ててコートを羽織って、いつものショルダーバッグを持って玄関へ向かう。今日は私は付き添いだから実用第一の靴を履く。
「どうして大学の近くのホテル、取らなかったの」
「だって、大学はすぐそこでしょ、せっかくこんな間近にお姉ちゃんが住んでるのに、もったいないじゃない」
「そうだけど……」
今日は国立大学の前期試験の二日目だ。妹は厚山の医学部を受けると言って、一昨日から私の部屋にいる。
一緒に大学まで歩いていきながら、香は妙に穏やかな顔付きをしている。あまりにも普通なので思わず訊いてしまう。
「香は緊張しないの?」
「しないしない。どうせ落ちても後期があるし」
「えー、何それ」
「センター試験、自己採点がめっちゃ良かったから、後期の
「へえ……そう」
「新椙は小論とセンターが一対九だから、ほぼほぼセンターで決まるから」
「厚山の後期もそうだったよ」
「後期に厚山受けるほどの点ではなかった……って、悲しいこと言わせないで」
「ご、ごめん」
「ホント、受験生への気遣いがなってない!」
「すみません」
「って、大丈夫。お姉ちゃんの失礼な発言のおかげでリラックスして受けられるわ」
香はニヤリと笑った。
「じゃあ良かった」
「実はさ……昨夜は言えなかったんだけど、昨日の筆記試験、ボロッボロなんだ」
「ええええっ!!!」
思わず叫ぶ。昨日の試験の後、妹はそんなことは一言も言わず、楽しそうにテレビを見て普段通り眠った。枕が変わっても気にならないらしい熟睡っぷりに、私は勝手に、試験は無難に出来たんだと思い込んでいた。
「厚山の前期はセンターをほとんど見ないで、筆記重視でしょ。問題も今年は難しくてさぁ、お姉ちゃんには悪いけど、多分、落ちたと思ってる。だから今日の小論文と面接は消化試合」
「そんな……」
「大丈夫だって。現役の時だったら今頃泣きながら歩いてると思うけど、今年は違う。だって後期は手堅いところ出願してるし、意外と浪人生も楽しかったって思ってるから」
「え……」
「強がってないよ、本心本心。現役で入学してもお姉ちゃんみたいに足踏みする人もいるし、人生なんて色々ですよ」
妹は強いな、とつくづく思う。私は未だに彼女みたいな心の強さを獲得できていない。情けないな。
「せっかく泊まらせてもらったのに、こんな結果でごめんね」
「いやいや、まだ結果出てないから」
「そうだけどさー、ま、期待出来ないから」
香は、ハハ、と笑って元気よく歩いていく。
試験会場まで送り届けて、私は急いでその場を立ち去った。付き添いの家族が辛気臭い顔をしていたら、縁起が悪いと思われるだろう。
だから、昨日、香は実家に電話しなかったんだ。全部終わってから報告する、とか言っていたのは、全然出来なかったからだったんだ。
でも、まだ分からないじゃないか。問題が例年になく難しかったのなら、それは他の受験生も同じように出来てないに違いないんだから。
私は大学病院へ向かって歩きながら、自分に言い聞かせていた。
病院のタリーズは今日も混雑している。受験生の親らしき姿もたくさん見かけるし、患者さんもたくさんいる。これは座れそうにないな、と思い、店内をちょっと覗いただけで歩き出した。
さて、どこで時間を潰そうかな。
「歩」
店内から出てきた女性に声をかけられた。
「えっと……」
「私のこと、もしかして忘れちゃった? 綾だよ、平尾綾」
「ああ……」
「あ、今、思い出せないのを誤魔化したっしょ」
「いや、ちゃんと思い出しました。……解剖で同じ班だった」
「そうそう、ほんのちょっとしか一緒じゃなかったから、忘れられてるかと思ったよ。想像してたより元気そうで良かった。体調はもういいの?」
「え、あ、はい」
「そっか。で、何やってんの? こんなとこで」
「はい、いや……妹が試験受けてて」
「え? 厚山を受験してるの?」
「そう……なんですけど」
「そっかそっか。いや、奇遇、私も同じく。弟が今日、受験してて、その付き添いなんだ」
「そうなんですか」
こういう時、何て言えば正解なんだろう。少なくとも綾さんの弟と香はライバル同士だ。謙遜するのもおかしいし、相手の健闘を祈る気分でもない。
「そうなの。ま、センターがガッタガタだったらしくて、記念受験だけどね」
「……」
「ウチって足切りないじゃんね? だから受けるには受けるけど、みたいな投げ遣りな気分みたいよ? 後期は新椙なんだけど、あそこセンターしかみないからさ、も、浪人確定なんだわ」
「うちの妹も後期、新椙……」
「ま、そうだよね。多分、成績似たり寄ったりなんだろうね。大体、前期ウチなら後期は新椙くらいだもんね」
「……」
「そんな気を遣ってくれなくてもだいじょぶ。弟、受験舐めきってたもん、浪人して性根を入れ替えてもらいたいくらいよ」
「綾さんと弟さん、仲良いんですか?」
「何を唐突に。そうだね、悪くはないと思うよ。弟にバレないように髪を黒く染め直すくらいには、仲良いと思う」
「あ……」
今頃気がついて、私は納得した。なんか変だなと思っていたんだ。綾さんと言えば色が抜けた金髪がトレードマークだったのに、今目の前にいるのは清楚な格好の女子大生だ。
「歩は相変わらず頭が青いからすぐ気がついた。どうして歩って髪が青いの?」
「……意地、ですかね」
「そっか……なんか分かる気がする。でもその色維持するの大変でしょ? ブリーチも何回かしてる?」
「いや……元々若白髪で」
「そうなんだ! じゃあ、まだラクだねぇ、ブリーチ要らないなら」
変なことを気にする人だなあと思っていたところで綾さんの携帯電話が鳴った。
「あ、母親だ。何だろ」
「じゃあ、また」
「うん、今度はちゃんと時間取って喋りたいな。私、無事進級してるから、テストで困ったら頼ってよね」
綾さんは携帯電話に応じながら、足早に医学部キャンパスへ歩き去っていった。
……そっか、綾さんの弟も受験してるんだ……。
私は、自分が孤独だと思い込んでいたことが恥ずかしかった。こうして私のことを覚えていて声をかけてくれる人が、まだいる。私は世界で一人、みたいに悲劇ぶって、なんて格好悪いんだろう。
「さて、ホントに、どこで時間潰そうかな」
私はのんびりと病院の中央受付に向かって歩き出した。
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