夜目
俺が入隊した隊は、おそらく、ちょうど隊長が変わる過渡期だったのだろう。
いかつい眉を落とした男が「隊長代理」を自称しており、その彼が隣に控える(ように見える)少年を指し、「こっちが隊長な。隊長見習い」と紹介された。
隊長と示された少年はどう見てもでこの国の人間でもないし、なんなら
まだ体つきも成人のそれではないように見える。俺を見上げる表情もキョトンとしていて、なんだかこの子だけぽっかりと空気が違うようだった。
俺の怪訝な顔を察したらしい隊長代理は、首の後ろを撫でながら言うのだ。
「…… 言語も習得中だ。良かったら教えてやってほしい」
「だ、大丈夫なんすか?」
思わず声を上げてしまった。隊長見習い以前に学校に送った方が良いのではないか。
代理は笑いながら俺の肩を叩いた。
「大丈夫大丈夫、素直ないい子だから」
尚更ではないだろうか。
代理と少年はさすがによく二人でいる姿を見たのだが、ただ少年が一人でぽつんといるのもよく見た。
マージナルの少年だ。そして我々がいる場所は腕っぷしに自信がある軍本部である。弱者が絡まれないはずもないのだが、少年はいつも穏やかな場所にいた。
このときも中庭のウッドテーブルに添えられたロングチェアにぽつんと座っているのが見えた。
「よう」
代理から頼まれたわけではないが、仲間である年少者を放っておくことにも抵抗があった。いや、何か困っている様子では無かったのだが。
俺が声を掛けると、少年は俺を見上げてパッと笑った。
特段俺が彼を気遣ってやっているわけでもない。他の隊員にもっと彼に接触している奴がいるほどだ。
だから、最初に見たときのようにキョトンとされるのかと思ってたので、思いがけず笑い掛けられて内心驚いている。
「何してんだ」
近づいてみると、その足の上に猫が丸まっているのが見えた。手元には何かのテキストとノートが広げられていた。
彼の手には音楽プレーヤーらしきものが握られている。
「練習、勉強」
「言葉の勉強をしている」
「はい」
ゆっくりと言い直してやると彼は頷き、俺の言葉をなぞるように言い直した。本当に初心者のようにたどたどしく拙い。
まさかこちらに来たばかりなのだろうか。それで隊長を名乗り上げるというのだから、よほど強い決意があってのことなのだろう。
マージナルの言葉がどこに属するのかも自分には分からないのだが、共通語を話す彼の口調は南の訛りに似た響きがある気がした。
「難しいか」
「はい」
素直に彼は頷く。ちょっと食い気味だった気がしないでもない。
代理にも言い添えられていたのもあったので、俺は少しの時間だったが彼の勉強の手伝いをした。
これがきっかけで、よく中庭で彼が勉強をしているときは声を掛けるようになった。
***
我々を擁する軍が駐留している都市は中規模といったところ、大きくも小さくもない。娯楽施設が無いわけではないが、どこもどこか薄暗く煙草と得体の知れない匂いの煙る地下を持っている。
メインストリートから一つ入った路地の扉。照明が絞られたバーの奥の扉であったり、そもそも店の前にガラの悪いお兄さんたちが扉を塞いでいる店であったり、そういうところは暗黙の了解であった。
戦場から遠い人々は日常と一つ隔てたところで血を見たいようで、そういう場所には相応しい賭け事が開催されている。
我々からすれば、それこそ日常の隣に戦場を持っていて行き来しているわけで、やっと平穏な日常に帰ってきたところで改めてその扉を開ける気にはなれない。
扉の外側で冷えたビールを呷っているのが一番幸せである。
バーにいる限りは何もない。酒とうまい料理が提供されるだけだ。たまにスカウトマンらしき男に声を掛けられることがあるが、身分証と軽い辞退の言葉だけで察してくれた。おそらく多くの同胞が同じような反応なのだろう。
行きつけのバーが内装工事だとかで店舗内の一部が閉ざされてしまった。入ろうにもすでに満席、外に零れ出ている状態だったので諦めて初めての店に入ったところだった。
