□ 二十二歳 秋②




 十一月は霜月、そろそろ冬が始まる頃だ。この町は山の中腹にあるから冬は水道管が凍ることもあるという。今まで経験したことがない冬に私は怖れ慄いていた。十一月だというのに、もう寒くて寒くて、朝から晩まで暖房をつけていないと過ごせない。大学はどの講義室も全く暖房が効いていないから、すっかり真冬並みの装備で出掛けるようになっていた。

 自分には無縁の連休が終わって、やれやれ明日からまた大学行かなきゃなあなんて思いながらテレビを見ていた時、突然電話がかかってきた。母親だ。

「はい、私ですけど」

「あ……あゆみ……」

 それだけ言って、母は号泣していた。一体いつまで泣くつもりだろうか、とうんざりし始めた時に、唐突にそれは終わった。

「歩、心して聞いて欲しいんだけど」

「何?」

「おばあちゃんが……まーちゃんが……」

「何かあったの?」

「がんだって! 肝臓がん、だいぶ進んでるの」

「……」

「聞いてるの?」

「どうしてずっと病院にいたのに、進むまで気付かれなかったの」

「田舎の療養病院だから、あまり検査とかしてなかったんじゃないかしら」

「そんなわけない。肝臓だったら黄疸だってあるだろうしむくみも出てるだろうし、そんな見逃しとか」

「……あんたまで私を責める気?」

「別に責めてないけど。じゃあ治療は桐花でするの?」

「まーちゃんが……嫌がっていてね、大学に転院することになった」

「……ふうん……」

「桐花とか、せめて国立とか、もっといいところがあると思うのに……お母様も意地張りだから……絶対婿の世話にはならん、って言って」

「え? 大学って、久大じゃないの?」

「違うわよ、県立」

「舞山で治療するんじゃないの?」

「だから……合原の影響があるところは嫌なんでしょうよ」

「……」

 どうしてそこまで祖母は父を嫌うんだろう。家業を金銭的にも助けていたはずの父に、どうしてそんな反抗的なんだろう。何が気に入らないんだろう。……大体気に入らない婿と同居を承諾したのはどうしてだったのだろう。まあすぐに心臓で入院して以降帰ってきていないけれど……。

 祖母松枝の思い出は正直ほとんどない。冷たい目付きで見下ろされて怖かった記憶しかない。それでも祖母ががんだと言われると、心が塞ぐ。特に優しくされた覚えもないけれど、だからって、ああそう、とは思わなかった。

「パパには話したの?」

「絶対言うなって言われたから……しばらくは秘密にするつもり。歩も話さないでよ。香と桂馬の受験勉強に影響したら困るから、二人にも話していないから」

「私にも秘密にしてくれれば良かったのに」

「何? 私の相談相手になってくれないの? 本当にあんたは冷たいわね!」

「違うよ……相談相手になることは出来るけど、だからって私がママの何か役に立つとは思えないし……」

「まーちゃんが、歩に特に冷たかったから?」

「え……」

「だから、関係ないって思ってるの?」

「違う、関係ないなんて言ってないでしょ! ってか、冷たかったって、ママも気付いてたの?」

「当たり前でしょ、自分の娘に対する自分の母親の言動に気付かないほど馬鹿じゃないわよ。……私も理由は分からないのよ。私達はそういう会話が成立する母娘関係じゃなかったから」

「……」

「腐っても武家の娘、武家の妻、そんな変なプライドで人生損してるとずっと思ってたけど。……せめて重大な病気の治療は娘婿に相談して欲しい……今更考え方を変えられる歳でもないんだろうけど……」

「……」

「まあ、いいわ、歩に話して落ち着いた。また相談するから。歩はとにかく、自分自身の勉強をしっかりね。じゃあ」

 母は一方的に喋って電話を切った。言ってることとやってることがチグハグだ。私の勉強を心配するくらいなら、妹弟と同様に私にも秘密にしてくれれば良かったんだ。こんな話をされて、私が動揺しないとでも思ってるんだろうか。

 それとも……母も、私には感情がない、機械みたいだとでも思っているんだろうか……。



 月曜日、午前中の内科総論は何の因果か、肝胆膵の講義だった。肝臓、胆嚢、膵臓、の三つの臓器を第三内科の講師が説明する。解剖の時にはあまり丁寧に見ていなかった臓器が実は密接に関係しているなんて、今頃知った。

 肝がんか。以前、祖母は胃がんで胃全摘している。その転移だろうか。それともまた新たな癌が出来たんだろうか。

 私は身が入らないままボーッと講義を聞いていた。相変わらずノートも取らず、プリントも広げっぱなし、ホワイトボードをそのまま丸暗記する方法だ。これで今までは頭に入っていたけれど、今日という今日は、無理かもしれない。

