いまだ、蛹(不確定の夢)

「班長さん」


 駆け寄りながらそう呼ぶ『隊長』の顔は、4人がいなくなってから初めて見せるような輝きを見せていて、俺は、部下に向かって敬称を付けたことに注意することも忘れてしまっていた。

 嬉しそうな、と表現するには、しかし、些か当惑の方が強く出ている。

 彼が握りしめている一枚の紙が、どうやら原因のようだ。

 あまりに予想がつかなくて、俺は彼が何か続ける前にその紙を抜き取ってしまった。

 そこには ────


「ど、う……… どうして」


 やっと聞こえる程度の微かな音で『隊長』が呟くのだが、まったく自分も同じ気持であった。



 『北の軍神』と呼ばれる男がいる。

 今回、その男がいる軍が参加する任務に我ら『ナックブンター』も同行していたのだが、……… 取り立てて彼と何かあったという記憶も報告もない。

 ましてや、今、俺の手にある入隊届を受け取るような、一大事など。

 いや、入隊届がここにあるということは、すでに正規軍を抜けているということではないのか。


「本人はどうした、これを受け取ったのは本人からじゃないのか」

「そうなんだが、俺に渡すとすぐに立ち去ってしまったんだ。なにか、別の用があるみたいだったし、まさか入隊届とは思わなくて」


 そりゃそうだ。

 むき出しで渡されたわけではなかろう。『隊長』のもう片方の手には茶封筒が握られている。渡されたのが俺だったとしても、先を急いでいる相手に対して引き留めてまで中身を確認することはしないだろう。


「これを俺に渡したってことは、もう、自軍の方は辞めてるってことだよな……

 辞めることができるのか……」


 『隊長』も同じことを考えていたようだ。

 俺は届を彼に返しながら、首の後ろを掻いた。


「…… あるいは、まだごたついているのかもしれんな。それで忙しいのかもしれない」

「こんなことを言うのはあれだが」


 俺に話しながら自分の頭の中も整理できてきたのか、ようやく『隊長』は落ち着きを取り戻してきたようだ。届を受け取りつつそう切り出した彼の声はいつもの外見とギャップのある低さで響いた。


「この届は受理すべきでは無いと思う。

 正規軍と傭兵ではあらゆる面で天と地の差だ。氏には家族がある、正規軍を辞めるべきじゃない。

 まだごたついているなら、なおさらだ」


 俺はじっと彼を見下ろした。俺にこれを持ってきたということは、その言葉を俺から聞きたかったんじゃないのだろうか。結局、この子は自分で答えを出してしまった。

 俺に駆け寄ってきたときの、複雑な笑みに似た表情を思い出す。


「お前がそう思うならそうしたらいい。お前の意向に沿うぞ」


 この隊は俺のものではない。この小さな彼のものだ。それは責任の話しでは無く、賛同の話しであって、彼が作ろうとしているものに対しての信頼の話しでもあった。

 けれど、この『隊長』はまだまだ駆け出しだ。全幅の信頼を置いてしまった俺の言葉に、わずかに不安げな色を浮かべた。


「…… だが、あの男がまさか勢いでこれを出してきたなんてことも無いはずだ。

 それはもう少し持っておけ。まかり間違って正規軍を辞めることができた場合に、属するところが無いと困ってしまうだろうから」


 そう言ってモラトリアムを作ってやると、彼はホッと安堵したように表情を和らげた。「ありがとう。そうしてみる」

 素直に頷く小さな頭を見下ろして、俺は正直なところ心中苦笑いをしていた。おそらくは元来、人の上に立つような人間では無いのだ、この子は。ずっと四人の後ろをついてきていた。誰かの影に隠れて、誰かの庇護のもとにあり、そうしてその誰かの支えとなるような立ち位置だった。、彼一人が残されたのだ。



 その後、結局『北の軍神』は本隊を抜け、『ナックブンター』へとやってきた。

 彼は強く『隊長』を気にしているようだった。それはもう保護者のような立ち位置で、もしかして『隊長』の年齢を間違えているのではないかと思うほどだった。

 確かにまだ若いとは言え、実は俺と10も離れていない年齢だ。ギリギリ同年代と言ってもいいだろう。体格や顔つきで判断すれば、軍神の彼が初対面で誤解した年齢には見える。だが、彼にはちゃんと『隊長』の年齢を告げている。

 その上でまだ子どものような扱いをするのだ。

 気になっていたが、すでに『隊長』は小さな彼に渡していた。俺が細かく口を出すことではないし、そういう姿を周りに見せてしまうのも良くなかった。

 『隊長』に任せようと思っていたのだ。


「…… 大丈夫か」


 思っていたのだが…… どうも『隊長』の方が怖気づいてしまっているように見えた。そりゃ確かに片やここまでの人生を人の後ろに付いてくるだけだった人間と、若くして『軍神』の称号を賜っている人間である。軍神の彼に真剣に迫られてしまっては、『隊長』はひとたまりもなかっただろう。