その店も結構な混雑具合であったのだが、カウンターに落ち着くことができた。
そこからバーの奥の扉が見え、入れ墨がバシバシと体に入ってる男がいる。トイレは反対側だし、トイレの前におっかないお兄さんを添えておく必要は無い。
ここにもあるんだなあ、競合したりしないんだろうかと完全に他人事のように思いながらなんとはなしに眺めていると、ふと扉が開いた。
おっと、というようにガードマンも背中を浮かし後ろを振り返るが、目線の先には中に灯っているネオンが見えるだけだ。俺もおそらく彼も一瞬驚き、それから彼の頭が下を向いた。
そこに、隊長見習いがひょこりと頭を出していた。
飲んでいたビールを吹き出すところだった。
そもそも彼がバーに来ていい年齢なのか怪しい上に、更にその扉の奥から出てきたことが信じられない。
何かトラブルがあったのかと腰を浮かしかけたのだが、ガードマンの対応は落ち着いているようだった。彼が店内の方の扉から出てくるのを押し留めているようで、扉の奥の方を指さしている。
だが、見習いはキョトンとガードマンを見上げており、どうやら話を理解していない様子である。大音量のBGMに聞き慣れない言語である、彼にとっては難易度が高かっただろう。
ガードマンも頭を掻いてしまう。
そうして、見習いの肩を叩きながら彼を押し込むように自分も一緒に扉の奥へと入って行った。
トラブルがあったわけでは無さそうだが、それよりも何よりも、なぜ見習いの彼があの扉の向こうにいるのか。
カウンターにいるバーテンへ声を掛けた。
「あの扉の奥に行きたいんだが」
あまりに率直な言葉が却って功を奏したのか、俺を一瞥すると耳から下げていたマイクへ何やら連絡を取っていた。そうしてやってきたのは一人のスーツ姿のスタッフだった。
彼が前金としていくらかを請求してきたのだが、ちょっと驚いてしまった。こういうシステムは知りもしないのだが、あまりに敷居が低い。
本当にちょっと足を踏み込めば(そしてある程度の金銭を持っていれば)、誰でも扉を潜ることができそうな雰囲気さえあったのだ。
スーツのスタッフは前金を確認すると乱雑なバーにはそぐわない丁寧な仕草で案内をした。
ガードマンは入った後に鍵を掛けて行ったのだろう。案内したスタッフは黒い革のキーカバーから鍵を取り出し、開錠した。
***
扉の奥は、両側の壁にネオン灯る階段だ。入ってきた扉越しにバーのBGMが微かに聞こえる。少し降りたところに再び施錠された扉がある。分厚い扉だ。ホールとは二重に扉を構えている。
スタッフが重い扉を開けると、聞こえていたBGMを掻き消すほどの歓声…… いや、怒声か、とにかく血の湧いた人間の声が溢れた。
スタッフが何事か俺に声を掛けていたのだが、それを聞き流して頷き、中に入る。
部屋というか、小ホール程度の空間はあるだろう。扉からまた少し階段が続き、箱の底には更に『箱』がある。リングだ。ボクシングリングが設置されていて、その一回り外側を(決してボクシングリングにはない)黒い檻が囲む。
中では二人の男が殴り合っていて、もう二人とも色々真っ赤だ。片方が酩酊しているような足取りで一方的に殴り倒されているのに、審判らしき審判は姿が無く、その『試合』が終わる気配もない。
本当にこんな世界があるんだなあと思わず感心してしまう。薄い膜一つ向こうに気配を感じてはいたが、映画の中だけで見ていただけで実際に踏み入るのは初めてだった。
やがてよろけていた方の男がリングサイドに絡まり、そこでやっと試合終了の合図が鳴り響いた。
一際大きな怒声が上がり、幾人かが罵声を吐き散らしながら階段を上ってきた。
ふと、登ってきた相手に尋ねてみようかと思ったのだが、頭が沸騰しているような相手だ、別の人間を探した方が良いだろう。狭くはなかったので、横にずれ相手を通した。