 大学院生が出席カードを配り始めたのを、私は横目で見ていて、飛び上がるほど驚いた。

「合原、久しぶり」

 カードを渡してくれながら、宇佐美さんが囁いた。

「え」

「俺、第三内科に進むつもりで、時々出入りしてるんだ。今日は手伝いしてる」

「そうなんだ」

「元気そうでほっとした。もし何か分からないこととかあったら、合原も教室においで。ウチはすごいフレンドリーでオープンな教室だから」

「ええ、機会があったら」

 宇佐美さんはうなづいて、また別の学生にカードを配り始めた。私はその姿を見ながら、心臓がキリキリするのを感じていた。

 もうあの頃のみんなは、どんどん先に進んでいっている。私だけが未だにこんなところで基礎……。自分が失った時間が身に迫って感じられて、ぐっと何かがこみ上げてきて辛かった。

 私だって、本当は宇佐美さんみたいに出席カード配ってる側だったかもしれないのに。私は初めて自分の不幸を不幸だとはっきり認識したような気がした。そして、こんな目に遭わされたことへの怒りがふつふつと湧き上がって、じっと座っていることも辛かった。

 出席カードに自分の名を殴り書きすると、タオルハンカチを握り締めて立ち上がった。トイレで頭を冷やそう。このままではイライラして居た堪れなくて、どうしようもない。

 私はそっと教室を滑り出て、トイレに向かって歩き出した。



 トイレに向かいながら、途中で気が変わってしまって、外の小道のベンチに座った。今まで授業中に出歩いたのは初めてだ。私は行き交う人の姿をぼんやり見ながら、さっきまでの焦燥感がゆっくりと冷めていくのを感じていた。

 事故のことは、よく思い出せない。誰もその話をしたがらないから、記憶を呼び起こすことが出来なかった。覚えているのは、私が軽トラックに轢かれる直前の、運転手の顔だけだ。その前後のことは全然思い出せない。どうして道路に飛び出したのかが分からない。でも多分、私の不注意ではなく、何かに追われていたのだろうと思っている。何となく、そうだったような気がするだけだけど。

 私を追いかけていた人は誰? そいつのせいで私は無駄に二年も過ごしてしまった。その人が私を追いかけなかったら、絶対轢かれたりしなかったのに。その人に私の時間を弁償してもらいたいくらいだ。その人のせいで……みんなより卒業が遅くなって、それだけ自立するのも遅くなって……。

 目の前を老夫婦が通り過ぎていく。医学部キャンパス内は病院に入院している患者の散歩道にもなっている。二人の身形から、夫が入院していて、妻が面会に来て、少し歩いている、そんな風に推測出来た。二人はにこやかに笑顔を浮かべて、特に会話をするでもなくゆっくりと歩いていく。

 私にも、あんな未来は来るんだろうか。あんな風に誰かと一緒に歳を取って、笑い合いながら散歩して……。

 全然想像出来ない。私のそばに誰かがいるなんて、その人と笑って生きていくなんて、おそらくあり得ない。私は……ずっと一人で生きていくんだろう。……誰にも理解されずに……誰にも愛されずに……。

「こんな所で何をしてるの?」

 老夫婦を見送っていた私に、死角から突然声をかけた人がいた。

「お久しぶり……一年ぶりくらいかな」

「さ……っちゃん」

 私は飛び上がって棒立ちになった。物凄い頻脈になっているのがわかる。耳の中で血流が轟々と音を立てて、平衡感覚を狂わせる。

「復学してたとは聞いていたけど、姿を見かけなくて……もう新しい学年には慣れた?」

「……」

「部活の後輩が、あゆのこと話してて、元気そうだとは思ってたんだけど」

「あ、あの、あの! 私、講義を抜け出してて、そろそろ戻らないと、あ、失礼します!」

 こんなことがあるなんて、想像してもいなかった。同じキャンパスで学ぶ医学生同士なんだから、ニアミスだってあるだろう、それに私は全く思い至っていなかった。ちゃんとこんな時のために事前に練習しておけば良かった、何を話すか前もって考えておけば良かった!

 私は可能な限り小走りで、転がるように大講義室に駆け込んだ。

 自分の席に座っても、動悸は治らなかった。全身に十分な酸素が行き渡っていない気がする。手先が冷たく強張り、足先が凍傷にでもなったみたいに突き刺すような痛みを感じている。

 堪えられなかった涙が一滴、広げっぱなしのプリントに落ちた。

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