第38話 正体不明の激情

 すっと首筋を撫でられる感触で目を覚ました。


 部屋は暗い。窓からは幽かな月明かりが射し込んで、木目の浮かぶ床を青白く照らしている。


 後ろに視線を動かすと、俺の横でニアが寝息を立てていた。膝枕された体勢のままそっとしておいてくれたらしい。


 そういえば、夕食を食べていなかったな。それを思い出した瞬間、俺の腹が小さくなった。何か少し食べておきたい。


 ニアを起こさないよう、ゆっくりとベッドから降りる。忍び足で荷物を置いてあるところまで行き、中を漁って干し肉を二つほど取り出す。


『おはよう、クロノ』


 背後から声が聞こえた。


「レジーナ?」

『ずいぶんと気持ちよさそうに寝ておったからそのままにしておったのじゃが、疲れは取れたかの?』


 手に干し肉を持ったまま後ろを向く。腕を組んで佇む彼女の目だけが、青と黒の世界で妖しく紅く輝いていた。


 彼女は俺の横に立ち、椅子に座るよう促してくる。それに従って座った。彼女は向かいに座り、じっと見つめてきた。


『ちょっとだけ真面目な話をしても良いか』


 俺が干し肉に歯を立てたとき、レジーナが口を開いた。


 頷く。彼女はいつになく引き締まった顔だった。心の奥を探るように見つめてくる彼女は、やがてほうと息を吐いた。


『なに、それほど小難しい話でもないから、そこまで硬く並んでも良いのじゃ』


 真剣な目つきをしたまま、口の端が微かにつりあがった。俺は何故だか、これから何か悪いことが起こるのではないかという不安が頭をよぎった。


 そして、それは俺の思っていたものと違う形で、当たった。


『これを見てほしいのじゃ』


 すっと差し出された手に、小さなナニカが乗っていた。石板の端が欠けたもののように見える。


 レジーナによれば、それは魔法を用いた道具。触れたものの任意の記憶を空間に投影するものだと言う。


『これで一つ我の過去の記憶にあるものを見せる。知っておるか、否か。それをこたえてくれ』


 レジーナが魔法の道具を握る。小さな白い光が拳の中から立ち上り、俺たちの目線の高さまで登った。ふわりふわりと、左右に揺れた後、ぱっとその光量を増す。


 手で目を覆った。目が灼けそうなほどの光が出るのなら、最初からそう言ってくれよ。レジーナに悪態をつこうと目を開いて、


「──えっ」


 淡く輝く一人の男と目が合った。


 ──ドクン! 心臓が激しく脈打った。


 男は腰にボロボロの布を一枚だけ巻きつけ、それ以外には何も身に着けていなかった。全身に生傷があり、その青い肌が──そう、人間とは全く違う青い肌が、血と汗と泥で汚れていた。


 雄々しく鍛え上げられた肉体を誇示するように、男は仁王立ちしていた。漆黒の目の中に濁った黄金の瞳は爛々と輝き、鋭い牙が獰猛に突き出す。こけた頬、乱雑にまとめられた黒い短髪、そして、側頭部から生える禍々しい歪みを持った角。


