小さな嘘、されど
獣はまたも黙した。ただ、ぎっと
馬上の男はそれを意に介すこともなく、続ける。
「考えていた。君の言葉をずっと。違和感が胸の内に宿るのに、時間はかからなかった」
「……」
「君はまるで理性がなくなると、そう言う風に言ったな。気付いたら獲物を口にくわえている。自分の中の人間が忽ち姿を消し、再び自分の中の人間が目を覚ますと」
「そうだとも。袁傪よ。だからこそ、俺は言ったのだ。ここを通るなと」
「では、李徴よ。なぜ、君は私を襲ったのだ」
月が雲に隠れ、妖しい雰囲気が訪れた。白露の輝きも消え、ただただ風が吹き抜る。
「お前は……何を言って……」
「この隊列を見よ。私はどこにいる。列の真ん中だ。理性をうしない、人間を襲う目的で
理性を失った獣が、人間をえり好みするだろうか。従者よりも、身なりの整った列の主を襲おうとするだろうか。獣の前に、人間は平等である。二足で歩く、猿の亜種のようなものに過ぎないはずである。
しかし、この虎は違った。袁傪よりも前に並んだ従者には目もくれず、ただ袁傪のみを狙った。そこには理性がある。たしかにある。
獣ではない
「駅吏のものが言っていた。この先には人喰い虎が出ると。君はこれまで何人もの人間を喰って来たのだな。それは理性を失ったから、と君は言った。そして理性が、人間の心が戻ってくると苦しむ、と。私はただ同情するしかなかった。しかし、そうではなかったのだ。君は……」
虎は、いや、獣の皮を被った人間は、とどめの一撃となるその言葉を、封じることはできなかった。
袁傪は一度深く俯いて、意を決したように宣告した。
「君は、君の意志によって、人を喰らっていたのだな」
月光がさした。
・・・・・・・
「なぜそのようなことを、などと聞くほど、私は薄情な友ではない。その答えは、既に君の
虎は、その縷述の時とは違い、しっかりと姿を見せて袁傪の言葉を聞いていた。
「君は、人間を恨んだいただろう。自らを受け入れてくれない社会に、
ぐ……と獣はうなった。ただうなるだけであった。
「私が死ななかったのは、ただ私が君の旧友だったからだ。もしもそうでなかったのなら、ここを通った他の人間と同じく、白骨を月光に曝し、風雨に散らされていただろう」
その、次の瞬間だった。
獣が突如袁傪に飛びかかったのは。
しかし獣は気付かなかった。前方、後方より、兵士が弓矢をひきしぼっていたのに。袁傪は用意周到であった。
袁傪はひらりと馬を操って避ける。
虎はしきりに
側に控えていた従者が剣先で身体をつついた。しかしもはや獣は息絶えていた。
袁傪は憐れむような視線を、草原の上の
「もはや憂いはない。この途の危険もなくなっただろう」
袁傪はただ一言そう言って馬の蹄を
かくして
しかし、袁傪への最後の一撃は、果たして理性がなしたものであっただろうか。それとも、野生がなしたものであっただろうか。そのいずれでも、此の結末は
月光下、もはや獣の跡形はない。虎が出たのは遠い過去の話。今は旅人の行き交う街道である。<完>
【参考文献】
中島敦『李陵・山月記』(新潮社、1979)
平野多恵、 渡部泰明、 出口智之『国語をめぐる冒険』(岩波書店、2021)
虚構が覆う 蓬葉 yomoginoha @houtamiyasina
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます