君を待つ時間、チョコレートの甘い香り

雨弓いな

君を待つ時間、チョコレートの甘い香り

 駅を出ると、バスターミナルが目の前に広がっている。心地よい春の日和で、出かけるにはもってこいの土曜日だが、卓也の自宅の最寄り駅は、今日も人はまばらだ。駅の出口付近に立って卓也を待っていると、少しだけ夏の空気をはらんだ風が駆け抜けていく。まるで卓也を待つ私を慰めるかのように、ロングスカートの裾が柔らかく揺らされる。今日も、卓也は待ち合わせ時間には表れなかった。

「もしもし、私だけど、今どこら辺?」

 十二コールほどたっぷり待たされた後、電話に出た卓也を責めることのないよう口調に気を付けながら問いかける。寝起きのけだるげな声で、「今、起きたところ」とだけ告げられた。

「今から準備する」

 それだけ告げられ、電話は切られた。そのぶっきらぼうな態度に少しだけ胸が痛む。卓也といると、小さく傷つけられることが多くある。しかし、それ以上に大きな幸せを与えてくれるから、彼からは離れられない。

「今起きたとなると、二時間くらいはかかるな……」

 私は、バスターミナルの向こうのファミレスで卓也を待つことにした。

 信号機のない小さな横断歩道を渡り、二階への階段を上る。通いなれた道程だ。私は卓也と付き合いだしてから、幾度となくこのファミレスで、時には半日も、卓也を待った。卓也と付き合いだしてから半年たつが、彼は一度として待ち合わせの時間を守ったことはない。そして、それに対して彼が悪いと思ったことは、一度もない。時間を守れない癖は、私に対してに限った話ではないようで、実際、遅刻癖により彼はバイト先を何度もクビになっている。そんな怠惰な彼でも、決してまともであるとは言えない彼でも、優しい一面を隠し持っていることを私は知っている。例え私だけしか知らなくても、いい面もあるのだ。

 ドアを開けて店内に入ると、「いらっしゃいませー」と明るい声が私を迎えてくれる。私は、こちらに向かってくる彼の姿を確認できるよう、窓際の席に腰を下ろした。

「ご注文はお決まりでしょうかあ」

「ホットコーヒーと、ガトーショコラをお願いします」

 私は手早く注文を済ませ、彼からの連絡がいつ来ても良いようにスマートフォンをテーブルに置く。彼を、ガトーショコラを待つ間、私は窓の外を眺めていた。道行く男女が、幸せそうに手をつないだり、じゃれあったりしながら歩いていく。私も、これまでの人生において幸福を感じることは少なかったが、卓也と出会ってからというものの、幸せだと感じることが多くなった。その幸福感は、まるで中毒のように私の心を侵食していき、どんなにひどい扱いを受けても、私は卓也から離れられないからだとなってしまった。

「お待たせいたしましたあ。コーヒーとガトーショコラですう」

 いつものように、少しだけ語尾を伸ばした話し方をする店員が、私の前にガトーショコラを置いていく。およそ値段に見合うとはいいがたい小さな小さなガトーショコラだ。フォークを手に取り、一切れ口に運ぶ。途端に、甘いけど少しビターなチョコレートの香りが全身を駆け抜けていく。

「幸せ……」

 不思議な感覚であった。私は、卓也以外のことで幸せを感じることがなくなってしまっていたのだ。それが今、チョコレートの香りに、小さな幸せを感じている。

 ふと、周囲を見渡してみる。家族連れで訪れている人、仲良さそうにコーヒーをすする老夫婦、勉強にいそしむ学生。そのいずれもが、小さな幸せを宿してこの場に居合わせている。そして、私の中にも小さな幸せが芽生えている。それは卓也によってではなく、手元にあるガトーショコラによりもたらされたものだ。私は、卓也以外のことで幸せを感じることができたのか。そう考えると、二時間も待たされることの意味を考え始める。幸せは、二時間待たなくても、ものの五分ほどで手元に届くこともある。小さな幸せは、案外そこら中に転がっているものだ。そういった小さな幸せの積み重ねこそが、もっと大事なことなのではないか。そう考えると、私が卓也に縋りついている意味は何なのだろう。

 私は、ガトーショコラを食べ終えると、大きな決意を胸に席を立った。


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君を待つ時間、チョコレートの甘い香り 雨弓いな @ina1230

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