□ 四十一歳 冬① その4
いつの間にか世界は朝になっていた。テーブルからベッドに移動した覚えがないが、生活習慣とは恐ろしいもので、きちんと寝支度して何の破綻もなく眠っていた。
今日も所外は暖かい陽気で満たされている。所内がどれだけ冷えていても、世間は全く関係ないのだ。保健所職員だけが冬を実感している。
「熱が出たら、即コロナ、って抗原検査するのはやめてもらえないかな」
「インフルだけ調べてくれたら良いのに。無駄に患者を見つける必要なくない?」
「いつになったら五類になるのよ」
日曜だというのに発生届が何枚も出てくるので、うんざりした職員皆がブツブツ独り言を言う。たとえクリニックは休診だとしても、律儀な開業医の先生方は、休み返上で患者に結果を告知して、真面目に発生届を記載してくれる。とても有難いはずなのに、職員の気持ちは暗い。
「近藤さんが休日当番の日は、患者少ないんじゃなかったの?」
管理職当番の課長が余計なことを言って、保健師の苛立ちに油を注ぐ。
「・・・課長が呼ぶんじゃないですか?」
「まあまあ、もうそろそろ波がくるんだよ、覚悟しよう」
睨み合う女性二人の間に立って、なぜか派遣職員が宥めている不思議な光景を私はぼんやり見ていた。
「先生、そろそろカルテ溜まって来てるからチェックお願いします」
言われても、体がなかなか動かない。今日の当番保健師は皆、他人に厳しいメンバーだし、課長も元は保健師、やはり他職種に厳しい人だ。どんどん効率的に仕事を片付けなければ、あとでどんなトラブルに発展するか分からない。
分かっていても、気力が湧かない、どんな文字を見ていても、頭に全く入って来ない。状態の良くない在宅療養者への指示出しをするので精一杯だ。
「先生にお電話です」
突然、頭を殴られたような衝撃を感じた。急に血圧が上がったことがはっきり分かる。
机を挟んで向かい側に座る派遣職員が、休日用の電話に応答しているのには気付いていた。しかし、心の準備は全くしていなかった。まさか。
「?誰」
「厚山市?のサクラさん?なんか先生宛みたいですよ」
受話器を受け取ろうと伸ばした腕が、突然動かなくなったような、腕が実は石で出来ていたことに今気付きました、みたいな奇妙な錯覚に囚われて、私は相手をぽかんと眺めて静止した。
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