第03話 歯車と歯車

 金色のツインテールをなびかせて一人の少女が電車からホームへ降り立った。


 小柄な少女は高校の制服を着た小学生のようで……。実際、146センチしかない彼女はよく小学生に間違われる。


 彼女が初対面の人間とする会話は、身長の話題かハーフなのかと言う話題になる可能性はうんと高かった。いや…初対面でこの話題にならなかった事はもしかしたら一度も無いのかも知れない。


 そんな彼女の名前は結城ゆうき耀ひかり

 現在、松江高校に通う高校2年生。


 かつては人類最後の光として、闇の勢力に立ち向かった異世界の勇者である。


 生前に身に着けた魔法などの技術は使えるが、だからと言って漫画のような事件に巻き込まれる訳でも無く。

 背が低くてハーフでもないのに金髪碧眼と言う大きな問題点はあるものの、耀ひかりはゲーム好きの女子高生として前世と比べれば平凡な生活を送っていた。


 そして春の温かさと平和の有難さを噛み締めながら、今日と言う耀ひかりの一日は平凡に過ぎ去っていく……。


 ……はずであった。



 ★



 ガラガラガラ。


 引き戸を開けた耀ひかりは教室に入ると、後ろ手で扉を閉めながら時計を確認した。

 時計はホームルームまで残り五分を指しており、いつも通りの時間。


 普段よりも何故か大きい教室の喧騒を聞きながら、カバンを仕舞うと耀ひかりは自分の席へ着席した。


 そして耀ひかりは隣の席に座る少女へ挨拶をする。


「おはよ、城咲しろさき


「おはよう」


 すると、その少女は微笑んで耀ひかりに挨拶を返してくれた。


 眼鏡をかけたショートボブの少女。

 見るからにおっとりとした雰囲気で、漂う優しいオーラからは柔らかな母性を感じる。

 身長は耀ひかりよりも10センチ以上高く、胸は母性があるせいかそこそこ大きかった。

 

