知らない声

 意外に、隊長はあの赤毛の男と話していることが多い。

 普段はアルパカを『被っている』印象が強いので忘れがちであるが、アルパカが不在の状況でも二人で話している様子を見ることもある。

 半分は真面目な話をしているようで、もう半分は雑談くらいの割合なのだろう。

 そうして、彼と雑談をしているときの隊長は、の知らない顔をする。



「【ICS】」


 いつもの中庭を横切る廊下で、ウッドテーブルから隊長が手を挙げた。その斜向かいに座っていたロレンソも顔を上げたが、こちらを視認すると手元に広げられていた本に視線を落としてしまった。

 私を見つけた隊長は廊下の方へと駆けてくる。解放されていた窓の方へ寄ると、窓枠に手を掛けた彼が私を見上げた。


「どうしました」

「この間、お前が入れてくれたアプリなんだが、うっかりログアウトしてしまって」


 パスワードが分からなくなってしまった、と言いながら手帳サイズのタブレットを差し出してくる。「すまんが、ログインしてくれないか」

 この間、自分がインストールしたアプリケーションというのは、おそらく言語学習用の動画配信アプリのことだろう。

 むしろ自分がインストールした時点から一度もログアウトをしていなかったのかというところに驚いてしまう。それほど継続して使っているだろうに、この隊長のドキュメント精度は劇的な変化を見せない。

 元々言語習得が苦手なのだろうとは思いつつ、せめてもう少し前に出会えていたらまだ覚えも良かったかもしれないと思うと歯がゆいところだ。


「パスワード変更していいですよ。別に私が設定したパスワードを使い続ける必要ないですし」

「なんだかもったいなくてなあ」

「なんですかそれ」


 たまにこの隊長はおかしなことを言う。私が作ったパスワードを変えるのが勿体ないとは。

 …… 誰かから貰ったものを、この人は至極大事にしてしまう。捨てられずにずっと抱え込んでしまうのだ。それが形のないパスワード一つだったとしても。

 こんな記号一つを大事に想うなら、一つでも多くの記憶を抱えてて欲しいのだが。

 私は設定済みのパスワードを入力しようとして、ふと再発行の手続きをした。妙に長い私の操作に隊長が不思議そうな表情を浮かべかけたところで、手続きを完了させた端末を彼に返した。


「パスワードは『ナックブンター』です。これなら忘れないでしょ」

「なるほど」


 端末を受け取る彼の顔はそこはかとなく嬉しそうだ。再度自分でログインしてみたのか、「次からは大丈夫だ」と頷いてみせた。


「アプリを使うのも結構ですけど、もっと効率よく教えてくれそうな人がいませんかね」

「うん?」


 端末から顔を上げ私を見上げる隊長へ、彼の後方、雑談をしていた相手を指し示す。

 隊長は私の指先を確認し、「うーん……」と唸った。


「あいつよりも【ICS】の説明の方が分かりやすいからなあ……」

「そんなわけないでしょうが。彼を誰だと思ってるんですか」

「いや本当なんだよ。わざとかってくらい回りくどい言い方で話したりするから、いまいち内容を掴み切れないことがある」

「からかわれてるんじゃないんですか」


 あの男はとかくこの小さな隊長を揶揄うのが好きなようだから。

 私がツッコむと、隊長は弾かれたように笑った。


 その、笑い声に、笑い声の中に、聞いたことの無い響きがあった。


 驚いて彼を振り向いたが、気付いて私を見上げた顔は、私のよく知る『隊長』だった。

 今の声は何だったのだろう。笑い声ならよく聞く。隊員たちと冗談も言い合うし、しょうもない悪戯をして副隊長に怒られたりもする彼だ。

 だが、今の声にはには向けない何かの感情を孕んでいたように聞こえたのだ。

 隊長は、苦笑いするように目元を緩めている。


「それはあるだろうな。

 だからすまないが、今しばらくよろしく頼む」


 タブレットを掲げて「パスワードありがとうな」と礼を言うと、ウッドテーブルの方へと戻って行く。

 帰ってくる隊長へ彼が顔を上げた。いつもの嗤い方をして、隊長へ何か声を掛けているようだ。ここまではその内容は届かなかったが、直後に返した隊長の声はしっかりと聞こえた。


「お前さあ……」


 そこで。

 やっと、私は隊長の声に含まれていた微細な響きを理解した。


 のだ。彼は。あの赤毛の男に。


 そうだった。あの隊長は、決して我々に対して落胆や失望の感情を抱かない。いつだって彼から向けられるものは、まず信頼があり期待があり、それに報いることができずとも、与えられるのは感謝だ。

 冗談でも今のような言い方を口にすることはなかった。

 なぜだろう。

 この違和感を、どう言葉にすればいいだろう。


 それでも隊長は彼と楽しそうに話をする。笑って、呆れて、笑う。

 それは昔日の光景のように見えた。いつか自分にも、ああやって衒いなく気構えもなく話し方ができていた気がするのだ。

 上司でも部下でも、ましてやきっと、仲間でもない。あの関係を何と呼ぶのだろう。




 私の知らない声が聞こえる。





(知らない声 了)

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