黒の端

識織しの木

『切り裂きジャックの日記』

 晴天より曇天がいい。

 曇天よりも雨天がいい。

 雨天よりも雷天がいい。

 明るいものは好きになれない。前向きなものは直視できない。

 暑さよりも寒さを好み、騒がしさには耳をふさぐ。

 嫌いなものは嫌いなまま、好きなものは好きなまま。

 正直に、誠実に。

 どこまでも我儘に。

 この世に生まれ落ちてしまったからには。

 そうやって僕は、17年間。

 ここまで息をし続けてきた。そしてこれからも、この生命が続く限り、同じ様に息をし続ける。

 霧雨が降る町中を、傘をささずにゆっくり歩く。急ぐのは好きじゃない。

 濡れた前髪に触れて、指先で水分を感じる。

 水は好きだ。僕は少し笑う。

 前を見て、靴元を見て、横を見て。

 僕が存在している景色を、一歩踏み出す毎に移ろってゆく一瞬一瞬を、噛むように眺めて。

 僕の眼は生きている。脳も。

 生きることは好きでも嫌いでもない。でも生きることの先に好きな事物が存在するなら、死に急ぐのは惜しい。

 生きている。

 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、それ以外も、全て。

 ちょっと楽しくなって、無意識に歩みが速まる。

 人気が少ない道の先に、ここらへんの建物にしては大きなものが見える。

 私立図書館。

 手押し扉を、右手で開ける。重い。

 中に入って、扉を閉める。

 外界の音はもう、聞こえない。

 切り離された1つのせかい。ここはあらゆるだれかのせかいであり、ということは僕のせかいでもある。

 薄暗い館内に、黴と古い紙の空気が充満している。

「いらっしゃい。昨日ぶりね」

 1人用のチェアに座っていた少女が、僕に声を掛けた。手に持つ本は『殺戮の世界史』。

 どうも、と挨拶を返し少女の方へ向かう。

「手、疲れない?」

 少女の向かいにあるチェアに腰掛ける。

 少女が答えないので、僕は付け足した。

「重いでしょ、その本」

 ああ、と少女は納得したように呟いた。

「軽くはないけれど…」

 机に置いて読めばいいのに、と僕が言うと彼女は目を閉じて。

「いいのよ。重いものは重いまま。その質量を全て、私は受け取りたいの。この本に記されている全ての質量を、私は出来得る限りの全てを尽くして理解したいの」

 歌うように、すらすらと。静かな声で言うのだった。

 僕と少女だけが存在する館内で、頁を捲る音が心地よく聴覚に囁く。

 眼を閉じる。少女の言葉を噛む。

 確かに。それは納得できる言い分だ。

「君の言うとおりだね。重いものは重いまま、それがいい」

「でしょう」

 柔らかく微笑んで、少女は口元を『殺戮の世界史』で隠した。

 僕は席を立って、今日知る本を求めに行く。

 読むのではなく、知る。

 館内の書物はみな、1つの例外なく薄暗い事象に関するそれ。

 この館の蔵書は全て、少女とその父母が集めたもの。

 全ての書物が禁帯出。この館から、一寸たりとも外へ持ち出してはいけない。

 従ってこの館の蔵書を読む、否、知るためには、館内で頁を捲るしかない。

 中学1年生の頃に初めてこの図書館を訪れた僕は、高校2年の今まで毎日欠かさず足を運んできた。

 運ばざるを得なかった。

 ここにある書物たちが、僕にそうさせた。

 暗黒の空気を纏う背表紙を眺めていると、自発的に、また来なくてはと感じるのだ。

 来なければ、頁を捲らなければ、知ることができない。

 なら僕には、足を向ける以外できることはない。

 いつまで経ってもここの蔵書の全てを知り尽くすことはできないのだろうけれど。僕は僕の時間を全て使って、ここで頁を捲る。

 毎日毎日、同じ背表紙を眺めているはずなのに。

 知りたいと直感する書物は毎回異なる。

 昨日は素通りした書物に、今日は視線を、気持ちを留める。

 丁度目線の高さにあったその書物を抜き出して、チェアに戻った。

 少女は尚も頁を捲っている。その顔には薄い微笑みが浮かんでいた。

 早く知りたい。

 その一心で僕は表紙を捲る。薄茶色の1頁を捲る。

 飛び込んでくる文字を、言葉を、事象を、知る。

 見て、読んで、知る。

 理解する。

 血腥い言葉を、目で、眼で、脳で。