 彼女の名前は城咲しろさき めぐみ


 その見た目通り城咲しろさきめぐみの優しさは本物で、1年生の頃に教室でいつもぼっちであった耀ひかりに声を掛けてくれたのだ。

 以来、昼食などは城咲しろさきめぐみと一緒に耀ひかりは食べていた。


 所属人数の少ない文芸部への入部を彼女から促されたりもして、城咲しろさきめぐみとは同じ部活動の部員でもある。


 耀ひかりにとって、城咲しろさきめぐみはこの学校唯一の友人と言って良い存在だった。


 耀ひかりは表情を柔らかくしながら彼女へ話題を振る。


「今日は騒がしいけど何かあったのか?」


「うん…なんかね、転校生が今日このクラスに来るらしいよ」


「転校生?」


 耀ひかりは少し不思議そうな顔をして続けた。


「こんな時期に? まだ5月の中旬だぞ?」


「うん…私も変だと思う。でも噂によれば高級車で登校していたみたいだし、家庭の事情とか凄いんじゃないかな?」


「こ、高級車で登校……。何処の世界の住民だよ。それって噂が独り歩きしてるだけじゃないだろうな?」


 耀ひかりの引き攣った顔を見て城咲しろさきは苦笑いをする。


「あはは…かも知れないね。私も聞き耳立てててただけだし……」


 他にも聞けば、凄い美少女でモデルのようなスタイルをしているらしい。

 どんどん噂の信憑性が怪しくなってきている。


「まぁ、何にせよ本人が登場すれば全て明らかになるか」


 耀ひかりがそう言うと、ちょうどよくホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴る。

 するとチャイムを聞いたクラスメート達が疎らになって自分の席へ戻っていった。

 耀ひかりが学校生活でよく見るいつも通りの光景だ。


 少しして担任の教師が教室に入ってくる。

 耀ひかり達のクラス担任は体育系統の中年教諭で、短髪に灰色のジャージがトレードマークの男性だ。

 名前は黒沢である。


「突然だが今日はお前らに報告がある」


 教室が少しだけ色めき立った。


「ああっと…すでに知っている人も居るみたいだが、転校生が今日このクラスに来ることとなった。お前らに紹介する」


 そう言って先生は転校生を廊下から教室へ引き連れて来る。


 背中までかかる黒髪が漆のように艶めき、サラサラと絹のように揺れていた。


 おぉ…確かにこれは噂通りの……。


 耀ひかりは思わず息を飲んで納得した。

 ここまで噂されるのも無理はないな、と。


「今日からこのクラスで勉学を共にする漆羽うるしばね京子きょうこです。皆さんどうぞよろしく」


 自信と覇気に溢れた表情で自己紹介をした彼女は間違いなく美少女と表現することができた。


 黒い瞳には力強さが宿っていて、キリッとした眉も相成り全体的に勝ち気な印象を覚える。

 そして何より特色すべきはそのスタイルである。身長は165〜170センチ程で有ろうか。平均よりも高い背にスラッと伸びた美脚。そして貧相すぎず豊満すぎないヒップとバスト。

 まさしく理想的なスタイルだ。


 次にオーラ。

 教室の壇上に立ち、転校生特有の少しデザインの違う制服を着ている事を差し引いても、彼女からは異質な雰囲気が漂っている。

 影が濃すぎるとでも言うのだろうか。耀ひかりは彼女に意識が吸い寄せられる事を自覚する。

 

 今なら高級車で登校してきたと言う話も耀ひかりは信じられた。

 金持ち特有の英才教育。美少女と言うこともあるのだろうが、彼女から感じる独特なオーラにはそれしか説明が付かないからだ。


 しばらくシン……と静まり返っていた教室。

 

 その空気を変えたのは担任の黒沢先生だ。


「どうしたお前ら! 歓迎の拍手だ!」


 それを聞いたクラスメート達は我に返ったように疎らに拍手が響いた。

 次第に拍手は力強くなっていき、クラスのお調子者達が「よろしく転校生!」などと野次を飛ばし始める。


 恐らく3つ隣の教室の方まで聞こえているだろう。

 凄い熱狂である。普通の転校生ではこうはなるまい。


 もちろん耀ひかりも適当に拍手しておいた。

 協調性が無い奴は村八分。前世で勇者になる前はしがない農民だった彼女は、その辺はよく心得ている。


「静かに! 静かにしろお前ら! それじゃ、漆羽うるしばねの席はそこの右後ろの空席にしたいと思う」


 教室の拍手と野次を止めた黒沢先生は漆羽うるしばねの席を指差した。

 昨日にはなかった最後部で右端の座席だ。


 耀ひかりは真ん中の方の席なので彼女とは余り近くない。

 ちなみに席はくじ引きで決められる。耀ひかり城咲しろさきと隣の席になったのは全くの偶然であった。


「じゃあ、赤坂。隣の席だから漆羽うるしばねに色々と教えてやってくれ。漆羽うるしばねは席に付いて良いぞ」


 再び「赤坂〜、VIPの案内まかせたぞ〜!」などと野次が飛んだ。

 それを聞いた赤坂と言う女子はオロオロと狼狽えている。


 そしてスタスタと指定された席で立ち止まった転校生…もとい漆羽うるしばねはニコリと笑って挨拶をした。


「よろしく」


「あ…は、はい! よろしくお願いします!」


 ガチガチに緊張する赤坂を見て漆羽うるしばねはクツクツとおかしそうに笑った。


「私達は同級生だろう? 敬語なんてよそうではないか」


「は、はい……あ…いや、うん…よ、よろしく漆羽うるしばねさん」


 何故か顔を赤くしている赤坂。


「ふふ……よろしく」


 漆羽うるしばねはそう言うと席に着いた。


 う〜ん、なんだアイツのねっとりとした喋り方は。

 随分と様になっているな……。


 そんな事を思いながらジーッと漆羽うるしばねを見ていた耀ひかりであるが、漆羽うるしばねがチラリと視線を向けてきた。

 二秒ほど目が合うと、漆羽うるしばねは口角を吊り上げた。


 その笑みに気後れした耀ひかりは目を逸らす。


 うっ…何だか迫力のある笑みだ……。

 美人だからかな……?


