桜が咲いた日

□ 二十六歳 春 その1



 やや暗い待合室は、古い木の匂いがする。こんな真っ昼間に陽が差さないクリニックってどうなんだ、と思いながら、落ち着かない身体を揺する。ああ、早く終われないかな。

 国試の自己採点では、何とか合格していると思う。ギリギリよりも二十点以上あると思うし、地雷問題も踏んでない。しかしテスト中の自分を全く信用出来ない。ア、とするところをイ、と答えているかもしれないし、そもそも解答欄がずれているかもしれない。自分が何をしでかしていてもおかしくない、と思う。結果が出るまで後一ヶ月、悪夢にうなされる日々は続く。

 国試の結果を確認する前に、私達の医師人生は始まってしまう。働き出してから実は医師免許がもらえませんでした、となったらどうするんだろう。恐怖だ。・・・ああ不安。

 新規採用のための提出書類には、健康診断書の提出もある。どうせ入職直後に入職時健診を受けるのに、なぜ今、健康診断書が必要なんだろう。そのために数千円も払って健診を受けて書類記入をしてもらわなければならない。時間もお金も無駄だ。こんな時間があったらさっさと引っ越しの荷造りでもしたい。いや、どうせギリギリまで手をつけなくて泣く目に遭うに決まっているけれど。私は、宿題を直前に慌ててやるタイプだと自信を持って言える。・・・情けない。

 一昨日注射されたツベルクリンの腫脹部分がちょっと痒い。見るからに腫れているのを見ると、不安になる。幼児の頃からツ反は陽性だ。だからBCGも打ったことがない。でもこんなに腫れたこと、あったかな。

合原あいはらさん、診察室へどうぞ〜」

 呼ばれてホッとする。早く帰って昼寝したい。昨夜は遅くまで録り貯めていたドラマを見ていて、眠くてしょうがない。

 春物コートが暑苦しくてトートバッグに押し込んでいたのだが、そのせいで持ち手が掴み難い。モタモタしていると、再度名前を呼ばれた。

「合原さーん」

 介助の看護師が扉から顔を覗かせ睨む。

「はーい・・・」

 なんでそんな怖い顔で見るんだろ。イイじゃない、私の他に誰もいないじゃん。

 少しイラっとしながら診察室に向かい、何気なく扉に無造作に貼られたネームプレートが目に入った。

『本日の診察医:佐倉慧』

 ひゅっと息が漏れた。足がそれ以上動かない。無理、絶対無理、いやいや無理。こんな名前の医者、絶対無理。

「合原さん、入って下さい」

 看護師の冷たい視線を感じ、やっとの思いでノロノロと診察室へ入っていった。

「もう、子供じゃないんだから、さっさとして下さい」

 看護師は私から荷物をもぎ取り荷物籠に押し込んだ。

「・・・お願いします」

 つい、目の前に座っている医者に向かって律儀に頭を下げてしまう。

 クスっと笑って、診察医は私に目の前の円椅子を示した。チラッと看護師にも視線を向けると、再度私へ視線を戻して、何かを言いかけ、私が頑なに下を向いたまま顔を上げないのを少し見て言った。

「どこか、気になる症状など、ありますか?」

「別にありません」

「・・・そう。・・・では、ツベルクリン反応を計測しますね」

「・・・」

 無言で腕を突き出すと、看護師が乱暴に掴んで袖を捲った。

「・・・中等度陽性、で、いいかな?」

「・・・」

 知らん。どうでもいいよ、陽性は陽性だろ。

 目の前の医者は私の顔を見て、少し表情を曇らせ、手元の紙に視線を移した。その紙は私が持参した新規採用者用の診断書だ。そこに数字を書きこみながら、医者はぼそっと言った。

「仲杜市に就職するんだ?」

「・・・そうですね」

 一瞬無言で返そうと思ったが、介助の看護師に何か変だと思われるおそれがあるので、ぶすっとして返答した。

「・・・引っ越し、もうすぐなの?」

「明後日です」

「そうか・・・」

 医者はさらに何かを言いかけようとしたが、看護師がさっさと私に荷物を示して部屋から出ていくよう言った。

「じゃあ、書類は受付で受け取って下さい」

 そんなこと、言われなくても分かってるわ。

 私は逃げるように診察室を飛び出した。

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