□ 四十一歳 冬① その3




 新型コロナウイルス感染症は保健所職員の生活を一変させた。特に私の。

 職員の拘束時間は限界がなく、男性職員の多くが泊まり込みを覚悟し、私は職場の近くに部屋を借りた。よほどのことがない限りは二十二時のチャイムより早く帰宅出来るが、疲れた身体で家族の世話をするのは難しかった。一人で何にもやらず考えずただ休みたかった。だから、ほぼ無駄金だと分かっていたがマンスリーマンションの一室を確保して、気付いたら週末はずっと入り浸っている。何者にも侵されない聖域。

 部屋に入って服をやっと脱ぎ捨てると、小さなダイニングテーブルにいつものようにステンレスタンブラーを置いた。あと必要なのは酒と氷と炭酸水。

 テレビもつけずにひたすら酒を飲む。いかにも女子受けしそうなグアバ酒を、ほとんどストレートでどんどんどんどん胃に流し込むが、全く酔いは訪れない。元々かなり酒に強く、滅多に酩酊しない。さらにコロナ禍に翻弄されるようになって全く酔わなくなった。飲んでも飲んでも目が冴える。酒を飲む目的は安らかに眠りたい、それだけだったが、最近は空腹を満たす為だけに飲んでいる。だったらもっと別のものを、と思わなくもないが今更変えるのも面倒だった。

 個人情報は所外には持ち出せない。当たり前だ。どこでどんな事故を起こすか分からない。しかし私にとっては関係ない。さっきまで見ていたパソコン画面が、今目の前にあるようにありありと思い出せる。

 本庁の担当者から転送されてきたメールには、全ての履歴が残されている。患者調査をした保健師が上司に、上司が市の他所依頼担当者に、市から県へ。今度は県から仲杜市へ、市から藤野区感染症担当係へ。メールには関わった多くの人間の名前が残されている。

 厚山市の担当者には二人分の名前が記載されている。佐倉・岡崎。おそらく佐倉さんが責任ある立場で実働は岡崎さんだ。仲杜市の文書も大抵そうなっている。市内での連絡には実質の担当者しか名前が無いが、他都市への依頼には課長級の名前を記載する。

 厚山市の佐倉さん。ありふれた符号だ。特に私が気にする必要などないはず。

 依頼文書には患者への疫学調査票がついている。患者は藤野区在住の会社員。厚山市へ出張に行ってすぐに発熱、新型コロナウイルス感染者と判明し、藤野区の同居家族が濃厚接触者と判明したため、家族の健康観察と検査をお願いします、という。この数ヶ月飽きる程みた調査票。患者の発生届も添付されている。診断医療機関は厚山市保健所、診断医は、佐倉さと

 急激に吐き気が起こって、私は立ち上がった。しかしすぐにまた腰を下ろす。どうせ吐くことなどない。それほどの体力はもう残っていない。

 自分でもこんなに動揺するとは思っていなかった。普段は忘れている名前だ。

 同姓同名だとは思えない。でもそれを確かめるのは怖い。医籍検索でもすれば同姓同名の医者がいるかどうかはわかるだろうが、そんなことをするほどの勇気もない。

 いつまでも考えていたって無駄だ。分かっているのに思考がまとまらず、強制終了も選べない。

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