 再び視線を向けると漆羽うるしばね耀ひかりをもう見ていなかった。


漆羽うるしばね。職員室の荷物は後で俺が持っていくからな。と言う訳でみんな新しいクラスメートと仲良くしてくれ。そんじゃ、ホームルームを再開する。お前ら静かにして前を向け!」


 こうしてホームルームはいつも通りの諸連絡へ移っていった。




 ホームルームが終わり1限目の授業が始まる前の時間。


 ワイワイと漆羽うるしばねの周りを複数人が取り囲んでおり、質面攻めにしていた。

 よく見ると、取り囲んでいる人間の中には他クラスの者まで混ざっている。


「凄い人気だな……あの転校生」


「うん…人間って新しい何かは意識せずにいられない生き物だから」


 耀ひかりの呟きに、やや苦笑いをしながら城咲しろさきが答えた。

 クラスメート達のことを子供っぽいとでも思っていそうな態度に見える。


「それにしたって異常だよ。普通の奴だったらもう少し落ち着いた感じになるだろ」


「あはは…確かに…。彼女、凄いキラキラしてるもんね」


 こうして二人の会話通り、それからの学校生活は漆羽うるしばね京子きょうこの話題で持ち切りになった。

 それを見た耀ひかりははなんだか今まであったクラスの日常が無くなってしまったようだと思う。

 しかし、その非日常も続けば日常になる。


 そう言う意味で、耀ひかり漆羽うるしばねが転校して来た事をあまり気にしていなかった。



 ★



 そして1週間程が経ち、漆羽うるしばねがクラスに馴染み始めた日の放課後。

 学校の授業を終え、文芸部の部室へ向かった城咲しろさきと別れた耀ひかりは、昇降口前の下駄箱を開ける。


 すると、靴の上に一通の手紙がポンと置かれていた。


 その手紙を手に取った耀ひかりは辺りをキョロキョロと見回す。


「う〜ん、これまたベタな…。これってそう言う事だよな?」


 これがラブレターだと決まった訳ではないが、耀ひかりがこの手法で告白されるのは小学生以来の事であった。

 中学に上がってからは、殆どが通話かラインである。


 実は耀ひかりは転生してからそこそこ異性にモテていた。

 もっとも、本人は元男なのでこの事実には複雑な気分にさせられているのだが……。


「まぁ、そうと決まった訳じゃない。取り敢えず開けて見るか」


 耀ひかりは横長の白い封筒を開くと、中から手紙を取り出す。


 するとそこには『今日の放課後に屋上で待ちます』、と印刷と見紛う程の達筆な文字で、そう簡素に書かれていた。


「なんだこの綺麗な文字……どんだけ気合入れて書いたんだよ」


 それにしても屋上かぁ……。普通に閉まってるだろ。

 イタズラかな?


 耀ひかりは手紙を裏返したりして観察しながら訝しむ。

 

 そして、どうするべきか迷った末に耀ひかりは……。



「ここに来た」


「どうしてそうなるの……」


 文芸部の部室で城咲しろさき耀ひかりにツッコミを入れる。


 城咲しろさきは長机に向かって小説を書いており、邪魔をされていることに少しだけ不機嫌そうだった。

 本棚に囲まれた部室には城咲しろさき耀ひかりしか居ない。


 部員はこの二人だけだった。


「まぁ…オレも一応、文芸部の一員だし別に良いだろ?」


「普段は顧問が居るときしか参加しない癖に……。早く屋上に行ってあげたら?」


「チッチッチ……そこが肝なんだ」


 耀ひかりは舌を鳴らして否定すると、パイプ椅子を持ってきて長机の端の方に座った。


 耀ひかりは部室にしばらく居座るつもり満々である。


「しばらく時間を空けて行ってもまだ居たら、そいつの本気度はそれだけ高いって事だろ? 幸いにも放課後ってだけで時間の指定はなかった。それに場所からしてイタズラかも知れないからな。その場合、早く行くと惨めだ」