隊長見習いの彼はどっち側にいるのだろう。
客側にしろ、ファイター側にしろ、言語も覚束ない彼が何のコネクションもなくこの場に踏み入られるようには思えない。
彼の経歴からしたらファイター側でこの場にいる方が相応しいのだろうが、そっちは客側よりも更に難易度が高そうに思えた。そもそもよくバーに来る自分だってそう頻繁にスカウトを受けるわけでもないし、街中でそんな声を掛けられることもない。
誰に目を付けられたのか、あの体格と風貌の彼にわざわざ声を掛けるのか。
そうなると、誰かに連れてこられたという方が自然なのだが、その経緯はどう考えても穏やかにはならない。
できるだけ落ち着いて話を聞けないだろうかと思い、リングから少し離れた場所に立っている人へ声を掛けた。
「すいません、ここにマージナルの少年がいませんでしたか」
「ああ、」
驚いた。いくらマージナルとは言え、別にここにいるマージナルが彼一人だけというわけでもないだろう。
だが、俺が尋ねた地元の人間らしい男はあっさりと心当たりがるように頷いたのだ。
「『ニア』のことかな。試合はさっき終わって今日はもう出番無かったと思うよ」
「ニア?」
「あれ、ニアじゃないのかな。マージナルのファイターで、少年っていうと彼くらいだと思ったけども」
おそらく見習いの彼だ。『ニア』という名前ではなかったが、きっと偽名を使ったのだろう。
念のためモバイル端末にあった見習いの彼の画像を見せてみると「彼だ!」と驚かれた。
「え、ニアの知り合い?」
と、尋ねる相手の顔が上気しているように見えたので、俺は「いや、ええと」と躊躇った。ここで我々の素性を明かすリスクは、見習いの彼が偽名を使っているところから推し量れる。
「ファンです、彼の」
「ああ、そうかあ」
納得したように頷かれると少し複雑な気持ちになってしまう。別にファンでは無いのだが、仲間として放っておけもしない自分の気持ちをその一語で括られてしまうのは腑に落ちない。
…… いや、別にそこまで考えるものでもないか。
俺の葛藤をよそに、尋ねた相手もどうやら見習いを気に入っているのか、少し嬉しそうに話し出した。
***
「初めて見たときはびっくりしたよ、どこの学生寮から来たのかと思った。
マージナルのファイターは過去にもいたんだけど、かなりエグイ潰され方しているからさ、ああこんな子を出してきて趣味が悪いなあと思ってたんだ。
ちょっとここの運営方向変わったなとか」
スラスラと流れるように語る彼だ。
俺はうんうんと笑顔で頷くにとどめ彼の話を聞いた。
「でもほら、すごかったでしょ、彼。
あっさり相手の四肢を破壊してったでしょ。あの後、相手ファイターが引退したらしいよ。
相手、だいぶ性質の悪い奴だったから、まあ清々したよね」
彼の中ではちょっとしたヒーローなのかもしれない。見習いは分かっててその相手と対戦したのだろうか。いや、対戦表は運営側で作るものだ。
であれば、趣味が悪いと言われるのも頷ける。それを覆したということだろう。
彼が本部において一人でものんびりとしていられるのは
彼が、手を出してきた兵士を片っ端から潰していったからだ。
それも潰し方が酷い。
四肢を徹底的に潰される。中には相当手酷くやられたのだろう、再起不能にされた者も少なくない。そうして少しずつ話が広まると彼に手を出す者も減ってきて、やがて潰えたということらしい。
あの人畜無害そうな顔をして、やることがえげつない。
目の前で滔々と『ニア』の武功を語る彼から「四肢を潰す」くだりを聞いた時、間違いなく見習いの彼であるのだろうと確信した。
彼にもう少し状況を確認できないかと尋ねようとすると、「あ」と手を挙げた。その指先が、リングの反対側を指している。
「まだいたみたいだね」
いわゆるVIP席なのだろう。階段状になっている観客席の最上部に構えられた部屋があった。
その大窓の内側に、見習いの彼がいた。
