□ 四十一歳 冬① その5
実際どれくらい動きが止まっていたのか分からないが、目の前の人物は特に変な顔をしていない。だから、自分では静止したつもりで普通に動いていたんだと思う。
既に受話器を受け取る事も口を突いて出てくる言葉も、脳に伝達される前に反射で処理される行動になっている。つまり今も私の脳とは全く無関係に動いて受話器を握って口上を述べることが出来る。
「はい、お電話替わりました、堀川です」
「・・・佐倉です、久しぶり?」
「・・・」
「・・・あゆ、やっぱり、あゆなんだね・・・」
全身が震えだして止められない。私はギュッと目を瞑って現実逃避を試みてすぐに断念した。・・・ここは職場だ。
「・・・どうして」
ここにいるのが分かったの?苗字も変わっているし、ただのヒラ係員、ネットをどれだけサーチしたって私に辿り着けるはずもない。頭の中を流れるように言葉が生まれたが、口からは唸り声に似た吐息しか出て来なかった。
「・・・仲杜市にいることは知ってたよ。入職時の健康診断書、健診センターに取りに来た時、私、診察医だったでしょう」
「・・・」
覚えてる。
「あの時、仲杜市に就職するんだねって私聞いたじゃない。・・・あゆは言ってくれなかったけど」
まるで急に世界が真っ白の発泡スチロールで埋め尽くされたみたいに感じられて、私は窒息しそうになっていた。何も見えない、何も感じない、何も聞こえない・・・電話の向こうの、囁くような小さな声以外。
「あの、これシマの、職場の電話なんで」
やっと絞り出した自分の声は私の耳には殆ど届かなかった。声を発しているのかすら分からない。
「うん、だから個人携帯の番号を聞こうと思って電話した」
「・・・」
息継ぎもしないで自分のプライベートの番号を羅列すると、向こうが復唱するどころか、何か声を発する気配を感じる間もなく、電話を切った。
受話器を握っていた手が痛かった。まるで水でも浴びたようにべったりと汗をかいていることに気付いて、また全身が震えた。
仕事の話じゃなかったのか?依頼についての話じゃなかったのか?本庁まで電話して、目的が私の電話番号?そんなわけない。きっと何か本題があったはずなのに、私は何も聞かずに電話を切った。
こちらから改めて掛け直すべきだろうか?でも、そんな事、出来ない。何と言って電話する?・・・きっとまた向こうから掛けてくるだろう。
「先生、何だったの?」
急に世界の音も色も何もかもが蘇ってきて、私はビクッと左目を動かして、いつの間にか隣に立っていた上司の顔を見た。課長は興味津々の表情を隠そうともせず、探るように私を見ている。
「・・・さあ」
「?何かあったの?患者の移管の話?でも厚山市からダイレクトに電話来る?」
そんなところから聞いていたのか。
「違います・・・大学の同期が・・・同期会の事で」
「あ、そ。医者は色々あるんだね」
「・・・」
・・・なんだ、嫌味か?
私はやっと自分が立ち尽くしていたことに気付いて、慌てて自分の椅子に体を落とした。
お気に入りの青のボタニカルプリントのワンピースは全然汗を吸わない。ベタベタする両手をスカートで拭いながら私は、全身から全ての水分が蒸発してしまったかのように感じていた。
一日中、上の空で過ごしても、何とか仕事が回っていったのは、新規患者が少なかったからか、協働した職員がしっかりしていたからか。
声を聞く前から、本人だと分かった。電話の向こうから聞こえる小さな息遣いすら私は覚えていて、佐倉慧だと感じられた。・・・変わっていない、と実感した。
電話番号、聞き取れただろうか?彼女から電話がかかってくるのがとても怖い。とても待ち遠しい。とても嬉しい。・・・とても怖い。
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