 僕が今いるせかいとはかけ離れている、だけど親しい空間での出来事。

 過ぎた時間に思いを馳せて。

 遠い異国の町並みを脳内に描き出して。

 凄惨残酷な、その全てを。

 空気を吸うのと同じ様に、言葉を飲み込む。空気を吐いて、言葉は留める。それだけを繰り返す。

 どのくらい時間が経ったのか。館内に時計はなく、僕は時間を知る道具を持参していないのでまったくわからない。

 読み終えた書物を戻しに行こうと、席を立つ。

「何を読んでいたの?」

 少女のと問い掛けに、書物の表紙を提示して答えた。

 今何か言葉を発すると、理解した事象が失われてしまいそうで怖い。

「ふうん。おもしろかった?」

 言葉は発さずに、ただ一度だけ、深く頷く。

「よかった。それ、私が小学2年生の頃に母に買ってもらったものなの。お気に入りなのよ。タイトルには日記とあるけれど、結局本物ではないみたいね。でも、そんなことは些末なこと」

 そう言って、少女は目を閉じた。

 1888年のロンドンの町並みでも想像しているのだろうか。

 少女はしばらくして目を開けた。

 その頃には、僕は完全に理解した事象をこの身に染み込ませることができていた。

「僕もこの本、気に入ったよ。禁帯出じゃなかったら、返却期限までずっと手元に置いておく」

「…ごめんなさいね。貸出せなくて」

「否、いいんだ。別に。ここに来ればいつだってまたこの本に会える」

「そうね。そのとおり。その本はいつだってここにあって、あなたが理解しようとするなら、拒むことはないでしょうね」

 少女は微笑んだ。

 そして、僕の方に手を伸ばした。

「その本、貸してくれる?」

 意図を理解できないまま、少女の手に『切り裂きジャックの日記』を渡した。

 少女はありがとう、と静かに言って、本を裏返した。

 裏表紙に貼られた小さいシールのようなものを、少女の指先が丁寧に剥がしていく。

 やがて、禁帯出という手書きの文字が、完全に剥がされた。

 どうぞ、と本を差し出される。

「どうぞって…」

「貰ってくれる?」

「…借りるんではなくて?」

「ここの本は絶対に人に貸してはいけないと父に言われているの。だけど、あげてはいけないなんて、言われてないわ」

 事も無げに、少女は言った。

 僕がそれでも本を受け取れないでいると、少女は次の行動を取った。

 彼女は僕の右腕を掴んで、本を持たせた。

「私からあなたへ。これは貸し借りではない。贈呈よ」

 柔らかい微笑みを浮かべて、少女は僕を見た。

 ありがとう、僕はそう呟いた。

 どういたしまして、と少女は破顔する。

「あなたが喜んでくれるなら、私は何でもしたいの。お気に入りの本でも、あなたにあげたいって思うのよ」

 整った顔に、無邪気の色が浮かばせた。

 僕は嬉しかった。けれど。

「ありがとう。でも、この本は置いていくよ」

「………押し付けがましかったかしら。ごめんなさい」

 少女の声は酷く沈んでいる。

「そういうんじゃないよ。君の気持ちは嬉しい。だけどこの本は、ここにある方がいい。この本があるべきなのは、僕の家の狭い部屋じゃない。大きくて薄暗くて決して光の届かない、君の館だ。この本はもう僕のものだから、どこに置いておくかは僕の自由だよね」

 少女は、ただ黙って僕を見詰めている。

「この本は、君の元にあってほしい。もし君が駄目だと言うのなら、その時は考えよう」

 少女はふっと表情を緩めた。

「駄目だと言ったって、考えるフリしかしないでしょう。わかっているのよ。だけど、あなたの言いたいこと、何となく分かったわ。その本は、元の場所に仕舞ってきてくれる?」

 僕は頷いて『切り裂きジャックの日記』のあるべき場所へと向かう。

 この本は僕のものだ。

 少女が僕にくれたものだ。

 大切なものは、大切な場所に。

 いくらこの本が自分のものであろうと、やはり持って帰ることはできない。

 禁帯出じゃなかったら、なんて言ってしまった僕が悪かった。

 この本は、この場所にあって、この空気に包まれているからこそのこの本だ。

 この館の中で、ただ一冊だけ。

 禁帯出の札を剥がされた書物を、あるべき場所へと戻した。

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