 いつになく眉間に皺を寄せている小さな彼は、俺の顔を見上げて頭を振った。


「幾度か大丈夫だと言っているんだがな、どうしても気になってしまっているようだ」

「命令をしろ、氏に。今はお前が『隊長上官』だ。

 それを分からせないとならないんじゃないか」

「あれは厚意だ。命令でどうにかするものじゃないと思っている」


 困り果てているようでも『隊長』はしっかりと主張をしてきた。四人の後ろに隠(さ)れていた頃からここまで、随分と時間は掛かったが、無事、彼は自分の思いや考えを言語化することができたのだった。

 それを嬉しく思う反面、どうしたものかと思ったのだ。

 軍神を、この彼がどうにかできるものだろうか。


 あまり表立って『隊長』を庇うことはしたくなかったが、これ以上、軍神の彼が『隊長』を子ども扱いする光景を広めたくはない。

 致し方ないと思うことにした。


 ***



「お前は、あの子が築いてきたものを潰すつもりか」


 軍神の彼の部屋を訪ねたときだ。

 快く俺を迎え入れコーヒーを差し出していた彼は、切りつけるように話を切り出してしまった俺を、驚いたように見つめた。

 それは純粋に質問であった。だが、尋ねるには前提とするものが強すぎたのだ。

 彼は神妙な表情で、俺の真向かいに座った。手の中には、良い香りのするコーヒーがある。


「すまない、そんなつもりはなかった」

「万が一にもそうだろうとは思っているが、実際、お前がやっていることはそういうことだ。

 周りが彼を『隊長』と見なくなる。そうでなくたって、初対面ではまさか『隊長』だとは思わないだろう。

 まさに、お前だ」


 俺の言葉に、ハッと彼は顔を上げた。そこには如実に「そんなことはない」という言葉が浮かんでいる。

 だが、俺は首を振った。


「俺は彼に『隊長』としての一通りのことは教えて、彼に『隊長』を任せている。

 彼もそれを分かっていて、一人で出来ることは一人で動いているんだ。

 隊長に言われなかったか、大丈夫だと」


 心当たりがあるだろう、きっと。彼は思い出したように額に手を当てた。

 立ち位置としては、今自分は彼に忠告と警告をしているわけだが、決してこの男を嫌っているわけではない。むしろ、ここまで他意なく『庇護者』としてあの子に接していた人間だ、この界隈に在って珍しく真っさらで人が好い。

 『隊長』の彼も、この男の厚意をきちんと理解していた。

 自分は、確かに今、


 思い詰めてしまいそうな空気の彼だった。まあ、ここまでしっかりと考えてくれたなら大丈夫だろう。

 やがて彼は、おもむろに顔を上げ俺を見た。


「そうだな。どうにも手を出してしまいたくなって、彼の気持ちを無視してしまっていた。

 隊長を信じよう」


 判断と決断が早い。頷く氏の目には、決意の色が灯っていた。それを見て、俺は安心したのだ。もしかしたら、この後しばらくは『隊長』と彼の間でギクシャクとしてしまうかもしれないが、それは必要期間だ。

