あの日の夜は泣いた気がする
思い返せば、同世代の子供達よりもずっと早く、私は恋というものを知っていた。
劣情を伴わない少女同士の付き合いを世間では友情というのだろうが、京子に対する眩いほどの憧憬や胸の痛みは、片想いと呼ぶよりほかなかった。
「これね、フランスで買ってきたんだよ」
差し出されたノートには白い花が一輪描かれていて、彼女は誕生日プレゼントのセンスまで洗練されていたのだった。
そっと表紙を開けば、私の知らない異国の香りがする。
「ありがとう。なんだか使うのが勿体ないなぁ」
「そんなこと言わずにさ……あっそうだ、奈緒ちゃん達がやってるリレー小説、私達もこれでしてみようよ」
「えーっ、小説なんて書いたことないよ」
「大丈夫大丈夫。沙耶、いつも本読んでるでしょ」
京子は私が後ろ向きな発言をする度に、からりと笑って大丈夫と言ってくれる。
「登場人物と基本的な設定だけ一緒に決めて、あとは交互に回していくんだって。とりあえず最初は一人一ページずつにしようか」
――主人公は私達と同じ小学五年生の女の子。ある日転校生がやってきて、不思議な世界での冒険に巻き込まれていく――
それは子供の考える拙いファンタジーだったけれど、京子の整った文字で綴られた導入は、どんな文豪の小説よりも名作になる予感がした。
締切は受け取った日から三日後。放課後の分かれ道、ケーキ屋の前で受け渡す。
クラスで一目置かれている少女と、秘密の物語を紡いでいる。口数が少なく、何においても抜きん出たものを持たない私にとって、このノートは誇りのようなものだった。
この秘め事は中学に上がってからも続けられた。けれど京子とクラスが離れ、彼女が生徒会に入った頃、一週間、十日と段々小説の締切が伸びていき、やがて一緒に帰ることもなくなっていったのだった。
「京子さぁ、この前子供が産まれたらしいよ」
情報通の元同級生はそう言って、苦みの強い珈琲に少し顔を顰めた。
「そういうの聞くとちょっと焦るよね」
「――京子、結婚してたんだ」
ふと、目の前に薄暗い廊下が甦った。冬の放課後のことだ。生徒会室から出てきた京子の隣にいるのは名前しか知らない少女で、絵になる二人に、私は幼さを引きずる秘密を後ろ手に隠すしかなかった。
帰省の折、机の奥に眠っていたノートを開いてみた。壮大な物語だと思っていたのに、主人公はまだ異世界にも出発していなくて、少し笑ってしまった。
あの日の夜は泣いた気がする 咲川音 @sakikawa_oto
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