 城咲しろさきは呆れたように眼鏡を掛け直した。


耀ひかりちゃんって意外と面倒臭いよね。早く家に帰ってゲームすれば良いのに」


「あのな…告白を振るのは意外としんどい。ましてや面と向かってなんて、さらにしんどい。その儀式を避けられるのなら放課後のゲームを我慢するくらい余裕だ」


「本気度を確かめる割には振ること確定なんだね」


「まぁな…オレは恋愛とかに興味ないんだ」


「そう言ってる癖にモテモテで羨ましいよ」


「モテモテって言っても告白されたのは……たぶん30回くらいだぞ? 人生のトータルで」


「十分多すぎるよ」


 間髪入れない城咲しろさきの皮肉げなツッコミに、耀ひかりは親指をグッと立てた。


「さすが城咲しろさき…ナイスツッコミだ…」


「全く……居ても良いけど邪魔はしないでね」


 そう言って城咲しろさきは原稿用紙に再び向かい始める。


「やはり…持つものべきは友達…」


「はいはい友達友達」


 耀ひかりの呟きに城咲しろさきはペンを進めながら適当に答えた。


 それを見て耀ひかりは邪魔をするのを辞め、スマートフォンでゲームの情報サイトを閲覧し始めた。




「ホントに鍵が開いてるのか……?」


 時刻は夕焼け色の空が沈み始めた頃。


 耀ひかりは屋上への扉に手を掛けていた。

 城咲しろさきが部室を閉めて下校してしまったため、耀ひかりはこうして渋々と屋上へ足を運んでいたのだ。


 ガシャリと取っ手を捻り、扉を押すとあっさりと開いていく。

 太陽が沈み、外は東側がすでに暗くなっていた。


 屋上に来るのは初めてだな。

 いったい呼び出した奴はどうやって開けたんだ…。


 ヤバイ奴じゃなきゃ良いんだが。


 そう思いながら耀ひかりが屋上を見回すと、彼女は入り口へ背中を向けてそこに居た。


 夕日を浴びて煌めく黒髪。

 それが少しだけ風に揺られて棚引く。


 耀ひかりが予想外の人物に真顔で立ち尽くしていると、彼女はゆっくりと振り返る。


「あぁ…待ちくたびれた……」


 耀ひかりを射抜くのは、力強い黒の瞳。


 そこに居たのは果たして、今注目の的である転校生。漆羽うるしばね京子きょうこその人であった。


「随分とこの私を待たせるではないか…結城ゆうき耀ひかり?」


 バタン!と耀ひかりの後ろで扉が力強く閉まった。


 二秒ほどフリーズしていた耀ひかりであったが、重く口を開く。


「オレを呼び出したのはオマエか…? 転校生」


 それを聞いた漆羽うるしばねがクツクツと笑い声で喉を鳴らした。


「私以外に誰が存在すると言うのだ? 結城ゆうき耀ひかり


 謎の張り詰めた緊張感が耀ひかりを襲う。

 この緊張感は耀ひかりが前世で強敵を前にする時、必ず感じていたものだ。


 な、なんなんだよコイツ……。


 漆羽うるしばねを半分だけ西から夕日が染めるが、耀ひかりにはそれが逆に、彼女が半分だけ闇に染まっているように見えた。


 ツー、と耀ひかりの背中を冷や汗が伝っていく。


「……。…い…いったい何が目的なんだ? いや…オマエ…何者だ?」


「何者か……だと? クク…貴様は私を知っている」


 漆羽うるしばねが笑みを浮かべながら一歩、一歩、とゆっくりと近づいて行き、それに対して耀ひかりも後退りしていく。


 耀ひかりの顔は強張り、青い瞳は恐怖の色に染まっていた。


「し…知らない…。オレはお前とこの学校で初めて会ったはずだ…。そ、それ以上近付くと人を呼ぶ…!」


 ピタリ…と耀ひかりの言葉に漆羽うるしばねが立ち止まる。

 

「人を呼ぶ…か…。さては乙女だな」


 そう呟いた漆羽うるしばねが真顔で俯き、その瞳を閉じた。


「私…いや、我……と言えば分かるか……?」


 漆羽うるしばねが顔を上げ、閉じていた瞳を耀ひかりへギョロリと向ける。

 その瞳は紅く染まり、口元は好戦的な笑みに歪んでいた。


「選ばれし人間…勇者よ……」


「な……」


 耀ひかりは目を大きく見開き、絶句する。


「クク…ふふ…ふはははは…!」


 それを見た漆羽うるしばねは声を出して笑った。


「あぁ…! 随分と面白い顔をするのだな勇者よ! さては貴様! 完全にこの世界に馴染んだな!?」


 漆羽うるしばねの高笑いを背景に、ようやく耀ひかりの顔に理解と平常の色が宿った。


「ま…魔王……! ば、馬鹿な…! 有り得ん!!」


「ククク…何が有り得んのだ? 勇者よ」


 耀ひかりの全身から脂汗が吹き出る。


 コイツがなんでこの世界に…!!