VIPの一人と何やら話しているようなのだが、やはり彼の表情はいつも通りで、思わず俺は「ちゃんと通じてるだろうか、大丈夫だろうか」と場違いな心配をしてしまう。
「話してるのは誰か分かるかい」
「ああ、たぶん、ニアを連れてきた人だと思う。彼はここのオーナーの一人から推薦を受けて入ってきたんだ」
なるほど。彼個人で飛び込んできたわけでは無さそうだ。
そうすると、彼を飛び越えたところに背景があるのか、はたまた、やはり何か厄介なことに巻き込まれてるのではないか、というところか。
部屋の中では、オーナーと思しき男性と握手を交わして退出する姿が見えた。
そろそろ俺もお暇をしようと思い、色々と教えてくれた男を振り返った。
「いろいろありがとう」
「いや、こちらこそ。
専用出口の方は店の裏側に通じてるんだ」
どうやら俺が出待ちをするのだと思ったらしい彼は、親切に教えてくれた。単純にホームへ戻ろうと思ってただけなのだが、帰る場所は同じだから、出待ちの一種になるだろうか。
俺はもう一度「ありがとう」と伝え、客側の出口へと上った。
***
昼下がりの中庭だ。
穏やかに木漏れ日が降っている。その中で、隊長見習いの彼は今日も難し気な顔をしてテキストを睨みつけている。
「進捗どうだ」
いつものように声を掛けると、彼はやはりいつものように笑って顔を上げる。
彼の隣で寝ていた猫を抱き上げて膝の上に乗せると、「ここ」と自分の隣を示す。俺の座る場所を空けてくれたのだろう。
「ここに、どうぞ」
「『ここ』、『どうぞ』」
「そうそう」
覚えはあまり良くないが、努力しようとしている気概は感じる。努力の方向が間違っているのだろうか。
彼の隣に腰かけながらテキストを覗き込む。順調にページは進んでいるようだ。
しばらく彼の勉強に付き合った後、俺は切り出した。
「青い看板のバーの地下」
その言葉に、彼はふと顔を上げて俺を見た。
その目は夜のようだった。あの喧しいネオンひしめく暗闇ではなく、静かな森から見上げた夜空のように凪いでいる。
彼の中に夜がある。
「ファイター業も始めたのか」
「……」
「あー…… 地下の、闘技場、分かるか」
彼の沈黙が警戒よりも困惑に見えたので、俺は改めて言い直す必要があった。
昨日彼を見かけた酒場のことと、その地下のこと。二度目で彼は心得たように頷いた。
「地下、戦う、練習」
「練習?」
思いがけない単語が出てきた。戦う練習のために闘技場にいるというのか。
考えてみれば、確かに彼が隊内で手合わせをしている姿を見ない。隊員が模擬戦をしているとき、見習いの彼は専ら代理の横で記録を取っているのだ。
代理自身がなんとなく指導することもあったが、見習いはその様子をじっと見つめているだけだ。隊長としての振る舞いや対応を学ぶということでは合っているのだろうが、彼自身の鍛錬はどうしているのだろうと思わないでもなかった。
それを、地下のファイターを相手に戦闘訓練しているということか。
あのファイターは必ずしも兵役があるとは限らないだろう。それに、あの地下の闘技場がどこまで「真剣勝負」に重みを置いているのか分からないが、ショー向きのところだって多いはずだ。
必ずしも見習いの彼が望むような戦闘訓練が得られるのか疑問である。
「ええと…… 本当に練習になるか。筋肉の付き方が違うし、動きも違うだろ」
少し聞き慣れない単語を出してしまったからか、じっと彼の黒い双眸が俺を凝視する。見つめていると、つるりとその中に星でも流れるんじゃないかと思うほど、真っ黒な瞳だ。
おそらく、俺の口の形を見ているのだろう。それで分かるのかどうかも、俺には分からないが。
彼からの反応が薄かったので、もう一度同じ言葉を繰り返した。
すると、見習いはパタパタと瞬きをして、「うー」とも「あー」ともつかない呻き声を上げる。今、自分が持っている単語の中で言葉を組み立てているらしい。
