□ 二十二歳 秋③
家に帰り着いてまずすることと言えば、二台あるオイルヒーターをフルパワーで稼働すること。オイルヒーターは電気代がものすごくかかるんだけど、私みたいなそそっかしい人間にはこれが一番だ。消し忘れても火事になる心配がないし、そもそも倒しても危なくない。まあ、かなりの重量なので倒したら床に凹みが出来るけれど。すでに何度も倒して実証済みだ。
開け放してあったカーテンを閉めながら、すでに夜の雰囲気を醸している医学部キャンパスを眺める。この部屋は九階、医学部キャンパスより高い斜面に建っていることもあって、北側駐車場が足元に見え、大学校舎も全景が見える。どの窓も灯りが灯っているのは教科棟と言われる各教室が入っている建物だ。
あっちから見たら、この部屋は見えるのかしら。
わざわざ窓から上を見上げてマンションを眺める物好きなどいないだろうけれど、万が一ってこともある。さっさと引っ込んで隠れよう。
私はカバンを玄関に放りっぱなしだったことを思い出し、玄関に戻る。カバンがひっくり返っていて、中に入っていたスケッチブックと色鉛筆が入っているビニールケースが床に転がっている。溜息をつきながらそれを拾ってカバンに戻し、携帯電話だけ持ってリビングに戻った。
組織のスケッチ、全然進んでいないんだよな……。
組織学はとにかくスケッチが全ての学問だ、と思う。講義で学んだ組織の特徴を、実際のスライドを書き写しながら頭に叩き込む。それが出来ない私は、本当に地獄の時間だ。
どうしてこんなに絵が下手なんだろう。何がいけないんだ? そう言えば、絵が上手い下手は脳機能の問題だとか言っていたっけ。見たものを脳内で再構築して、それを手を使って目の前の紙の上にまた再構築する。高度な能力だ。私のどこがいけないのかしら。脳内で再構築する時点で、すでにもう間違ってる気がするから、全く出来る気がしない。
スケッチをしながら違うことを考えているのも多分大きな理由だろう。スケッチブックを見ながら思うのは、さっちゃんは絵が上手かったってこと。さっちゃんの書いた解剖学のスケッチがどんなだったかも思い出せないのに、さっちゃんが中学生の頃に描いたという厚山銀行のポスターがなぜか脳裏から離れない。中学生にしては淡い色使いの水彩画は、いまだに銀行のあちこちに掲示されている。
生まれた時から人生の難易度は決まっているんじゃないだろうか。私は山あり谷あり奈落ありのハードモード、さっちゃんは何でも簡単イージーモード。
そんなことを思いついたのは、今日の講義中に山村真子が机の下でゲームしていたからだ。確かに面白くない講義だったけれど、まさかゲームしているとは。隣で吉野舞がハードがどうとかノーマルがどうとか言っていたから、ついつい、そんな空想が頭に浮かんでしまったんだ。
バレエ命の真子と陸部の新エースの舞、日本人の血は四分の一だった前田リア、の三人組と、私は時々話をするようになっていた。あの三人は皆、いい加減で不真面目で、でも決して意地の悪い子ではない。しかも遊んでばっかりなのに成績は悪くないらしいから、真に頭がいい子達なんだろう。
「合原さん、今日、ウチの部活の飲み会、来ませんか?」
舞が時々、そんな恐ろしいことを言う。真子やリアは、結構な頻度で参加しているらしいが、私は絶対にお断りだ。何しろ、舞の部活といえば、陸上部なのだ。……そんなところへ行くわけにはいかない。
あれから、一度もさっちゃんとは遭遇していない。次にあったらこんな話をしよう、あれも話そう、と準備はしていたものの、おそらく実際に出会ってしまったら、何も言えなくなるに違いない。
そもそも医学科一学年百人、それが六学年あるんだから、単純に考えれば、滅多に過去の知り合いに会うはずがない。看護学科もあるし、教職員や病院関係者も含めれば数千人があのキャンパスを歩いていることになる。……もう、さっちゃんに偶然会うことはないだろう。
「これでいい、んだよね……」
意図的に会おうとしなければ、もうすれ違うこともない。私達は全く違う時間、違う空間を生きている。……何もかもなかったことに出来る、忘れてしまえる。
私は携帯電話を握り締めたまま、繰り返し同じことを考えている。大丈夫、もう、過去のことだ。
そんなことを考えている時点で忘れようとしていないのと同じだとは、全然気付いていなかった。
「合原さん、全然描けてないじゃん」
組織学の実習中、見回っていた大学院生が素っ頓狂な声をあげた。
「スケッチ、苦手なんで」
「そうは言っても、ちょっと遅過ぎだよ。実習、あと一回しかないんだよ? スピードアップして」
「……はい」
「多少下手でも大丈夫、スケッチしているうちにコツが掴めるから」
「……はい」
そうかなぁ、そうは思えないけど。私の破滅的に下手くそな画力では、スケッチする意味すら無い気がするけど。
私の席は教室の一番後ろの隅っこだ。だから教授達の死角になっていて、今まで誰も私の進度を気にする人はいなかった。ところが一度気付かれてしまうと、みんな私の進み具合が気になるらしく、何度も確認に来るようになった。
「合原、まだ肝臓やってんの? 早く早く」
教授にまで言われるようになって、ますます私は進まなくなった。というのも、自分で見ても何を描いてんだか分からないと思っていたけれど、教授が見に来ては、全然違うことを言っていくからだ。
……これ、肝臓じゃなくて、膵臓ですけど……。
あまりの情けなさに涙が浮かんでくる。
結局、既定の時間内では終わらず、私は時間がある時に組織学実習室で居残りスケッチをすることとなってしまった。
「合原だけじゃないけど、でも一番たくさん残ってるのは合原だからね」
「……はい……」
別に部活もないしバイトもしていないし、暇はたくさんある。しかしこんな風に居残りで作業させられるのはみっともない。それに誰かにこのスケッチを見られるのも嫌だ。
……仕方ない、みんなが帰った頃、夜になってから来るか…。
教授に気付かれないように深く長い溜息をついてしまった。
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