 ──全身が粟立った。冷や汗が噴き出し、肌と服を濡らす。視線は男から話すことができず、中腰になったまま呆然と虚空を見つめた。


 殺したい。この男を、殺したくて仕方がない。いや、殺さなくてはならない。俺はこの男を殺す義務が、使命がある。


 何故? わからない。元から備わっていた本能のように、俺は自然とそう考えた。


『……知らぬはずだが、知っておる。そんなところか?』


 レジーナの声がどこか遠くで響いた。


 彼女が手を開くと、男の姿はふっと掻き消えた。全身の強張りがすっと解けて、俺はゆっくりと椅子に座りなおす。


『この男について詳しくは話さん。かつて地上で暴虐の限りを尽くした、とだけ教えておこう』


 レジーナが立ち上がり、俺の横に立つ。耳元で『ベッドを見てみろ』と囁かれ、俺は首を回した。

 彼女だった化け物がいた。


「──~~ッ!?」


 声が出ない。何が起きたのかもわからなかった。


 目を覚ました時に見た彼女は、それはもう美しかったはずなのに。何故今はこうも醜く見えるのか。


『やはり、そうなるか』


 レジーナに俺の首を叩かれ、意識が飛んだ。


     🐉


 クロノが気絶し、テーブルに頭を打って沈黙する。妖しい月光に浮かぶ室内で、レジーナは眉間に皺をよせ、彼を見下ろした。


『……やはり、目覚めさせてはならぬようじゃの』


 ぽつりと呟くと、彼女はクロノの頭に手をかざし、魔法を発動した。


 宙に浮かぶ複雑な魔法陣が、クロノの頭を包む。それは十秒ほど光り輝き、やがてパンと音を立てて弾けた。


 レジーナは気絶した彼を横抱きに、ベッドまで運ぶ。穏やかな笑みを浮かべて眠るニアの横に降ろすと、すぐさま彼らに背を向け、部屋を出た。


     🐉


 次の日、目覚めは最悪だった。頭がガンガンと痛み、全身がジトっと湿っている。差し込む朝日はこんなにも清々しいのに、それが逆に鬱陶しかった。


「クロノ、大丈夫?」


 ニアが顔を近づけて、俺の額に手を当ててきた。昨晩も見た可愛い彼女の顔。それが今日は、いつも以上に愛おしく感じた。


 衝動のまま、ニアに抱きつく。訳も分からないまま彼女の体に顔をうずめ、涙を流した。


「ク、クロノ!?」


 動揺したニアの声。俺は答えず、ただ彼女に甘え続けた。


 最初は戸惑っていた彼女は、しばらくすると俺の頭を優しくなでてくれた。そうやって過ごしているうちに、訳の分からない衝動も引いていった。


「ありがとう、もう大丈夫」


 涙を袖で拭いながら、ニアと向き合う。彼女は心配そうに俺の目を覗き込んできたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。


「良かった。クロノが落ち着いてくれて」


 どちらからともなく抱きしめ合う。そうして、ベッドの上に横たわってキスをした。


     🐉


「まったく、朝からやりすぎですよ」

「そんなことないでしょ」


 俺たちが我に返ると、顔を真っ赤にしたアスカにこっぴどく叱られた。朝から不純なことをするな、という言い分なのだが、まあ納得できようはずもない。


 別に俺たちはそういうことをしようって思ってたわけじゃないんだ。ただ急に寂しくなって、俺が甘えたら応えてくれた。それだけだ。


 だが、アスカはその言い分で納得してくれることもなかった。次から気を付けてください、と半眼で睨みつけてくると、咳ばらいを一つ。


「それで、今日の予定って決まってましたか?」

「んー、いや、決まってないと思うけど」

「じゃあ、昨晩レジーナさんが言っていた迷宮に行ってみたいんですけど、良いですか?」


 アスカが目を輝かせて、俺の返事を待っている。俺はその話を聞いた覚えがなくて、きょとんとしてしまった。


「寝ている間に離してたの。この町に迷宮が一つあるって」


 ニアが耳打ちしてきた。なるほど、それなら知っているわけもないか。


 だが、迷宮は(別のところとはいえ)俺が命の危険に見舞われた場所だ。ちょっと怖いから行きたくない、というのが本音なのだが……。


「出てくるモンスターを狩れば肉がいっぱい」

「よし行こう」


 即答した。このエルフの町で、食肉が手に入るのは非常にありがたい。


 アスカは満面の笑みで「やったあ!」と飛び上がり、スキップしながら準備を始めた。俺はテーブルに置かれたサラダに手を伸ばしながら、どんな迷宮なのだろうかと考える。


 のんびりとした朝の一幕だった。

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