「芯、身体、あー…… 骨、同じ、だから。んー……
破壊する、同じ、場所です。同じ、みんな」
たどたどと紡がれたその言葉を、喉の奥で反芻して…… 意味を把握して、ぞわりと背中の毛が逆立った気がした。
『ニア』を語っていた男は何と言っていたか。
─── あっさり相手の四肢を潰していった ───
兵隊だろうがスポーツマンだろうが筋肉がどこに付いていようともどんな人種だろうとも、彼には関係が無いのだ。人体の脆い部分は変わらない。
見習いの彼にとっては、戦闘訓練ではない(そうだ、訓練ではないのだ)、ただひたすら人体破壊の『練習』なのだ。
野球選手が何度もバットを振るように、ドアマンが常に美しい角度でお辞儀をするように、知らない言葉を分かるまで繰り返すように。
確実に人体を損傷をできるように彼は練習している、と言っている。
…… そりゃ、ファイターは戦うことが仕事ではあるけれど……
言い方のせいか、言葉が足りないからか、あまりに無機物を相手にしているような印象だった。
引き気味の俺を、見習いの少年はキョトンと見上げている。
自分の言っていることがちゃんと伝わっていないと感じただろうか。
「…… お前を、あそこに連れて行ったのは、誰なんだ」
俺が尋ねると、彼はしっかりと答えた。
「隊長代理」
***
「あのぅ」
「おう、どうした」
なんだかんだと忙しい身である隊長代理へ遠慮がちに声を掛けると、至ってざっくばらんと軽い応答が返ってくる。
見習いはまだ中庭にいるのだろう。隊長室には代理の姿しかなかった。デスクに事務処理らしきファイルが重なっている。
「隊長見習いのことで、ちょっと聞いていいすか」
そう切り出すと、代理はいつもの飄々とした空気からふつりと温度が変わった。それは警戒でも威嚇でもなかったが、なんとはなしに「退路が塞がれた」ような気さえする変化だった。
中庭で見習いからあの店に自分を連れて行ったのがこの隊長代理であると聞いたとき、まさか、と思わず口に出てしまいかけた。一番想像しないパターンであった。
別にこの代理が見習いに対して過保護だということではない。わざわざあの店に預けるような理由が想像できないのだ。いっそ見習いが自発的に考えて地下闘技場で『練習』していると言われた方が、まだ説得力がある気がした。
代理は得も言われぬ表情で俺を見ていたが、「ああ、いいけど」と頷いた。
「バーの地下闘技場で隊長見習いを見ました。
本人に聞くと、代理が連れて行ったということですが」
「そうだな」
あっさりと頷かれてしまった。
となると、もう俺の聞くことは一つしか無い。
「あの…… なにゆえに?」
聞き方がちょっとおかしかったようで、代理は小さく吹き出した。
そうして、面白そうに目元を笑わせる。
「本人には聞いてないのか」
「『練習』だと言ってました」
「そうだな。その通りだ」
「…… な、なんでですか… わざわざ店に── 外に行かずとも隊内の手合わせで良くないですか」
「うーん……」
代理は持っていたペンをくるりと回し、底の方をコツコツと鳴らす。『練習』という言葉の意味合いにどうも含まれるものがあるらしい。
ブラウンの視線が俺を見上げて見つめる。
俺への回答とは全く別に、その目は何かを考えているように見えた。
「隊員を壊すわけにはいかないだろ」
「え?」
やがて唐突と言ってもいい突然さで、代理はスルスルと答えた。
「例えば俺やお前に抑え込まれて抗えるほど力もスキルも無い。体質のせいなのか今以上に成長するのも難しいようでな。
そうなると、先手を取られる前に致命傷を負わせるしか、あの子が生き延びる術がない。
幸い背格好のために戦場で鉢合わせると大方が一瞬戸惑う。それが彼の唯一の勝機だ。
それを決して逃さないように、いつでも確実に相手を行動不能にさせられるよう『練習』しなきゃならない。
早急に。模擬では駄目なんだ」
