4話 夢現(ゆめうつつ)

 シドが置きっ放しにして行った魚の入っていない魚籠びくをミヤに返したあと、二人はヒデ宿イエへと向かっていた。少し先を歩くリヤは立ち止まって振り返った。初めて見る表情をしている。

ヒデは僕たちに連れて来られたこと、どう思ってる?」

 この村で目が覚めてからたった数時間のことで、まだ十分に状況が呑み込めていないヒデは答えに窮した。

「突然人生が変わって、どう思う?」

「僕はまだ実感がなくて、夢を見てるんじゃないかと思ってる。君に出会ったことも、この景色も、全部夢なのかもしれない」

「夢でもいいんだよ。僕はここが好きだから、ヒデにも好きになってほしい。僕はここの景色も、人も、生活も、全部大好きなんだ」

 リヤはくるりと再び背を向け、静かに空を見上げた。真っ青な空はどこまでも続いている。

「もしこの世界が夢だったなら、ヒデにとって楽しい夢になるといいね」


 ヒデ宿イエに着くとアレンと呼ばれていた男性が二人を出迎えてくれた。アレンの「おかえりなさい」という優しい声に、初めて会ってからまだ少ししか経ってないにもかかわらず、何故か安心感を覚えた。

 任務があるからと帰路に着こうとしたリヤは「また今度!」と相変わらずの曇りない笑顔で手を振った。ヒデもリヤの姿が見えなくなるまで手を振り返した。


 アレンに促され、玄関を入ってすぐ、囲炉裏のある居間にヒデは座った。

「先にこれを返しておきますね」

 そう言ってアレンが持って来たのはヒデが弓道で使っていた弓だった。

「これ、僕の……。そうだ!カバンとか、僕の荷物は?」

 大会があったあの日、ヒデは弓道の道具一式と、学校指定のカバンを持っていた。しかし、手元にあるのは今返された弓だけだった。

「もう、要りませんよ」

 今までの優しい顔からは想像できない真剣な顔に返す言葉を失う。

ヒデ君が生きていた世界には、もう戻らないんですから」

「僕の、生きてた世界?」

 催眠術にでもかかったかのように世界がぐるぐると回り、頭がぼんやりとした。僕には必要ない。今までのモノ、全て。どうしてずっと大事に持っていたんだろう?そんな考えがふと浮かんで、消えた。

「そうだ、ヒデ君のここでの名前を決めないといけませんね」

 突然アレンは思い出したかのように話題をかえ、それきりもう持ち物の話はしなかった。

ヒデ君は名前、というものについて考えたことがありますか?」

 アレンは真剣な表情のまま哲学じみた話を始めた。

「名前には時に自分自身を型にはめ、縛り付けてしまう力があります。名は体を表すとはよく言ったものです。しかし、私たちには名前を棄て、自由になる権利があります。そう、過去に囚われない自由が」

 熱っぽく語られる「自由」という言葉からは不思議な魅力が感じられた。

「私は名前と同時に過去を棄ててしまいました。しかし、過去とともに歩むのももちろん自由です。ヒデ君、あなたは今、ここで決めなければなりません。過去を棄てるか、過去と生きるか」

「僕は……」

 言葉を続けられず、ヒデはしばらく黙り込んでしまった。突然消えてしまった父親も、自分を殴ることしかしなった母親も、夢ならばどれほどよかったことか。こんな悪夢が早く終わればと何度考えたことか。しかしそんな願いはかなうはずもなく、現実はヒデの人生をただ薄暗く照らしていた。

「つらかったことも、悲しかったことも、忘れたいことも、全部僕のものです」

 悪夢なら、悪夢のまま、醒めないことを願った。

「僕は、僕です」


 アレンはヒデの置かれている環境について詳しく説明してくれた。

 ヒデが連れて来られた堅洲カタス村。そこは葦原中ツ帝国アシハラノナカツテイコク既死軍キシグンの拠点であり、既死軍キシグンに所属する者のほとんどが生活する村だという。

 葦原中ツ帝国アシハラノナカツテイコクは世界で唯一のスメラギが統治する国であり、また世界有数の武力を誇る軍隊を保有している国でもある。帝国軍は一般市民の治安を守る「治安維持部隊チアンイジブタイ」と、帝国を国外の脅威から護る「対国外衛部隊タイコクガイエイブタイ」の二つに大きくわけられる。