 俺はまだ温かなコーヒーを頂きながら、彼に軽く笑いかけた。


「ありがとうございます。

 彼もあなたのことを本当は頼りにしていますよ」


 敬語を使ったことにか、俺の言葉自体にか、はたまたその両方か、彼は困ったように眉を下げた。


「そうだと嬉しいが……

 敬語はやめてくれ、年齢だってほとんどあなたと同じだ」


 苦笑気味に返す彼を見て、ああ、と俺は気づいた。年齢…… 彼は自分の元の職位を気にしているのだろうか。

 俺は片手を振りながら返した。


「いずれ立場がそうなりますって。

 俺自身としては、そうなって欲しいんすわ」

、とは……?」


 はて、と彼は頭を傾けた。

 彼に寄せた一つの期待だ。俺は彼に笑いかけた。


「彼の一番近い場所にいる立場、ですかね」

「それは…… あなたではなくてですか」


 じっと、彼は真剣な顔で俺を見た。そう言いたくなる気持ちも分かる。順当に考えたら、俺が一番あの小さな存在に近いだろう。

 だが、俺は首を振った。


「俺とあの子は、なんすわ」


 笑って返してみると、彼は口を引いて理解不能であると分かる顔をする。

 同じ方向を向いているが、立ち位置は隣とは限らない。そう言いたかったのだが、別に伝わらなくてもいい話しだなと思っていた。




 後日、隊長室へと向かう途中、後ろから「班長」と呼び止める声が聞こえた。

 振り返ると、『隊長』がこちらへ歩いてくるところだった。その顔は安心とも困惑とも、最近同じ顔を見たなと思う顔をしている。


「あの人に何か言ってくれたのか」

「ああ……」


 先日のやり取りを思い出し、俺は「そうっすね」と頷いた。

 『隊長』は「うわあ」なのか「はああ」なのかつかない嘆息で顔を覆ってしまった。


「すいません……」

「仕方ないだろう」


 か細い声で呟くので、思わず肩を叩いてしまう。『隊長』が項垂れてしまったのはほんの数秒で、すぐに彼はキッと顔を上げた。


「手間を掛けさせた、ありがとう。もう大丈夫だ。

 あの人も…… ちょっと挙動がおかしいが、前ほど手を出してこなくなった」

「やっぱ挙動はおかしいんすね」


 だろうなとは思ったが。手を出しかけて引っ込める動作を繰り返しそうなところはある。

 『隊長』は、何か言いたげに俺を見上げていた。うん? と頭を傾けると、それを契機に、彼は切り出した。


「班長が話をつけてくれはしたが、もう一度、俺からちゃんと話をしてみるよ」

「…… そうですね。それがいいと思いますよ」


 そうやってあの人との距離を詰めてもらえたら良いと思うのだ。

 まずは隊長と部下の距離から。そうしてどんな形でも構わないから、この子の底知れない深さを持った心の淵に、佇んでくれたらと。




 軍神の彼の部屋を立ち去る間際、最後に問いかけられた。


「あなたが、長く彼の傍にいるのはなぜだ」


 自分が隊長に就くわけでもなく、ましてやそのスキルを渡し、自分は部下に収まる理由。

 そうだなあと俺は顎を撫でながら思い浮かべるのは、紫煙上る青空だった。

 返す言葉はあったのだが、これもまた、この彼には不可解な顔をさせてしまうかもしれない。そう思いながら、それでもまあいいかと俺は続けた。


「夢を見てるんでしょうな、あの子の」


 ***



 『ナックブンター』の前隊長は─── のリーダーは、人間だった。あれが辺境の集落の出だとは、本人から聞かされなければ信じられなかっただろう。

 思えば、ほかの三人もリーダーに及ばずともそこらの学無しとは比べ物にならない教養を持っていた。集落に学校があったのかと尋ねたことがあったが、「学校はないけれど、『有識者』がいた」と彼らは言った。

 『有識者』がどのようなものかは分からないが、おそらくは学のある人を指していたのだろう。


 その中で、この『隊長』だけは、なぜかあまりに物を知らなかった。喋る分には問題は無いが、文字書きさえも、結局はいまだ覚束ないところがある。

 その彼へ、四人は自分たちが持ち得ている知見を教えるでもなく、ただ庇い、与えていたのだ。その様子が、どこかあの小さな存在を、周囲からように見えていた。

 最初に俺が見たとき、四人だけのグループかと思ったほど、それは完璧だった。


 だが、違ったのだ。

 彼らはあの子を隠していたわけでは無かった。



「あなたは、死にたい場所があるんですか、班長さん」


 四人の最後にリーダーが戦死し、その遺体を焼きながら、残された小さな彼は俺に静かに尋ねた。

 見下ろせば、深夜の空のような黒い双眸がこちらを見上げていた。何も映さないように見えたその瞳には、しかし、しっかりと俺が映っている。


「…… そうだな、ここまで来たんだ、死ぬなら戦場で死にたいものだな」

「そうしましょう」


 あまりにあっさりと返事があったので、俺は「は?」と声が出ていた。

 もう一度振り返った先の彼は、すでに俺を見てはいなくて、遠く昇っていく煙を見つめていた。


「死ぬ場所となれたらと思うんです、が。

 ただ生きるために来るような場所ではないでしょ。たぶん、生きることを見つめるよりは、死を見つめて逆説的に生きることを感じてるのではないですか、みんな。

 ならば、それを突き詰められるような隊でありたいんです。

 せっかくここを選んでくれたなら」


 およそ、学のない人間が考えることでなかった。

 教養を与えられない中で、それでもまったく影響を受けないわけにはならない。だが、彼がわずかでも外界から受け取った情報と思想とで辿り着くには、あまりに高度であり、それゆえに純粋で献身的であり、─── 異質過ぎた。

 ほとんど哲学の域だ。

 あの四人は彼を隠していたのではない。

 知識を取り上げて、のだ。


 そうであれば、きっと、彼ら四人は失敗したのだろう。

 小さな彼は言葉を得て、世界に顕れてしまった。



「…… ああ、いいな。俺も、それが見たい」


 そうして、この子が謳うその景色は、俺にとっても救済ゆめのように思えたのだった。



(いまだ、蛹(不確定の夢) 了)

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