だから、隊員を相手にはできない、のか。
「相手は…… 一般人、ですよ……」
一応ツッコんでみた俺の声は、聞き用によっては震えているようだった。
鼻で笑われるか一蹴されるか怒られるかと思った。そんなことを分からない代理ではない。
予想通り、代理は笑った。だが、それは嘲笑ではなく、苦笑に近かった。
「あの店は、いろんなことを天秤に掛けた結果だ。俺と見習いで考えて、一番優先度が低かったのは確かだが。
それに、あの子の戦い方じゃあショーにはならないからな。オーナーにも短期間と無償でということで了承を貰っている」
「無償で?!」
「その理由をそろそろ知る頃なんじゃないか」
ふふ、と代理は笑った。苦笑いと悪戯のないまぜになった笑い方をする。
試合開始とともに相手の行動を不能にしていくファイターなど、確かに最初からクライマックスみたいな、出オチ感甚だしいだろう。短期間だからこそ使えるタイプというか。
それに、今まで雇っていたファイターをしばらく使い物にならなくしてしまうのだ。無償というところでトントン、か。
「できれば力の加減も身につけて欲しいんだがな。見習いを卒業したら後輩の指導もしてもらいたい。
だが…… まあ、まずは自分の身は自分で守れるようにならんとな」
そう言うと、代理はもう一度くるりとペンを回してペン先を報告書へ向けた。
「そんな理由だ。何か質問は」
「…… いえ。すべて解決しました」
「どうかなあ」
代理は首を傾げて笑うのだ。苦笑いにも、嘲笑にも見えた。
代理のその感想は、確かに合っていたのかもしれない。
俺は数日後、離隊届けを手に隊長室へと向かっていた。
見習いの試合を見てきたのだ。
***
圧倒的だった。相手の体躯を物ともせず、見習いは見事に力の流れを利用して相手の攻撃を受け流し、一気に関節を破壊していく。
そりゃ同じ仕事とはいえ、人を壊すために磨くスキルと、人を興奮させるために磨くスキルではモノが全く違う。見習いを相手にしたのが運がなかったと言うしか無い。
だが、俺はそれ以上に。
同じ戦場に立つ
彼が対戦相手を見る目は、俺の口元を見つめる目と同じなのだ。
離隊届けの理由を聞かれることもなかったが、代理には「試合を見てきました」と伝えて渡した。
「そうだなあ」
のんびりと代理は顎を撫で、俺の届けを眺めた。
そうして、彼は小さく笑って俺に言うのだ。
「お前はどっちかなとは思ってた」
「どっち?」
「留まって深みに嵌っていくのか、察して回避に遠ざかるのか。
後者だった。お前は賢明だよ」
「…… どういうことですか」
代理へ尋ねながら、しかし俺は彼の話の輪郭くらいは分かっていた。
代理が話しているその対象は、間違いなく隊長見習いの少年のことだ。
理由という理由は伝えなかったが、もはや伝えてしまったようなものだろう。あの少年が、離隊の理由だ。だが、それ以上の言語化ができない。
嫌いになったわけじゃないし、むしろ彼にはずっと好意的な意思の方が働いている。懸命に知らない言語を習得しようとし、隊長を務めたいと励む姿のどこに嫌悪を抱こうか。
だが、それでも彼が理由なのだ。
代理は首の後ろをさすりながらのんびりと続けた。
「あの子はどうしてか、人を惹きつけるというか……
どうにかしてやりたくなる気分にさせる性質があるみたいだな。お前のように彼の局面を見ると、大体さっきの通り二分化する。
嵌った方はなかなか辛そうだぞ。たぶん、あの子は基本的には、人にとってあまり善いものではないんだろう」
「あの……」
代理の言い方がまるであの少年をして人ではないもののように語るので、思わず口を挟んでしまった。
「見習いは、人間、ですよね……?」
「まあ、心臓を撃ち抜けば死ぬな」
敷居が低いのだ。少年の中にある日常と戦場の間の。
普通の日常を生きている人には、仮初の戦いの向こうに推し量るもの。俺や他の軍人にとっては各々の儀式でもって区別をつけるもの。
