□ 二十二歳 冬③




 病院の中央受付にも人が大勢いた。初診受付も会計も薬剤窓口もシャッターが閉まって完全に沈黙しているのに、こんなに人がいると、異様な光景だ。皆、何となく間隔をあけて控えめに腰掛け、半分以上の人が文庫本を読んでいる。

 ああ、みんな大学受験生の付き添いの家族なんだなぁ。それぞれ無口で下を向いているのは、受験生と同じくらい緊張しているからだろうか。肩のあたりに力が入っている父親らしき人の隣に私もそっと腰を下ろす。

 受験生の全員が受かればどんなにいいだろう。そう思わずにいられないほど、空間を共有する人達のひりついた存在が痛かった。私はここにいるどんな人より気が抜けている。ここに座っていていいんだろうかと思うほど。

 後ろから無言で肩を叩かれた。振り返り見上げると……さっちゃん……。

「少し、話せないかな」

 囁く声は私にしか向けられていない。鼓膜を揺らすかどうか疑わしいほどの小さな声。

 ここで断ることは出来ない。何か声を発してこの沈んだ空気を揺らすことは出来ない。私は静かに立ち上がった。

 さっちゃんは静かに歩き出した。その後ろをやはり足音を立てないようについて行く。

 連れて行かれたのは、総合内科の受付前のソファだった。休日の外来はしんと静まりかえり、生き物の気配が全くない。

「ちょっと寒いけど、中央ロビーも似たようなもんだし、いいよね」

「何の用? どうして休みの病院にさっちゃんがいるの」

 彼女は私の肩を押してソファに座らせ、隣に沈んだ。

「ばあちゃんが大腿骨を骨折して入院してるから」

「お見舞い? 大変なの?」

「オペ自体は大したことがないけど、食事がまずいとか、部屋がどうだとか、気を遣うから早く帰りたいとか、ワガママばかり言ってる」

「そう……」

「学年が違うと全然、顔を合わせないね。今日、見かけた時も幻覚かと思った」

「……」

 彼女は疲れたように両足を投げ出して、まるで不良少年みたいに浅く腰を下ろしている。私は精一杯縮こまって、可能な限り彼女から離れようと努力していた。

「あゆはいつまでも変わらない……」

「え?」

「いつ見ても、あゆはあゆだから、すぐに見つけられる、はずなのに」

「……」

「私達の学年からポリクリが始まるのが早くてさ、五年になったらすぐ、ポリクリなんだ」

「そう」

「そうしたらますますあゆを見かけなくなるね」

「そう?」

「病院に来ないでしょ、あゆは」

「そうね、特に用事ないし」

「外科系は厚山市立とか、県立中央とかだから、こっちにも来ないし」

「……ふーん」

「あゆは……いや、何でもないや」

「何?」

「勉強が忙しくて……ちょっとウツっぽくなってるだけ、何でもない」

「やっぱりさすがのさっちゃんも、大変だと思うことがあるのね」

「それってどういう……。……うん、そうかも」

「私も覚悟しとくわ、四年から以降は大変だって」

「……そうだ、ね」

 さっちゃんはそれきり黙り込んでしまった。無音の空気が重く私達にのしかかってきて、私は呼吸が苦しかった。

 一体何の用があって声をかけてきたんだろう。本当は何が言いたいんだろう。私は頭の中でぐるぐる考えながら、両手の指を組んだり外したり、落ち着きなくそわそわ動いていた。

「あゆ」「あの」

「あ」「さっちゃんからどうぞ」

「……いや、あゆから話して?」

「え……うん……あの、あのね、その……私、もう大丈夫だと思うんだ」

「え? 何が」

「今の学年、今までより、ずっと居心地がいいんだ。もちろん友達はいないけど、ほら、吉野舞、陸上部の子だよ、知ってるでしょ? 彼女達が気をつかってくれて、時々声をかけてくれるの。困ったときはあの子達に頼ると上手くいくことも多くて。だから、だから……大丈夫だよ」

「何が大丈夫なの」

「さっちゃんが心配してくれなくても、私、それなりにやれてる。もう、いいよ、気にしてくれなくて。私、一人でも大丈夫。さっちゃんはさっちゃんの時間を大切に」

「それって……こうして声をかけてくるなってこと?!」

「え? いや違うよ、なんか私のせいでさっちゃんに気遣いさせてるかと思って」

「……もう、あゆにとって私は不要ってことだよね? 必要ないから、もう関わらないで欲しいって、そういうことだね?」

「いや、そうじゃなくて、あ……いや、ねえ、違うって、忙しいっていうから」

「……分かってる。あゆは、私が……あんなことを言ったから、もう、嫌なんだよね、分かったよ、ごめんね、もう、こうして声かけたりしないから。……じゃあね」

 突然さっちゃんは立ち上がって外来の奥の方へ消えてしまった。足が早いから、私が止める間も無く。それどころか瞬きしている間に姿が無くなってしまった。

「え……何が、ダメだったの……?」

 私は体中を細かいガラスの破片で刺されたみたいな、そんな変な痛みと、わさびを食べ過ぎた時のような鼻の奥の痛みと、よく分からない耳鳴りとを抱えて、長い時間固まっていた。



 妹が宣言した通り、彼女は厚山大学を落ちた。その電話をもらった時、私は少しだけほっとしてしまった。これで妹に無様な姿を見られなくて済む。独りぼっちで過ごす毎日を知られないで済む。

 そして、さっちゃんを失ってしまった情けない自分を、見られないで、済む。

 いい加減、馬鹿な私でも理解していた。多分、私の発言を、さっちゃんは拒絶だと思ったんだ。……私はまた、自分の気持ちに嘘を、結果的についてしまったんだ。

 でも、これで良かったのだ。……だって、同性相手の恋には、未来も幸せも、ない。

 私が片想いしているだけなら無害だけど、あんなさっちゃんを巻き込むことは、絶対に出来ない。

「ホント……私の人生って上手く行かないんだなあ」

 どうして、好きな人に好きだと、堂々と言えないんだろう。

 きっと、私はずっと、こんな風に独りで生きて、死んでくんだろうな。……自業自得、だ。

 部屋の明かりを全部消して、窓から教科棟を眺めた。もうすぐ十時だというのに、まだ多くの窓の明かりが点いている。あの明かりのどれかにさっちゃんがいるんだろう。これからは、それを支えに、時間を過ごそう。

「何を、悲劇のヒロインぶってんだ、気持ち悪いよ私」

 決定的に縁を切って初めて、私は自分の感情をきちんと認められるようになっていた。

 私は、何を犠牲にしてもいいくらい、さっちゃんが好きだ。

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