「何もおかしな話では無い。貴様があの場で死に絶え、この世界へ転生した。ならばそれは貴様に限った話ではない。道理であろう?」


 魔王の言葉を無視し、耀ひかりは全身に魔力を漲らせる。

 

 すると耀ひかりを中心に激しく空気が乱れ、漆羽うるしばね耀ひかりの制服や髪がバサバサと風に揺られた。


「何が目的だ…! 魔王…!!」


「なに…わたしの目的は単純明快の一言に尽きる…」


 グワンッ…と漆羽うるしばねから可視化できる程に濃い闇の魔力が周囲へ迸った!


 ビキリ…と校舎のコンクリートにヒビが入り、屋上のフェンスがグニャリと反り返る!

 そして学校中の窓ガラスが割れる音が響き渡った!


 耀ひかりはと言うと、その闇の本流の中、自らの身体を魔力で包み込み身を守る事で精一杯だった。

 両者の間には隔絶された実力差が横たわっている。


 今の耀ひかりには聖剣も無ければ、仲間も居ないのだ。

 

わたしの目的…それは勇者。貴様との再戦だ」


「くっ…さ、再戦だと…?」


 漆羽うるしばねはかつての出来事を思い出すように夜空を見上げた。

 すでに夕日は完全に沈んでいる。


「……前世でわたしは、脳天に聖剣を叩き付けられて死亡した。勇者よ。他ならぬ貴様自身の手によってな」


 漆羽うるしばね耀ひかりを紅い瞳でギロリと射抜く。


「貴様がここに居ると言うことは、相討ちとなったようだが…それでも屈辱である事には変わりない」


 それを聞いた耀ひかりは警戒しながら、魔力で身体能力を強化していく。

 まずは神経系。その次に筋肉だ。


「完璧であるはずのわたし唯一の汚点。貴様への敗北を今こそ払拭する…!!」


 漆羽うるしばねはバッと耀ひかりへ指先を向けると、闇の魔力を身体からみなぎらせる。

 それに対して耀ひかりの警戒心が一気に高まった。


 来るのか…!

 

 しかし漆羽うるしばねは何もすることなく、そのまま力無く腕を下ろした。


「はずであった……」


 漆羽うるしばねは眼をゆっくりと閉じて、再びゆっくりと開く。

 

 すると紅かった瞳は黒色に戻っていた。


「しかしどうにも、私は思い違いをしていたらしい」


 スタスタと歩いてくる漆羽うるしばね耀ひかりは身体を強張らせたが漆羽うるしばねは何かしてくる事もなく、そのまま耀ひかりと擦れ違った。


 耀ひかりは警戒を緩めず、振り返って彼女に決して背を向けない。


 しかし漆羽うるしばね耀ひかりに反応することなく、屋上の扉に手を掛けた。


「勇者…いや、結城ゆうき耀ひかり。今の貴様を殺したところで私の目的は果たせそうにない」


 そう言った漆羽うるしばねは歪んで上手く開けなくなった扉を強引にバキン!と取り外すと、そのまま立ち去って行った。



 そして屋上に1人残った耀ひかりは緊張の糸が解れたように、その場にペタンと座り込んだ。


「魔王も…こっちに来ていた…」


 しばらくボーッと座り込んでいた耀ひかりは…元勇者はそのうち少しだけ頬を無意識に緩めた。


 平和な日常が崩壊した予感。喜ばしい事ではない。


 だが――


「そうか…オレは世界を救えたんだな……」


 夜空に浮かぶ欠けた月が、地上を明るく照らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る