第17話 いきなりヤバいものと出会ってしまった

 ひたり、ひたり、音は小さい。だが、かなりの質量をもった足音。木々が擦れる音に紛れて、静かに迫ってくる。


 俺はレジーナの傍に寄って、腰の剣を抜く。ゴオウッ、と剣身が業火を纏い、柄を握る腕が灼けそうなほどの熱を周囲に撒き散らし始めた。


『おそらく我一人で対応できるが、気は抜く出ないぞ』

「うん」


 音が聞こえる方向を睨みつける。全身が強張って、漠然とした恐怖が俺の思考を侵食し始めた。


 畑と森の間にはわずかながら砂利道がある。レジーナはじりじりとそのなかほどまで前に出て、拳を構え腰を落とした。


 しいん──と一切の音が消えた。葉擦れの音も、見えない敵の足音も、一瞬で聞こえなくなる。静止したまま数秒が過ぎ、風が吹いた。


『来るぞ、ッ』


 そう呟くや否や、レジーナが飛び出した。ドゴンッ、と地面が抉れ、後方に土埃をまき散らしながら一筋の光となって森に迫る。そして、拳をふるい、見えない何かを殴りつけた。


「ぐうっ!?」


 強烈な衝撃。体勢が崩れ、よろけて数歩後ろに下がった。レジーナは特に傷を負った様子もなく、一度こちらに下がってきたが、表情は芳しくない。……まだ倒せていないようだ。


『クロノ、お前はそこで待っていろ』


 かつてないほど真面目な顔で忠告され、俺は思わず「どういうことだよ」と返した。だがそれを言った時にはそこに彼女はおらず、再び足音の主と戦い始めた。


 いや、わかってはいる。ギルドで男にとどめを刺した時ほどではないとはいえ、今のレジーナは結構本気で戦っている。それで倒せないのだから、俺が叶う相手とは思えない。


 でも、どうしてもっと力を出さないんだろうか。これ以上やると周囲が大惨事になるから? そんなことではないだろう。何か、理由があるんだろうな。


 殴り、蹴り、尻尾を叩きつけ、少しずつ森の奥へと追い返している。レジーナも、敵も一つとして声を上げず、響くのは木の枝が折れる音と痛々しい打撲音だけだった。


 ──不意に、レジーナが飛び上がった。と思えば轟音が耳を劈き、直前までたっていた辺りに小さなクレーターができる。その場所をしかと目でとらえた彼女の手には、いつの間にか氷の槍が握られていた。


 大きく振りかぶって、槍が投げられる。斜め下、クレーターの中心に向かって、鋭い槍が空を切り突き進む。地面に到達するまでの時間はコンマ一秒にも満たなかった。ドシュッ、と鈍い音が響き──ビシイイィィッ! とクレーターの周囲一帯すべてが凍り付いた。


『おそらくこれで一時しのぎにはなるじゃろう……しかし、今後しばらくは監視せねばならぬ』

「死んではいないのか?」

『うむ。ちと私情でな、あれを殺すのは気が引けるのじゃ』


 複雑な表情で顎に手を当て、何やら考え込むレジーナ。そうこうしているうちに依頼人の狼獣人がこちらに走ってやってきた。


「な、何があった!? ものすごい音が聞こえたのだが──何だこれは!」


 切羽詰まった様子の彼は、森にできた氷漬けの世界に気づいて恐怖に顔を歪ませる。そして、俺の肩をつかんで揺さぶってきた。


「どういうことなんだ!? 俺には理解できないぞ、あんな異常なものは見たこともない……どんな化け物が出た? 倒せたのか!?」

『いや、倒せてはいない……追い払いはしたが、しばらくしないうちにまた降りてくるじゃろう』

「な、何だって……」


 彼の全身から力が抜け、膝をついてうずくまる。ちょっと不安になって手を差し出すと、彼はその手を取ってふらふらと立ち上がったが、その眼は明確に弱っていた。


「このままじゃ……畑が……」

『少なくとも数日は、我らで監視する必要があるじゃろうな。それでも構わぬか?』

「あ、ああ……依頼料は引き上げるから、是非とも頼むよ。警備隊にも報告しておくが──」

『それは駄目じゃ。絶対にするな』

「えっ、でも」

『警備隊は呼ぶな』

「は、はあ……」


 有無を言わさぬレジーナの気迫に圧倒され、彼は不承不承ながらうなずく。結局この後は空が赤らんでくるまでその場にとどまり監視し続けたが、氷が溶けても何かが襲い掛かってくる様子はなかった。


     🐉


 それから数日、俺たちはあの畑の見張りを続けたが、あれ以降同じ目に遭うことはなかった。レジーナの言葉を信じるならまだあの敵は生きているわけだが、どうにも信じられない。


 というか、ずっと畑の周囲をグルグル見て回るだけなのでちょっと飽きてきた。仕事だから文句も言えないが、せめて少しは観光がしたい。


 ──そんなことを考えている時に、あの敵は再びやってきた。


『クロノ、来たぞ』


 それまで後ろを歩いていたレジーナの目が細められ、森の方をきっと睨みつける。前にクレーターができたところだ。


 俺は剣を抜き、レジーナは片手の平を前につき出して仁王立ち。手とは反対の足を少し後ろに引き、魔法を組み始めた。


『Gefangenschaft Dämonengattung Unbestimmte Dauer Gehirnwäsche  Untergeordnet Magische Freigabe Unsichtbar Körperliche Stärkung』


 レジーナの手のひらの表面に、小さな魔法陣が浮かぶ。幾何模様が回転し、加速して、白い円形の光になった瞬間──その中心から、一筋の光線が飛び出した。


 それはクレーターの手前を穿ち、数秒間光を放ち続ける。レジーナが開いた手をぐっと握ると、光は止んで、バシイッ、と鞭で叩いたような音が響いた。


『これで問題なしじゃ』

「こ、これは……?」


 満足げなレジーナに、おずおずと問いかける。俺はそこに横たわるものを見たことがなかった。


 外見の特徴のほとんどは、ただのウリ坊だ。背中に三本こげ茶色の線が入った黄土色の体、潰れた鼻、短く細い尻尾。一度図鑑で見たことがあるものと同じ。


 だが、二点だけ。たった二か所だけ、異常な点があった。


 額の左右に一本ずつ、鋭い角が生えている。黒く光る角は綺麗に反り返って、その存在をことさらに主張していた。


 そして、その角に挟まれるように、花の文様が刻まれている。先端が切れた五つの花びらが、淡く輝いている。


 俺には額の文様はわからなかったが、角は見覚えがあった。物語で度々登場する、かつて実在したとされる存在。その角はまるで──


『鬼じゃ』

「お、鬼……」


 そう、鬼だ。それは知っている。だが、鬼は人の形をしていたはずではなかったか。


『そうじゃな。正確に言えば、これは鬼ではない。今は詳しい説明を省くがな』


 しゃがんで倒れた鬼のウリ坊を覗き込み、ぶつぶつ呟く。俺はその背中を茫然と見つめていた。


 ……拝啓、父さん、母さん。俺はいきなり鬼とかいう滅亡したはずの種族と出会ってしまいました。さっそく実家が恋しいです。


 そんな心の悲鳴は、宿に戻ったら手紙に書き殴ろう。ピクピク痙攣するウリ坊を見ながら、俺はそう決心した。

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