しかし見習いにとってはそこに境界はなくて、何の変哲もなく歩いて行ってしまう。日常の中に戦場を、戦場の中に日常を、何の色も香りも違和感もなく持ち込んでしまうほど、自然に。
彼の黒い目に見えるものが同じなのだ、あちらもそちらも。戦場育ちとか、そういうものではない。それよりかは、なんというか…… 我々の日常も戦場も、あの少年にとっては同じ『外』であるように見えた。
もはや我々とは、認識の在り方が根本的に食い違っている存在と言っていいだろう。
だが、そんな彼に、代理の言う通り俺は「どうにかしてやりたい」と思ってしまうのだ。
これ以上、この隊に、あの少年に、踏み入れてはいけないと本能的に気づいてしまった。
離隊までしなくともと考えもしたが、きっとここから離れないと、俺はあの夜の目を探してしまうだろう。
「代理はどっちなんですか」
「うん?」
届けをデスクに伏せ首を傾げた代理へもう一度尋ねた。
「代理は、彼に沼ってるんですか」
「はは…… お前の言い回しって面白いよな」
やはり聞き方がおかしかったようで、代理は軽く吹き出すように笑った。嵌ると言うから、沼なのかと思っているだけなのだが。
代理は「そうだな」と考える素振りを見せる。
「沼の縁を歩いてるのかもな。別に辛かねえけど、あの子が隊長を務めたいと言うのを付き合ってるわけだし。
大概だと思ってるよ」
そう言う代理は、しかし言葉通りに軽やかで、どこかに足を捕らわれているようには見えなかった。だから俺や、もしかしたら沼っている誰かも、まさか彼の隣に深い深い夜がいるなんて思わなかったんだろう。
「俺もそう思えたらよかったのでしょうか」
代理を見つめて思わず溢れてしまった。
あの少年を嫌いになったわけじゃない。まだまだ拙い言葉を教えたいし、通じるようになった言葉で彼の話を聞きたい。
だが、なんとも恐ろしいのだ、これ以上は。ひしひしと感じている底冷えの冷気が、もう足元まで迫ってきているような感覚だった。
この二律背反する感情を何と呼ぶべきなのか俺には分からない。こんなものを、今まで誰かに抱いたことなんてなかった。
「これが正解だってことでもないだろ」
代理はそう言うのだ。そう言って、苦く笑ったのだった。
***
最後だと思い中庭へ向かうと、やはり少年が一人、ぽつんとロングチェアに腰掛けていた。
俺が声を掛ける前に、こちらを振り返る。誰が来るのかを分かっていたようにいつもの笑顔で迎えてくれた。胸が痛い。
「おう。…… さっき、代理に離隊届けを出してきた」
何と前置きをしていいのかも分からず…… いや、ただ俺が、その事実を抱えたまま彼と他愛ない話をするのが辛かっただけか。
控えた音量で早口だったから、見習いの少年が俺の言葉を理解するのに小さくタイムラグがあった。じわりと見開く黒い双眸だ。
「短い間だったけど、ありがとうな」
彼の頭をぽんと撫でる俺を不思議そうに見上げる。そりゃそうだろうな、言葉を教えていたのは俺の方で、なぜ自分が礼を言われるのか分からないだろう。
だが、彼の隣で言葉を教えていたあの時間は、あまりに満ち足りていたのだ。気がつけばこの中庭へ彼が座っていないかと探しに来るほどに。
だからこそ。
「俺も、ありがとう」
少年は、すぐに動揺を押し込めて笑った。感情の切り替えの速さがもう大人のそれだ。彼はもうすぐ隊長になるだろう。
まだ訛りの強くぎこちない口調ではあったが。いずれ別の誰かが彼に言葉を教えてくれるはずだ。
どうにかしてやりたいと、俺と同じように思うだろう。
「うん。じゃあな」
もう一度彼の黒い瞳を見つめた。
この先忘れることができるだろうか、夜の目。
「さようなら」
言葉の拙い彼の中で、その音は酷く滑らかに紡がれた。
きっと、何度も言い馴染んだ言葉なのだろう。
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