 ヒデが初めて耳にした「既死軍キシグン」は表に出ることも、一般の人々が知ることも決してない私設の軍だと聞かされた。

 ただ田舎に連れて来られただけではなく、私設とはいえ軍が絡んでいた事実にヒデはひどく驚いた。なぜ自分などが選ばれたのか思い当たる記憶は一切なかった。

 既死軍キシグンは創設者である「頭主トウシュさま」の意志のもと、与えられた任務を遂行することを目的としている。任務は護衛から邪魔者の始末まで多岐にわたる。

 任務を遂行する少年たちは「イザナ」と呼ばれ、「宿家親オヤ」と呼ばれる大人とともに生活をする事になっている。ヒデはイザナに当たり、アレンが宿家親オヤとなる。

「し、始末って、その、まさか殺しちゃうんですか?」

「そうですね」

 背筋に冷たいものが走った。そんなにあっさりと、涼しい顔で肯定してほしくない。

「ヒデ君が生きてきたこの十五年間。それよりもっと前から、私たちはそうやって生きてきたんです」

「まさか、アレンさんも……?」

 優しい笑顔を何度も見せてくれたこの人も、人を殺してきたのだろうか。

「この村に住む人は全員、もう元の世界には戻れないんです」

 全身から血の気が引いた。あの笑顔を絶やさなかったリヤも、目の前で微笑むアレンも


 ――ミンナ、ヒトゴロシ


「う、そ……」

「さっきだって、リヤくんは」

 あぁ、今から人を殺しに行くのか、とヒデは虚空を見つめた。血にまみれた人生を負っても尚、笑い続けられる理由は。強さや弱さ、恐怖や哀れみなどという言葉は彼らの境遇を表すのにはいささか陳腐に思えた。泣けばいいのか、叫べばいいのか、自分の感情がわからなかった。

 しばらく沈黙が続く。そんな時、玄関からアレンを呼ぶ声がした。声の主は初めて見る少年だった。


 ――彼も、また


 ヒデは呆然と、方言交じりでアレンと話す少年を見遣った。どうやらここには帝国各地から子供が集められているようだとのらりくらりと状況を把握する。少しすると、アレンがヒデを呼んだ。

「紹介しておきますね。彼はチャコ君、宿家親オヤはダツマです」

 ヒデは軽く会釈する。また不思議な名前だ。

「お前がヒデか。なんや、泣きそうな顔しよって」

 まじまじとヒデの顔を見て、チャコはゲラゲラと笑った。

「来たくて来た訳ちゃうんやろ?オトンとオカンが恋しいんか?」

「ち、違うっ!」

「したら泣くなや」

 チャコはさっきまで大口を開けて笑っていたとは思えない真剣な顔をした。

「男やろ。受け止めぇ。ここに来たからにはもう帰られへんねん。これがうつつや」

 そう言うと、またにっと歯を見せて笑った。

「なーんてな。でもな、お前だけちゃうねん。みんな、来てもたんや。この光の当たらん世界に」

 ――そうか。みんな一緒なのか

 また冷やかされるのが恥ずかしくて、ヒデは泣きそうなのを必死にこらえた。

 ――辛いのは僕だけじゃない

「せや、お前シドにうたか?」

「あ、はい」

「どうせ、怖い顔で『お前なんか嫌いだ』とか言われたんやろ?」

 チャコは不自然なほどのしかめっ面をつくって笑った。

「な、何で知って」

「アイツみんなに言ってんねん。俺も初対面で言われたわ!気にすんな。アイツに好かれるヤツなんかおらんから!」

 チャコはまた笑った。そう言ってもらえると少し楽になった。アレンの説明でも分かっていた。シドはいつも独り。宿家親オヤであるミヤと、ある一人のイザナを除いて、誰も好んでは近付かない。

「わかってるやろけど、シドには近付かん方がえぇ。アイツは何考えてるか分からんからな」

「あの、リヤもそう言ったけど、どうして?」

「お前は来たばっかりやからな。その内わかるわ。一緒に任務行った後、お前がどっちに転ぶか楽しみやな」

「近付くと、どうなるんですか?」

「死んでまうなぁ」

 チャコの返答に愕然とする。

「シドに近付きすぎたら自分で自分の首絞める事なんで。ヤンはもうアカンな。アイツは近付きすぎたからなって、お前ヤン知ってんのか?」

「知らないです」

「せやなぁ、今の既死軍キシグンの大将はシド。これはわかるやろ?」

 ヒデは頷く。まだ一度しか会っていないが、彼の空気は明らかに人と違っていた。

「んで、次期大将がヤンって所やな」

「ヤンって人もシドみたいな?」

「いや、アイツは今の所ちゃう。けど、いつかはシドみたいになるかもしれん」

“魅了”や“洗脳”いう言葉が頭をよぎった。シドにはそんな不思議な力がある気がした。

「ってこの話ナシ!俺死にたないし!俺は、まだ生きなアカンのや……」

 チャコは、何かを思い出す様に目を細めた。

「ちょっと話しすぎたな。アレンに用があっただけやったのに」

 いつの間にかチャコとヒデは二人きりになっていた。ここに来なければ会う事も、喋る事もなかった人たちとの出会い。これは数奇な運命に感謝するべきなのか。

「まぁこれからよろしくな、ヒデ。死なん程度に頑張りや」

 そう言って再び笑い、チャコは帰って行った。見送りついでに外に出たが、さっき帰ったばかりのチャコの姿は、もう見えなかった。

 ヒデは闇に包まれた空間を見つめた。空は輝く星で埋め尽くされている。

「満天の星ってこう言う事なんだ」

 初めて見た夜空を、ヒデはしばらく見上げていた。

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